二章・朱糸(2)

 夜になり特異災害対策局本部地下の寝室へ戻ってきた朱璃は、椅子に座って読書中の夫を見つけ、詰問する。

「いきなり局長室に押しかけたって?」

「う、うん」

「なんでそんなことしたのよ?」

「挨拶だよ。ほら、義理の親子になったのに、まだあの人とはちゃんと話もしてなかったから」

「嘘ね」

 スラスラと回答されたため即座に断定する。おおかた、あらかじめ訊かれることを想定して考えておいたのだろう。いつもの彼なら後ろめたい事情が無くたって言い淀むはずだ。気が小さいから。

 見透かされ、アサヒはしおしおと委縮した。

「いや、あの……見送りに来て欲しいって頼みに行って」

「アンタの?」

「朱璃の」


 二日後、自分達は班のメンバー全員と王室護衛隊隊士一二名を伴い、大阪へ向け旅立つ。北日本の人間だけでなく、さらに南日本の術士も加わる予定。

 長く休戦が続いているとはいえ、敵国の中心まで行くわけだから、二度と北へ戻れないかもしれない。そう考えると、いてもたってもいられなくなった。これが局長室を訪ねた真相。どうしても出発前に朱璃と緋意子の関係を修復しておきたかった。

 余計なお節介だという自覚はある。


「あの人は局長よ? 今回の任務は対策局始まって以来の大仕事だし、頼まれなくたって見送りにくらい来るわ」

「うん、お義母さんにもそう言われた」

「でしょ?」

 彼が“お義母さん”と呼んだことに、朱璃は片眉を上げる。けれど、改めさせようとはしない。本人が親子の縁を断ちたがっているのだから“局長”と呼ぶよう注意したことはある。なのにアサヒは頑なに変更を拒んだ。変なところで意固地な奴なのだ。

「ほっといてあげなさい」

 母はああいう人だ。別に悪いことだとは思わない。人間は千差万別の生き物。同じ種でありながらこれほど外見と性格に個体差のある生物など地球上のどこを探しても他に存在しないだろう。

 だからそれでいい。彼女が自分を恐れようと、嫌おうと、こちらとしては事実を淡々と受け入れるだけ。親子の縁を切りたいなら切ってくれて構わない。

 それで母の心が少しでも安らぐなら、別に気にしない。

 朱璃は踵を返した。

「あれ? また出かけるの?」

「風呂よ。一緒に入る?」

「!」

 ぶんぶんぶん。首と手を高速で左右に振りたくるアサヒ。激しい否定のジェスチャーに彼女の方は長くため息をつく。

「アンタね、アタシら夫婦なのよ? わかってる?」

「ごめん。でも、まだ心の準備が……」

「ハァ……」

 彼はずっとこんな調子で、長い昏睡から目を覚ました後も、一向に自分へ手を出そうとしない。せっかくその気にさせるべく、引き続き同居してやっているのに。性生活に興味が無いなら仕方ないが、コイツの場合、単に度胸が無いだけなので頭に来る。

「まあいいわ。代わりに、わかってるわね?」

「うん」

 じゃあそういうことでと、その場で服を脱ぎ始める朱璃。アサヒは慌てて体全体を回転させ、顔を明後日の方向へ向けた。

「だから脱衣所で脱いでくれよっ」

「うるさい、耐性付けてもらわなきゃ困るのよ! この童貞!」

 罵りつつ、浴室へ移動する。

 そして湯船に身を沈めながら、ふと疑問を抱いた。

「アイツ童貞よね?」

 問いかけても、ここに本人がいない以上、答えはわからない。

 自分は初めてなのに、向こうがそうでなかったら、なんとなく負けた気分になる。それからしばし考え込み、結果、いつもより長湯してしまった。




 風呂から上がって寝間着に着替え、寝室へ戻ると、アサヒは約束通りベッドの上で待機していた。友之ともゆきから借りた本を読み、自然な様子でくつろいでいる。

(なんでこういう時だけ堂々としてんのよ?)

 釈然としない。

「あ、朱璃。今日は長かったね」

「アンタのせいでしょ」

「え?」

 いきなり身に覚えの無い咎で責められ、困惑するアサヒ。

 その隣に、朱璃は飛び乗るようにして身を投げ出す。

 弾力のあるマットがボスンと音を立てて跳ねた。

「さっさと寝るわよ!」

「わかったよ」

 まだ読んでいたかったのかもしれない。けれど彼は唇を尖らせながら本を閉じ、朱璃と自分の体に毛布をかけると、右腕をそっと彼女の体に乗せた。

「重くない?」

「言ったでしょ、遠征中はいつもあのデカい銃を抱えて寝てんの。だから、このくらいの重みがないと落ち着かないわ」

 いつもの言い訳を返し、朱璃も向かい合った姿勢で彼の体に手を添える。抱き合うわけでもなし、離れるわけでも無し、この微妙な距離感が五日間続いている。男として自分を抱く度胸が無いなら、せめて夫として一緒に寝なさいと彼女が命令したためだ。

 触れた部分から伝わって来るアサヒの体温。少し熱いくらいに温かい。

(これが、魔素で出来た紛い物だなんてね……)

 こうして毎晩一緒に眠るうち、次第にその現実を忘れつつある。

 いつかは何も気にせず、もっと近くで寄り添える日が来るのだろうか?

 慣れが必要なのは、実は彼女も同じだった。

「……ちゃんとそこにいなさいよ。アンタはアタシのものなんだから」

「わかってる。照明、消すよ」

「うん」

 次の瞬間、天井近くに浮かんでいた光の球がアサヒに向かって吸い寄せられる。そしてそのまま彼の体に取り込まれ、消えた。

 魔素で照明を作る技術は二通りある。片方は魔素を単純に圧縮して放出するもの。もう一方は疑似魔法で作り出す光。こういう室内の照明に使う場合は前者だ。

 疑似魔法、つまり意図的に発生させた小規模記憶災害には一〇分の維持限界という縛りがある。しかし単純に魔素を放出しただけならそのルールに囚われず、空気の流れに削られて自然に拡散するまで長時間輝き続ける。十分な光量を得るためには疑似魔法の数倍の魔素を消費せねばならず、なおかつ位置が固定されるというデメリットもあるが、魔素の光は燃料を使わず煙も出さない。だから魔素許容量に余裕のある人間なら大概身に着けている技術だ。疑似魔法に比べて習得難度も低い。

 もっとも、暗くしたいなら普通は魔素を散らすか、何かで覆って光を遮る。人外の魔素吸収能力を使って吸い込んで消すなんて芸当は彼にしかできない。

 暗くなった視界の中で、一瞬だけ朱璃の目の前に銀色の輝きが生じた。アサヒの体内に宿る高密度魔素結晶体“竜の心臓”が放つ光。

 そこに額を当て、心臓の本来の持ち主に向かって念じる。

(アタシの気持ちは変わっていない。アンタのことは必ず殺す。でも、アンタがアサヒと一緒にいる間は我慢してあげる。お互いの利益のため、今は共闘しましょう)

 それは毎夜繰り返される宣戦布告。そして自分へ言い聞かせるための言葉。

 こうでもしないと、父の仇の半身を、いつか本当に愛してしまう。

 この心臓を撃ち貫く時、躊躇なんかしてはいけないのに。




 その頃、とある場所で、一人の青年が一世一代の賭けに出ようとしていた。

「言うんだ……もう今しか無い。大阪に向かって出発した後じゃ、きっと遅い。今ここで言わなきゃ駄目なんだ……」

 ブツブツ呟きつつ、地下都市を支える柱の一つ──ピラーと呼ばれる高層建築の一室をうろうろする。床には本が山積みで、悩みながらも器用にそれを避けられるのは、ここが彼の家だから。机の上には書きかけの原稿。副業で作家をしているのだが、肝心の進捗は芳しくない。出発前に次作を完成させておきたかったのに、数日前、衝撃の真実を聞いて以降は一行も筆を進められずにいる。

「カトリーヌさんが、南のスパイだったなんて……」

 再び、頭を抱えてうずくまる友之。星海班にスカウトされて以来ずっと恋焦がれていた相手。彼女が、よりにもよって敵国みなみの工作員だった。そんなフィクションみたいな現実に打ちのめされ、にっちもさっちもいかなくなってしまっている。

 これでは駄目だ。自分達はもうすぐ大阪へ行く。その前にこの葛藤に決着をつけておきたい。任務に私情を持ち込むなど許されるはずが無い。

 自分にそう言い聞かせて、ついに意を決した彼は靴を履き、玄関のドアを開けた。カトリーヌはまだ表向き特異災害対策局の一員。そのため、戻ってからも以前住んでいた部屋に滞在している。監視が付いてるだろうが、同じ班の仲間ということで、多少の会話なら許されるはずだ。

「いや、それともやっぱり、班長か局長に許可を取ってから──」

 考えつつ廊下へ出て、予想外の顔に出くわす。

「あっ」

「うおっ」

 びっくりしてのけぞった。何故か小波こなみが立っている。

「な、何してんだよ?」

 若干気まずい。思わずいつもより強い調子で訊ねる。

「そ、そっちこそ」

「ここはオレの部屋だよ」

「知ってるよ」

 小波は幼馴染で、昔から一つ下のフロアの住人だ。父と母が記憶災害で亡くなった後は、一時的に車家に預けられていたこともある。いわば兄妹同然の関係。

「なんか用か?」

 こっちは今からカトリーヌのところへ行かなきゃならないのに。気が急いている彼の声には、知らず責めるような響きが混じった。

 敏感にそれを感じ取り、俯く小波。

「……いや、たまたま通りかかっただけ」

「なんだ、そうか」


 そんなはずがない。

 でも、友之はそうなんだと思いたかった。


「お前、そんな格好で出歩いたら風邪ひくぞ」

 いつも通り、兄貴風を吹かす。小波は寝間着姿。日中着ているスキンスーツと同じ素材だが、薄手に作られており寝汗対策で露出している部分も多い。地下都市内の気温が高く、常に一定で保たれているとはいえ、やはり夜は昼よりも冷える。

 心配してかけた言葉に、小波は「そうだね……」と素直に同意した。でも、表情は納得していないような、やるせないような、そんな感じに見える。


 昔、よくこういう顔をしていた。

 決まって、泣き出す直前だった。


「……お前」

「もう帰る。どっか行くとこだったんだろ? 邪魔したね」

「あ、いや……」

 呼び止めようとしたが、上手く言葉が出て来ない。

 小波はそのまま立ち去ってしまった。

 背中に向かって手を伸ばしたのに、やはり何を言えばいいかわからない。やがて彼女の姿が見えなくなった時、以前、カトリーヌに言われたことを思い出す。


『あんな、友之君。うちを言い訳にしたらアカンて』


 ──あの時は、どういう意味かわからなかった。いや、そうじゃない。本当はわかっているのに、あえて目を逸らした。

「オレ……オレは……」


 もう一つ、脳裏に浮かんで来る光景があった。

 三週間前のチャペルでの一件。重傷を負い、運ばれて行く朱璃を追いかけ、名前を呼び続けたアサヒの姿。

 そんな二人の姿を脳内で別の人物に置き換えてみる。


「……そっか」

 歯を食いしばり、ようやく認めることができた。同時に、なるほどと納得する。自分は恐れていたんだと。だから、ちょうどいいポジションにいた先輩を──

 かっこ悪ぃ。そう呟いて部屋の中に戻る。

 そして布団へ潜り込み、猛省した。

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