第187話まだ生きるなら…
跪く定吉に抱き締められながら座り込む春陽の両腕も、ゆっくり、定吉の背中を抱き締めようとする。
春陽が定吉に付いて行くと言う意思表示をする為に。
戸惑いながら、ゆっくり、ゆっくり…
しかしその途中、春陽はさっき定吉の姿に重なった朝霧を思い出した。
まるで蜃気楼のように春陽の目の前で揺らいだ朝霧のその姿は例え幻でも、春陽の心を今この瞬間も激しく揺さぶる。
そして更に春陽の脳裏に、優しい春頼や両親、穏やかな荒清村の住人達の姿も去来した。
途端、春陽の定吉を抱き締めようとしていた腕が止まり、下にダラリと下がった。
「春陽?…」
定吉は、困惑気味に問い掛けた。
疲労を隠し切れない表情の春陽は定吉から少し体を離し、定吉の顔を見詰めて言った。
「定吉……お前の気持ちは、嬉しい。本当に嬉しい。でも、私はお前と一緒に行けない」
定吉は、首を左右にふると表情を歪めて春陽を諭す。
「春陽!ダメだ!俺と一緒に来い!何故知ってるかは後でちゃんと説明するが、都倉家から内密にお前を人質として迎えに銀髪の男の一行がもう近くまで来ている!都倉の城に上がるな!逃げるんだ!俺と、俺と一緒に!」
春陽は、それを聞き定吉を見たまま一瞬ハッとしたが、やがて自分の定めを悟ったように僅かに苦笑して、定吉の左肩に春陽のおでこを付けて静かに言った。
「定吉。私は、人に害をなす淫魔の私が死ぬ事で両親や弟や村人を守れると思ったから死のうと思った。都倉家が早く私に城に上がれだの、私に何かあれば村に火を付けるとか言っているが、どう考えても私にそこまでの価値など本当に無いから、私が死んでも本気で村に火を放つなんて考えられないし。でも、私がまだ生きるなら、生きていくなら、私は逃げないで、やはり両親や弟や村人を守る為に生きないといけない」
「はっ……春陽っ!ダメだ!
ダメだ!絶対にダメだ!お前は戦の世界に生きる人間じゃ無い!」
定吉程の巨躯の男が取り乱すように声を荒げ、春陽を再び強く抱き締めた。
「定吉……私はお前を信じていないんじゃ無い。お前なら、きっと私を幸せになれる場所に連れて行ってくれると思う。けれどお前が私に言った幸せにしてやると言うのはお前の妻になる者に言うべきだ。それに、もし死なずに生きる私に幸せになれる場所があるなら、私がその戦の世界を通った向こう側にその場所があるのだろう……きっと…」
「…」
定吉は、春陽のその言葉に絶句して言葉を一瞬失った。
そして、定吉は瞬時に思い至った。
今抱き締めている春陽を出来るだけ楽に気絶させ、春陽を無理やりさらって行こうと。
そして、幸せにすると言う定吉の言葉を定吉の妻になる者に言うべきだと春陽が言うなら、春陽が男でも、定吉が春陽を泣いても叫んでも無理やりにでも定吉の妻にすれば良いのだと…
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