第十四話 私を忘れないで
― 王国歴1118年 初春 - 初夏
― サンレオナール王都
そもそも西端の街に遠征に行ってしまったジュリエンがテネーブル家の結婚式に出席しているとは思ってもいなかった私でした。そしてあの日、晩餐会で小広間にジュリエンが入ってきた時点で私はそっと立ち去っていれば良かったのです。
姉に対して悪意のある会話にジュリエンは参加するだろうと私は決めつけていました。そうだったら私は今までになく彼に失望し、この胸の痛みも少しは和らいだのです。
それなのに彼はあの人たちと一緒になって姉を
しかし、私はクイヤール家を退職し、西端の街に遠征してしまったジュリエンはダフネ・ジルベール=ゴティエという私の本名も結局知らないままなのです。私たちの間にはもう接点はありませんでした。
私はがむしゃらに仕事と勉強に打ち込みました。時が癒してくれるのを待つしかありませんでした。
いつの日か、ジュリエンも遠征を終えて王都に戻ってくることでしょう。勤務先は同じ王宮とは言え、塔も所属部署も身分も何もかもが違います。廊下ですれ違うこともまずありません。
そもそもジュリエンにとって私は性欲と食欲を同時に満たすことのできる所に居たからちょっと手を出してみただけの女なのです。
「私だけが本気になって、こんなに苦しい思いをしないといけないだなんて、不公平極まりないわ……アイツは娯楽も多いペンクールの街で楽しんでいるというのに」
今度恋をする時は絶対にのめり込まないようにしよう、と自分に強く言い聞かせているのです。
厨房で一心不乱に料理をしている時だけは何もかも忘れていられました。その日早番だった私は昼食に出す主菜の準備が終わり、デザートのケーキのためのクリームを泡立てていました。
「何かき混ぜてんの? ちょっと味見させろよ」
背後からそんな言葉が聞こえてきた気がしました。私が忘れようと努力している男性の声によく似ています。そう言えばジュリエンに初めて声を掛けられた夜も同じようなことを言われたな、とぼんやりと考えながらも手は止めませんでした。
「おい無視すんなよな。仕事中邪魔ばかりして悪いけど」
隣に立った人はそう言って私の顔を覗き込みます。何とそれはジュリエン本人でした。私が初めて見る近衛の白地に金の制服が憎いくらい良く似合っています。
「キャッ!」
驚いて手元が狂い、クリームが左手についてしまいました。
「わ、若旦那さま?」
ジュリエンがどうしてこの王宮本宮の大厨房に居るのでしょうか。思わずクリームの器を作業台の上に置き、後ずさりしてしまいます。
「ダフネ、お前はもう屋敷を退職したんだからさ、二人きりじゃなくてもヤッてる最中じゃなくても、その呼び方は止めてジュリエンと呼べよ。それから味見させろって言っただろ?」
ジュリエンは私の左手をガッシリと掴み、そこについたクリームを舐め始めたのです。
そう言えば彼の言う通り、私はもう主従関係に縛られていません。私は大きく深呼吸をし、右腕に力を込めました。
「そうだったわ、私はもうクイヤール家の使用人ではありませんものね。この最低セクハラ野郎!」
彼の左頬を狙って私が放った拳は彼に簡単に止められ、そのまま私は彼の逞しい腕の中にしっかりと抱きしめられていました。
「近衛騎士の俺に殴りかかろうとするなんて無謀だな。それにしてもビンタじゃなくてグーはねぇだろ」
耳にそう優しく囁かれて私は力が全身から抜けていくのを感じました。今でもジュリエンのことを体が覚えている証拠です。
「私が包丁を持ってなくて良かったと思いなさいよ! ちょっと放して、皆が見ているじゃないの!」
それでも私は彼の腕の中で思いっきりもがき、彼の背中をドンドンと叩きましたが、騎士のジュリエンには無駄な抵抗でした。
「お前の上司には仕事中に乱入する許可をもらったから。まあ、同僚の皆さんには迷惑を掛けて申し訳ないが」
「はい?」
そこでジュリエンは私の体を解放し、何と私の前に土下座したのです。
「マドレーヌ・ミュニエールもとい本名ダフネ・ジルベール=ゴティエ様、子供じみた態度で貴女の気持ちを踏みにじった私のことをどうかお許し下さい。貴女を失って初めて貴女が如何に大事な存在か気付いた私は愚か者です」
「ちょ、ちょっとジュリエン、何をしているのよ、止めてったら……」
周りの目が大いに気になります。近衛騎士のジュリエンが一介の料理人の前で土下座しているのです。
「ダフネ、貴女に許してもらえるなら土下座なんて試練でも何でもありません」
そう言えば、厨房の床に這いつくばっているこの男性は先程からマドレーヌではなく私の本名を呼んでいました。
「分かったから、許すわよ、許すから! 立ち上がってよ、もう! 恥ずかしいったらありゃしないわ……」
それでもジュリエンは立ち上がるどころか、益々頭を下げています。近衛の白い制服が汚れるのでは、と余計な心配までしてしまいます。
「あり難き幸せにございます。そのついでにと言っては何ですが、私と真剣に交際することも考えていただけないでしょうか!」
「し、真剣交際って近衛で伯爵家の貴方が庶民同然の料理人の私と?
「そんな、滅相もございません。私は本気です。冗談でここまで致しません。私は貴女が居ないと生きていけません」
私は周りを恐る恐る見回してみました。同僚たちの期待に満ちた視線に居たたまれなくなりました。ここでジュリエンの申し出を蹴ると私は土下座までした近衛騎士をフッた勘違い女という烙印を押されてしまうに違いありません。
「わ、分かったわよ……けれど、真面目なお付き合いになるかどうかは貴方次第ですからね」
そこでジュリエンは顔を上げて立ち上がると満面の笑みで私を抱きしめました。
「よっしゃ、やっとお前のオッケーがもらえた。そうとなれば早速……」
そう言った彼は私の唇に軽く口付け、そのまま私の体を横抱きにし、ずかずかと厨房を横切っていきます。
「えっ? ジュリエン、何処に行くのよ! 私まだ仕事中なのですけれど!」
「時間がもったいない。俺、明日にはペンクールに戻らないといけないからさ」
「いえ、だから、ちょっと待ってっ!」
「もう待てるはずがねぇだろ」
ジュリエンは私を腕に抱いたまま歩みを止めず、厨房を出て行こうとしています。
「ゴティエ、今日の早退と明日の欠勤も許可する、今回だけは特別だ!」
「おめでとーう!」
「ダフネさん、良かったね」
「素敵ぃー!」
料理長の声と同僚たちの祝福の言葉に加え、盛大な拍手が後ろから聞こえていました。
「ちょっと、ジュリエン、下ろしてったらぁー」
「ヤダ、もう放さない」
私は手足をバタバタさせてみるものの、無駄な抵抗でした。
厨房の裏口からジュリエンは外に出て、そのまま私を抱えたまま裏門方面に向かいながら小走りになっていました。待機していた辻馬車に私は押し込まれ、馬車は走り出します。
「私をどこに連れて行くつもりなのよ!」
「コイツ、ギャーギャーうるさいけど気にするな、ただの痴話喧嘩だから」
辻馬車の御者にジュリエンがそう声を掛けています。彼はジュリエンにいくらか握らされたに違いありません。
「ちょっと、助けてぇ! この人誘拐犯よぉー!」
私の叫びは初夏の王都の空に虚しく響いていました。
***ひとこと***
ダフネの職場の皆さま、理解ある人々で良かったですね。
並み居るボスキャラを倒してやっとダフネに辿り着いたジュリエン君、絶好調で突き進んでおりますが……
私を忘れないで ワスレナグサ
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