Uneasiness
♡ ♡ ♡
──翌日。
茉莉が目を覚ますと、ベッドに羚衣優の姿はなかった。それどころか、部屋自体に羚衣優がいない。
「あ、あれ……せんぱい?」
昨日あんなに荒れていた天気は嘘のように回復し、窓からは柔らかな朝日が差し込んでいた。チュンチュンと小鳥の声なんかも聴こえる。穏やかな朝だった。
茉莉は一瞬だけ、昨日のことは全て夢だったのではないかと思ったが、床に布団を敷いて寝ている杏咲の姿を見て、やはり現実だったのだと思い直した。
(えーっと、たしか昨日の夜中にせんぱいはあたしのベッドに入ってきたんだよね……?)
半分寝ぼけた頭で考えながら部屋の中をうろうろとしていると、物音を聴いてか杏咲が目を覚ました。
「うーん……おはよー」
「おはよっ、ねえあずにゃん。羚衣優せんぱい知らない?」
「おぉ? づきちゃんったらフラれちゃったのかにゃー?」
「違うと思うけど……!」
どうやら杏咲は本当に何も知らないらしい。杏咲が原因じゃないのだとすると……。
茉莉の心の中にポッと危険信号が灯った。あの羚衣優のことだ、何をするかわかったものではない。とりあえず茉莉に取れる選択肢は、羚衣優を探すということのみのようだった。
「はぁ……全く、世話の焼ける……でもそういうところも好きなんだけどねー」
「んー? 惚気かぁ?」
「うんうん、そうそう惚気。……ごめんあずにゃん。ちょっと行ってくる」
「うん、いてらー! 頼れる副会長さんは大変だねーっと」
布団から這い出して大きく伸びをする杏咲の声に送られながら、茉莉は急いで制服に着替え、 部屋を飛び出したのだった。
結論から言うと、羚衣優の捜索はそこまで骨が折れなかった。
朝に一人になれる場所を片っ端から探していった茉莉は、アーチェリー場の片隅に制服姿で立っていた。アーチェリー場は、管理しているアーチェリー部の部長がかなりずぼらな性格のため、よく鍵をかけ忘れて入口が空いていることがあるのだ。
じっと空を見上げる羚衣優の金髪は、朝の風に揺れてふわふわとたなびいている。アーチェリー場の地面にできた大きな水溜まりの上に立つその姿は、水溜まりが真っ青な空を映していることもあって、さながら空の上に立っているかのような、どこか浮世離れした雰囲気を醸し出していた。
茉莉はしばし声をかけるのを忘れてその姿に見惚れた。まるで天使のような──羚衣優の背から真っ白な翼が生えているような錯覚すら覚えた。
(綺麗……こんな綺麗な人がこの世にいていいんだろうか……?)
「……まっちゃん?」
澄んだ声で現実に引き戻されると、天使──ではなく羚衣優が茉莉の方に視線を向けながら首を傾げていた。
「もーう、酷いじゃないですかせんぱい! 愛しの後輩を置いて部屋から出ていっちゃうんだから!」
我に返った茉莉が腰に手を当てながら怒って見せると、羚衣優は小さく「ごめんなさい」と答えた。
「わたし……突然怖くなっちゃったの」
「なにがですか?」
「まっちゃんといることが……」
茉莉にとっては完全に予想外の一言だった。てっきり羚衣優は茉莉のことが好きで好きで仕方がないものだと思っていたのだ。
(いや、好きすぎるからこそ、怖いという感情が現れるのかも……? うーん、どちらにせよあたしにはよく分からないなぁ……)
「どうしてですか……?」
尋ねると、羚衣優はもう一度青空を仰いだ。そして一言一言、噛み締めるように話し始めた。
「わたし、小さい頃からお父さんとお母さんが大好きだった。とても優しくて……でもね。ある日突然二人ともいなくなっちゃった。二人にとってわたしはいらない子だったの……」
「そう……なんですか……」
「次に大好きになったのはお兄ちゃん。お父さんとお母さんに代わってわたしを育ててくれて、とても優しかった。……でも、結局わたしはお兄ちゃんにとってもいらない子だったんだ……」
「……」
「この学園に入って初めて恋をしたお姉さまも……すごく優しかったけど……結局……わたしを……」
辛そうに口を閉ざして泣き始めた羚衣優。足元の水溜まりが揺れ、まるで彼女の涙が溜まっているようにも見える。
初めて知った羚衣優の辛い過去に、茉莉はかけるべき言葉を見失っていた。
「まっちゃんもすごく優しい。こんなわたしを好きでいてくれる……だからね……わたし……この後何が起こるか……わかる気がするの」
「……せんぱい」
明らかに羚衣優は考えすぎている。ありもしないことに怯えている。それなのに、茉莉は彼女を励ますことができる──考えすぎだと断じることができる言葉をかけられなかった。
「わたし、まっちゃんと別れたくないから……!」
「それは……あたしもそうですよせんぱい! 本気でせんぱいを愛してますから!」
何度もそう言ったはずなのに、どこにも行かないと言ったはずなのに、羚衣優の不安は一向に晴れていなかった。それほどまでに彼女は──一種の人間不信の状態に陥っていたのだと茉莉はやっと気づいた。そして、人間不信になりながらも必死に茉莉にしがみつこうとしている。それも分かる。
茉莉がここで羚衣優を安心させてあげられなければ、今度こそ彼女は心を閉ざしてしまうだろう。
支えを失った彼女が何をしでかすか、想像に難くない。きっと取り返しのつかないことをしてしまうだろう。それを止められなかった茉莉は一生その事で悔やむだろう。
──だから
(考えろ……考えるんだあたし! そう、あたしは頼れるづきちゃんとして……生徒会副会長として、数々の苦難を乗り越えてきたはず……その経験を活かすなら……!)
結局、茉莉は何かいい言葉を思い浮かんだわけではなかった。その代わりに彼女は行動でそれを補うことにした。
バシャバシャと水を蹴立てながら、ソックスが濡れるのも構わずに水溜まりに入っていく茉莉。そして、水溜まりの中心に立つ羚衣優の身体をそのまま抱きしめようとした。
が、羚衣優は後ずさって茉莉をかわした。今まで示したことのない、明確な拒否の意思表示だった。
「せんぱい……」
「これでいいの……そう、これで……」
羚衣優の目尻から大粒の涙が溢れ、頬を濡らす。彼女はそのまま走り去ってしまった。
「これで……いいわけないでしょっ!」
残された茉莉はやるせない気持ちを持て余していた。苛立っているのはもちろん羚衣優の煮え切らない態度ではなく、彼女を安心させてあげられない自分自身に対して。明確な解決法を思い浮かばない自分自身に対してだった。
(とはいっても、このまま一人で考え続けても埒が明かないし……)
こんな時、茉莉が頼れる相手は一人しかいなかった。
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