第31話 ナンパ


 平日で人が少なければさっと入ってさっと済ませるが、今日は土曜日、あちこちから歌声が漏れ出しており、男子トイレにも誰かがいるかもしれない。

 今この見た目で入って見つかれば、ちょっとした騒ぎになってしまう。変態だと指を差されるのは百歩譲って飲み込むとして、綾乃にまで危害が及ぶのは避けたい。


 とはいえ、女子トイレに入るわけにもいかない。

 バレない自信はあるが、京介の中の倫理観がそれを許さない。そこまでするのなら漏らした方がマシである。


 多目的トイレはなく、店を出て探すほど膀胱に余裕もない。

 いっそペットボトルで、とバカな考えが浮上しかけて、それこそ絶対にないと顔を振った。そこまでするなら、男子トイレに入る方がまだハードルが低い。


「あれ? 何してんの?」


 大学生くらいの茶髪の男に声をかけられた。

 その隣には、黒髪の男が立っている。

 京介は二人の顔を交互に見て、うーんと首を捻った。口ぶりから察するに、どうやら自分は彼らと知り合いらしい。単純に人違いの可能性はあるが、どちら様でしたっけといきなり聞くのは失礼に当たる。


「友達と一緒? 暇ならオレらと遊ぼーぜ」


 飛鳥と勘違いしているのではないか、と内心首を捻った。

 綾乃は飛鳥をイメージしてメイクしたと言っていた。我ながら似ていると思うし、親でもなければ勘違いしてもおかしくない。


(あいつ、こんなのと付き合いあるのか……)


 琥太郎よりも軽薄そうな見た目に、兄として心配してしまう。飛鳥の社交性なら陰から陽まで様々な友達を取り揃えているとは思うが、明らかに年上というのが不安を高める。


「ひ、人違い、です」


 声をボリュームを小さく絞り、裏声でそう訴えた。

 飛鳥の友達なら声で判別がつくだろう。それに彼女は、風邪でもない限りこんな小さな声で喋らない。


「は? 何言ってんの。これから知り合うんじゃん」


 ぼふっと、黒髪の男に肩を抱かれた。

 柑橘系の香水の香りが鼻腔を突く。


(………………え?)


 頭の中が、モヤでもかかったように白く塗り潰されてゆく。

 理解できない事態を前に、思考が完全に足を止める。


 数秒ほど置いてようやく稼働再開した頭で、へらへらと笑う二人を見やった。

 何だ、どういうことだ。一から十まで意味がわからない。

 確かなのは、二人は飛鳥と面識がないということ。つまり、明確な意図をもって京介に話しかけているということ。


 面識のない者に対して、声をかけ、一緒に遊ぼうと誘う行為。

 それを指す言葉を、京介は知っていた。


(ナンパ、されてる……?)


 男の大きな手は、京介の肩を力強く掴んでいた。



 ◆◇◆◇



 一曲全力で歌い切り、ふぅーっと息をつく。

 先ほどよりいくらかマシな気分だ。もにょもにょも、むにゅむにゅも、絶叫と共にどこかへ行った。心地よい疲労感に浸りながら、落ち着きを取り戻した頭で京介の発言を反芻する。


『いや、佐々川さんはいつ見ても綺麗だけど』

 

 自分の容姿については、深く理解している。この顔で、この身長で、この手足で、お金を貰っているのだから、ブサイクだと謙遜するほど厚顔無恥ではない。


 可愛い、綺麗、素敵と。

 どれも耳にタコができるほど聞いたし、何度聞いても嬉しい言葉だ。褒められて素直に喜べないほど、この頭は難解な造りをしていない。


 しかし、いちいち照れていては仕事にならないし、日常生活にも支障をきたす。

 喜びながらも受け流すすべを心得ている。肯定されることへの対処法を知っている。……つもりだった。


(も、もうやめとこ。これ考えるの)


 思い出すと、またもにょもにょし始めた。

 症状が軽いうちに思考を放棄する。


 彼とは友達で、勉強を教わったり料理を振る舞ったりする仲で、たぶん卒業までこの日々は変わらない。そこから先はわからないけれど、きっとお互いに別々の大学に行って、たまに連絡を取り合うような関係に落ち着く。


 それでいいし、それがいい。それ以上は望まない。


「……」


 本当にそうなのか、と天井を仰ぐ。

 わからない。わからないが、違うような気がした。何が違うのかもわからないが、漠然とした違和感がある。


「……あ、あれ」


 ぼんやりとした脳みそで、別の違和感に気づいた。


 京介が座っていた場所に視線を配り、部屋を出て行く際に吐いた台詞を思い返す。

 彼は何と言っていた。トイレに行く、と言っていなかったか。

 今の彼は、誰がどう見ても女の子だ。男子トイレに入って誰かに見つかれば、大変なことになりかねない。かといって、彼に女子トイレに入るような豪胆さはないだろう。


(もしかして……)


 さーっと顔から血の気が引く。

 大きい方でもない限り、そろそろ戻って来てもいい頃合いだ。どちらのトイレにも入れず、誰にも助けを求められず、漏らして泣いているのではと嫌な想像が広がる。


 居ても立ってもいられなくなり部屋を飛び出した。

 廊下の先、トイレの前。そこには、男に絡まれている彼の姿があった。



 ◆◇◆◇



「聞こえてる? おーい、もしもーし」


 耳元で騒ぐ茶髪の男。肩に置かれた黒髪の男の手。

 左右どちらを見ても逃げ場がない。


 どうしよう、と思案した。

 実は男だと告白しようにも、人生初めての異常事態を前に声が出ない。振り払って部屋に戻ろうにも肩を掴まれて動けないし、ついて来られでもしたら綾乃に迷惑をかけてしまう。


(しっかりしろよ、僕。男だろっ)


 せめて悲鳴の一つでもあげろと心に鞭を打つが、どうにも思うようにならない。

 同性とはいえ、人間二人にこうも距離を詰められるのは初めてだ。胸中に渦巻くこの感情は、恐怖以外に言い表しようがない。


「ぼ、僕、はっ――」


 気合いを入れる。精一杯、腹の底から。

 それでも口から零れたのは吹けば消えるほどの声量で、両脇の二人にさえ届かなかった。


「……あ」


 と、その時だった。


 見上げて、声を漏らす。

 男子トイレの扉を開き、中から出てきた金髪の男。それは他の誰と見間違うはずもなく、いつもは少し恐ろしく映るその容貌が、今この時ばかりはキラキラとした王子様に見えた。


(東條……!!)


 なぜここに、と疑問に思うよりも先に、京介は彼に助けて欲しいと視線を送った。

 その意思を察してか、または状況から判断してか、琥太郎は「あー……」とドスの効いた声で漏らして後頭部を掻く。高校一年生でありながら完成された体格をしているため、たったそれだけの動作に迫力を感じる。


「……俺の連れに何してんすか?」


 不機嫌たっぷりに放たれた声に、京介は心の中の陰茎が抜け落ちる感覚に襲われた。

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