第六章~愛はさだめ、さだめは死~③
一九九五年の時点では、死後十年が経過していないとはいえ、この稀有な経験を持つ作家の波瀾にとんだ人生が、映画化されていないことが信じられないくらいのインパクトである。
そして、ティプトリーの最期の決断を知った上で、秀明は、彼女の代表作といえる『たった一つの冴えたやり方』を、もう一度、読み直す。
再読時、この哀しくも美しい物語の最後の十ページほどは、胸が熱くなり、喉もとに詰めものが掛かった様な感覚を味わって、読み進めること自体が苦しく感じられた。
(これは、確かに読んだ後、誰かに話したくなる気持ちはわかる……)
秀明が読んだ、全部で四十編あまりの短編には、難解な内容のものもあり、すべての作品の本質を理解できたと胸をはっていえる訳ではない。
それでも、感銘を受けたという言葉だけでは言い表すことのできないくらい感情を揺さぶられた、いくつかの物語と、劇的に過ぎる作家の人生については、推薦者であるクラスメートと語り合いたいところだったが……。
語るべき情報があまりに多すぎること、そして、なによりも、作品と作者の人生を想う時に、自分の感情を抑えられる自信がなかった。
(すぐにでも、吉野さんと話したいけど、もう少し頭の中身を整理しないと……)
(なにより、もっと、この作家について知りたい!)
(明日は、梅田に映画を観に行く予定だし、本屋でティプトリー関連の情報を探してみるか……)
そう考えた秀明は、文庫本を読み終えた翌日、公開されたばかりの映画『恋する惑星』を観に行くついでに、各巻のあとがきに記されていた内容を頼りに、大阪・梅田の古書店や大型書店を巡り、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの特集が組まれた数冊の雑誌のバックナンバーを購入して、読み耽った。
ティプトリーもとい、アリス・シェルドン自身が、自らの人生を語った《ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア・インタビュー》や、短編『接続された女』の作中に隠された作家の過去に関する評伝などを読み、この稀有な作家への理解と興味が深まったところで、ようやく、彼女に連絡を取ろうと決心が着く。
七月の最終日の午後────。
秀明は、自宅の固定電話の前で腕を組んでいた。
(吉野さん家に電話をするのは、やっぱり緊張するなぁ……)
スマートフォンはもちろん、携帯電話すら中高生が所持するまでには普及していなかった一九九五年当時、クラスメートといえど、学校の外で連絡を取り合う手段は、相手の自宅に電話を掛ける以外に皆無といって良かった。
クラスの連絡網(令和の時代には考えられないことだが、新学期とともに、クラスメートの自宅の連絡先が書かれたプリントが配布されていた)を頼りに、吉野家の電話番号をプッシュしようとする。
彼女の自宅に電話を掛けるということは、クラスメートの彼女自身ではなく、両親もしくは家族が電話に出る可能性もある訳で、その事を考えただけでも緊張感が高まる。
これまで、女子との接点をほとんど持たなかった男子高校生にとって、このシチュエーションは、それなりに、心理的ハードルが高いことを読者諸氏に理解いただきたいと思う。
フ〜ッ
と。深呼吸をした秀明は、試合の大切な場面でフリーキックを任されたプロサッカー選手の様に、ポジティブなイメージを描きながら、集中力を高める。
呼吸が整ったところで、078――――――と番号をプッシュする。
Trrr・・・Trrr・・・Trrr
呼び出し音が三回鳴ったところで、
「はい、吉野です」
聞き慣れた声がする。
「あっ、吉野さんのお宅でしょうか? 稲野高校の有間と申します」
「有間クン! 十日ぶりかな? 元気にしてた?」
久しぶりに聞く吉野亜莉寿の声に、ホッと安堵する。
「あっ、うん。体調は問題ないよ」
「なかなか連絡が来ないから、どうしたのかな、って心配しちゃったよ」
「そっか、ゴメン。借りた本を読むのに時間が掛かったのと、その後も、色々と気になることがあって調べたりしたことがあったから、連絡が遅くなってしまって……」
「そうなんだ? それで、四冊とも読んでくれたのかな?」
「うん! 先週末には読み終わってたけど、色々と感じることや考えることが多すぎて、頭の中身を整理してた」
「そっか。もうお話しできる状況になった?」
「うん。すぐにでも、吉野さんと会って話したい気分かな」
「わかった! じゃあ、明日いつもの喫茶店で午後一時に待ち合わせにしない?」
「了解! 色々と思ったことを話したいし、聞きたいこともあるから」
「うん。じゃあ、また明日!」
無事に通話が終わり、再び安堵する秀明。
(緊張したけど、何とか普通に終わって良かった)
(色々、聞きたいこともあるけど、答えてくれるかな?)
秀明には、今回の読書体験を通して、語り合いたいことともに、吉野亜莉寿自身に確認したいと思うことがあった。
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