第159話断崖の影

 優が定吉の助けで、毒蛇の難を逃れた同日の夕刻。


 山中の切り立った断崖絶壁の先端で平然と胡座をかき、そこから、夕日の美しき茜色に染まる、遠くの戦国時代の観月屋敷を眺めている男の影があった。


 遠くの空には、巣に帰るのだろう、数羽の鳥達の並び飛ぶ影も浮かぶ。

 周辺はただそれだけで、音も無ければただただ静寂だ。


 だが、男の姿は一見特殊だった。

 この時代にはかなり高価な仕立ての、女が着るような派手な紅色の平服(着流し)の小袖をまとう。

 そして、顔から頭にかけては、白い布でそのほとんどを覆う。出ているのは、鋭い眼光の右目とその周りだけだった。


 男は、勘助と言う名の黒いカラスを右肩に乗せていた。


 そのカラスの勘助が驚く事に、にわかに人の言葉を、あり得ない位に滑らかに話した。


 「大師様! 大師様! 南蛮の透明な入れ物に入れてる猫耳の桜の精霊が又暴れてます。これ以上暴れたら、透明な入れ物が壊れませんか?」


 大師と呼ばれる異様な風体の男はニヤリと笑って、低い、とても良い声で言った。


 「大丈夫だと何度も言っておろう。この南蛮渡来のガラスには、私の妖術がかかってる。あれくらいの桜の精などに破れるはずが無かろうが」


 大師のすぐ横には、やはり南蛮渡来の、木の蓋付きの小さなガラスの入れ物が無造作に転がされていた。

 そして、その中に入れられているモノが激しく動き、まさに出ようと暴れ回っていた。


 よく見ると、それは……


 小さくされた小寿郎だった。


 だが、小寿郎のいつも付けている、小寿郎の両方の金色の角膜や瞳孔しか露出してない白皙の仮面は、右目の辺りだけがヒビが入り砕けている。

 そして奇遇にも、大師と同じように、右目全てと眉毛、その周りの肌も含め露出していた。


 小寿郎の素顔全体を想像させる、あまりに美しい小寿郎の目や眉と肌だ。

 しかし今は、目尻を釣り上げ、小寿郎はガラスを蹴ったり殴ったり、妖力で暴風を起こしたりして暴れ回っている。


 (優! 優! 優ー!)


 小寿郎の頭の中は、優と、優の前世の春陽の事しか無い。

 一刻も早くガラスを破り、優と春陽の元に帰ろうとしていた。


 小寿郎は、優と再会して式神契約した次の日の早朝、優と千夏の為に、まだ眠る優達に黙って、豆丸を連れて朝採れの甘い山桃を採りに山に分け行った。

 だがそこで、偶然通りかかった大師と遭遇した。


 小寿郎の使う妖術は、激しい風を使う。

 しかし小寿郎は、先日春陽を助けて受けた傷がまだ治っておらず、強い妖術を完全に発揮出来ない。

 そして大師の使う妖術との闘いの果てに、豆丸と共に大師に捕まってしまった。


 豆丸の方は、小寿郎と離され違う陶器の徳利に入れられ封印され、その中でシクシクシクシク泣いていた。


 「ククっ……しかし、早う、この美しい桜の精霊の体と他の世にも美しくて禍々しいあやかしの体を薬を使い無理やり交尾させ、それを眺めてしこたま楽しんだ後は、更に美しく禍々しい子供を産まさねばな。私は楽しみでならぬわ」


 大師は、ガラスの入れ物の中のまだ暴れる小寿郎を見て、嗤いながら楽しそうに呟いた。


 そして、又、観月屋敷を目を細めて見ながら続けて言った。


 「勘助よ……私はな、この私の手で美しいあやかしの災厄を造り出し、それを密かにこの人の世に放ち、それが私の意図も知らぬまま、私が動かずともそれが私の代わりに人の世を不幸にして、世の中に不幸になる人間が増えれば増える程、それを多く隅から他人事で眺められる程、体が震える程の幸せを感じるのだ」


 「でも大師様は、十八年前に、婬魔と人の間に二人子供を産ませ、その子供の一人が今災厄となり、今不幸にあえぐ人間を沢山眺められて、すでに毎日楽しんでおられるのでは?」


 カラスは、スラスラと澱みなく尋ねた。


 「フッフッフッ……アハハハ!そうよ! その通り! 戦に、殺戮、飢餓に憎悪! 愉快! 愉快! あの銀髪の男、まっこと愉快よ! あの男、私の事など知らぬだろうが、あの男がこの世に生を受けた本当の理由も知らず、あの男が私によって産み出され、私のせいで不幸になったにも関わらず、私の意図するように働いて、フフフッ、何か礼の一つでもしたい位よ」


 大師は、かいた胡座の足をバンバン叩いて歓喜した。


 しかし……


 すぐに大師の右目が険しく鋭く光る。


 「だがな勘助よ、私はまだ足らぬ。まだまだ足らぬのよ。私が十八年前一度殺されてあの世から甦り、やっとここまで妖力が戻ったのだ。もっと、もっと、もっと美しくおぞましい巨大な災厄を造り出しこの人の世に放ちたい!そして……」


 大師は、更に観月屋敷を凝視して、何か言葉を飲み込み、何かをしばらく考えているようだった。


 その間も、陽はどんどんと暮れてゆく。


 大師の話しはガラスとそれにかけられた大師の妖術が阻み、小寿郎には聞こえなかった。


 だが、仮に小寿郎に聞こえたなら、大師の正体が……


 あの男だと、すぐ勘づいたかもしれなかった。


 「勘助よ、この人の世にはな、災厄を造り出す悪。それに同調する悪。そして、それを黙ってただ見ているだけの悪と言うモノがあるものなのだ……」


 大師は、まだ観月屋敷を見定めたまま、右目を細め又嗤った。

















































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