六章・懐疑(3)
「まあ、今日くらいは殿下も、ゆっくり休みたいかもね」
そう言って立ち去った月華を見送り、改めて部屋の中へ戻る。朱璃はまだ丹念に室内を調べて回っていた。
「何してるの?」
「伝声管か何かが仕込まれてないか調べてるのよ。盗み聞き用に。もしかしたら、のぞき穴かもしれないわね」
「用心深いなあ……」
「アンタが能天気なだけ。忘れてるようだけど、ここは敵地なの」
しかし結局、それらしいものは見つからなかった。
「盗聴器になる符があるのかしら? 紙一枚ならどこにだって仕込めるし、見つけるのは難しいか……」
「疑り深いなあ」
「だーかーらー、アンタが人を疑わなすぎなの」
がなりつつ、ベッドに座ったアサヒの膝へ自然と腰かける朱璃。いきなり来ると思っていなかった彼の方が驚かされる。
「え? あの、朱璃……さん?」
「行動で示すんでしょ」
聞かれてたのか。顔を真っ赤にするアサヒ。てっきり盗聴器探しに夢中で聞いていないものかと。
「しばらく誰も来ないわよ。それとも外に誰かいる?」
「い、いない……」
信用されているのか、それとも隠れてるだけかはわからないが、とにかく北日本のあの地下室と違い、扉の前に目に見える形で護衛などは立てられていなかった。彼にも、あるいはという気持ちがあったので確認済みだ。
「あの婆さんの言うことは一理ある。今回の一件を解決して、ドロシーも無事片付けられたら、アタシもアンタも長生きする可能性が高い。でも“記憶災害”のアンタはそれ以上歳を取らず、ずっとそのままかも。だとしたら、アタシはいつか先に死ぬ」
まだ、アサヒが歳を取らないと決まったわけではない。
でも、そうなる可能性は否定できない。彼は“記憶災害”なのだ。このまま永遠に若者として生き続け、妻だけが年老いて朽ちるのかもしれない。
だからと続ける彼女。
「作っといたらいいじゃない。子供や孫がいれば、アンタだって寂しくないでしょ。王国としても万々歳だわ」
「……」
そこで初めてアサヒは気付く。こちらに顔を向けようとしない朱璃の、両耳が真っ赤になっていることに。本人は多分気が付いていない。平静を装っていて、声の調子もいつも通りだから。
ああ、可愛いなと思った。
自然に名前を呼ぶ。
「朱璃」
「なに?」
「こっち向いて」
「なんで?」
「……」
もどかしくなったアサヒは彼女をヒョイと持ち上げ、横抱きした。予想通りに紅潮している顔をまじまじと見つめ、見開かれた青い瞳を覗き込む。
「な、なによその目はっ!」
「朱璃を見てる」
「だから、なんで見てるのかって……」
「可愛いから」
「ハァ!?」
形の良い眉を逆八の字にした顔へ、半ば無意識に顔を近づけるアサヒ。
しかし瞬間的に朱璃が身を硬くしたことで、辛うじて理性が働く。
ちゃんと同意を得たい。自分が愛されていると感じたい。
「……いい?」
「……」
朱璃は何かを言いたそうに唇を震わせた。そのまましばらく無言で、やがて散々迷ってから一言だけ返す。
「さっさとしなさいよ」
その言葉で、結婚式の誓いのキスを思い出した。
未遂に終わったあれだ。
「そうだ……あの時は結局、カトリーヌさんに邪魔されたんだった」
「コラッ!」
何故かグーで殴られた。それもアゴを。
竜じゃなかったら昏倒している。
「なんで?」
「こういう時に、他の女の名前を言うんじゃないわよ」
「そういうものなの?」
「そういうもの」
そうなのか、これからは気を付けないと──一つ賢くなったアサヒは今度こそ自分の方から口付ける。
何度も経験したことなのに、今までにないほど心地良かった。瞼を閉じると唇の感触や香り、肌に感じる熱がより鮮明に感じ取れる。その一つ一つが脳を刺激して思考を真っ白にしていく。
違う。赤く染め上げられていく。もっと、もっとと衝動が湧き上がり、もう二度と離れたくないとさえ思った。
その願い通り、キスは長く続き、微かに残っていた冷静な部分がそろそろかなと考えた時点で朱璃の腕が首に回ってきたため、さらに延長する。アサヒも彼女の小柄な体を持ち上げ、できるかぎり優しく抱き返した。
結局、何分そうしていたのかわからないが、やがて彼の方から顔を離す。密着しているうちに相手の鼓動が聴こえて来て、それが物凄く激しくなったことに驚いたから。
「あ、朱璃、大丈夫?」
まさか窒息させてしまったのでは? 心配して覗き込んだ彼の瞳を、いつになくとろんとした眼差しで見つめ返す彼女。
「……朱璃?」
「もう一回……して」
「え?」
「もう一回、アンタからして……そしたら、続きは許してあげる」
「うっ」
この先に進む勇気はまだ無いと、見抜かれてしまっていた。
「ごめんね……」
「謝らなくていい。アンタがヘタレなことは知ってる。だから、早く」
急かされ、ゴクリと唾を飲むアサヒ。
そしてまた顔を近付ける。
直前、思い出した。
「愛してる」
まだ、この一言を言っていなかったと。
──数時間後の深夜、気配を感じた朱璃が目を覚まして身を起こすと、すぐ傍の椅子に月華が腰かけていた。いったい、いつの間に入り込んだのか。
あるいは、ずっとそこにいたのかもしれない。
「この部屋はどう? 気に入ってくれた?」
「ええ、まあね……しっかり改装されてるから居心地は良いわ」
実際、城の祖母の寝室と比べてもさらに豪華な内装だ。それは北日本の代々の王が華美な装飾を好まない性格だったからでもあるが。
「驚かないのね?」
「来そうな気がしていた」
そう感じたことに根拠は無い。
でも何故か予感があった。
「フフ……まあ、私と貴女の“縁”を考えれば、不思議な話ではないわね」
「縁……?」
「気にしないで。今の貴女には大して意味の無い話」
「なら、どうでもいい。アンタの言う通り長旅で疲れてるの。しっかり寝ておきたいから、さっさと用件を言って。あと、コイツが起きないのもアンタのせい?」
同じベッドで眠るアサヒを指差す。本来なら睡眠の必要も無いという特殊な体質の彼が、どういうわけかこの状況で眠ったままだ。目の前の女に何かされたに違いない。
「人間を模してるだけあって、術はしっかり効くようね。オリジナルの彼と同程度に経験を積んでいたら、違ったかもしれないけれど」
「霊術……」
「そう、貴女はそれを学びに来た。蒼黒退治は実は二の次」
「悪い?」
「いいえ」
「まさか、今ここで教える気なの?」
「そこまで非常識じゃない」
深夜に人の寝室へ忍び込んだ女は、皮肉を言って小さく笑う。
「ただ、貴女に霊術を仕込む上で一つ気がかりなことができた」
「なによ? もったいぶらずに早く言いなさい」
「そうね、せっかちさん」
一転、眼光鋭く問い質す。
「どうして彼を止めたの?」
「アンタ……やっぱり覗いてたのね」
「昼間教えたでしょう、この街は私の結界の中にある。全て伝わるのよ。それより答えて。あの時、貴女が余計な一言を言わなければ、彼はそのまま貴女を抱いた」
「そう? アイツは根っからのヘタレだと思うけど」
「思春期の少年の性欲を侮ってはならない。あのキスで彼は完全にその気になっていたわ。あとほんの一押しで北日本の願いは成就できた。王族である貴女の中に彼の子種が宿ったでしょう。なのに、それがわかっていてあえて止めたわね?」
『そしたら、続きは許してあげる』──この余計な一言さえ無ければ、間違い無くアサヒは最後の段階まで進んでいた。
「ひょっとして怖いの?」
「まさか」
即座に否定する朱璃。
恐怖心など、とうに失くした。
父を失った日に。
「なら、貴女は彼を信用してないのね。いえ……彼の中の“紅銀”を」
「……」
そちらは否定できない。実際、シルバーホーンに対し心を許してなどいない。奴と自分達の関係はあくまで利害の一致に基づくもの。それだけ。今もあの“竜”は父の仇で必ず打倒すべき存在。
「でもね、彼は貴女の夫の半身なの」
「わかってる」
「なら」
「必要無いでしょ」
何が信用だ。
信用も信頼もいらない。
そんなもの無くたって戦いには勝てる。
ましてや敵を信じるなど、馬鹿馬鹿しいにも程がある。
「勝つためには情報を集め、策を練り、必要な物資と人員を揃えればいい。もちろん失敗した場合に備え、次善策も用意する」
「優等生の回答ね。貴女らしくない、あまりにもつまらないお言葉だわ、殿下」
月華の表情には失望の色が表れた。
「じゃあ、どうしろっての? アタシはちゃんとやっている。アレのことは信用も信頼もしていないけど、きちんとそれらしく振舞って繋ぎとめているでしょ?」
シルバーホーンが重要な戦力であることは否定しない。だからこそ手を結んだ。使えるものはなんでも使う。そのために嘘をつかなければいけないなら、もちろんつく。本心を偽り演技を続け、いつか奴の“心臓”に銃弾を撃ち込む瞬間まで、この嘘を貫き通す。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます