第136話村雨

そこに居たのは、紛れも無く観月だった。


観月さん!と…


優は春陽の中にいて叫びそうになり、ぐっとぐっと堪える。


以前定吉に会った時、その所為でおかしな事になったからだ。


すると突然、こんな事があるのかと思う程、晴れた空から雨がポツリポツリと降り出した。


そして、あっと言う間に土砂降りの村雨になる。


流石に回りの観客達は、声を上げて蜘蛛の子の様に四方へ散り散りになり始めた。


大騒ぎの中…それでも…


舞台の上の春陽と、その下にいる観月に似た男は見詰め合ったままで微動だにしない。


観月似の男の従者達は男の横で、オロオロしながらその様子を見ているしか無かった。


そして、春陽の双瞳から、涙がすっと流れた。


春陽には、初めて会う男を見て自分が何故泣くのか理由がさっぱり分からない。


それなのに、それはそれは溢れて溢れて、後から後から止まらない。


雨は強さを弱めず春陽を濡らし、それが涙なのか違うのかどんどん曖昧にさせていく。


一方優は、その春陽の流す涙が自分の気持ちが影響しているのだと認めざるを得なかった。


それ位懐かしかったのだ…


彼が…観月が。


あんなに苦手で…


いつも何かと、特に優に対して口うるさくて高飛車な観月が、今も苦手なのに…


でも、戦国の世に来てから、一体何処にいるのかと常に観月を探していた。


ずっと、ずっと、ずっと探してた…


それは、何十年も会ってなかったような感覚だった。


だんだん、優だけが感情が相反したりぐちゃぐちゃになる。


雅楽の奏者二人が、春陽を舞台から屋内へ連れて行こうとするが、不思議と春陽の身体が動かない。


それを見ていた朝霧と定吉と真矢、そして猫の小寿郎までもが、それぞれ居る場所から焦れて春陽の元へ向い始める。


だが、春頼が一足早く呆然とする兄に近寄り我に帰らせ、手を引き舞台から強引に降ろした。


(嫌だ!やっと観月さんに会えたのに!)


優はそれでも、叫びたいのを必死で堪え、春陽共々引きづられて行く。


去り際春頼は、いつまでも濡れながらその場に立ち尽くし、春陽を目で追うただならぬ雰囲気の笠の男を目を眇め見た。


本能が警戒心を発するのだ。


だがそれは、近くから見詰める朝霧も定吉も真矢も同じで…


そして、猫の小寿郎だけは、複雑な表情を浮かべた。


強く手を引き、春頼は春陽を屋敷の自分の座敷へ連れて来た。


ここへ来ると、回りの喧騒は聞こえ無い。


パタンと障子を春頼が閉めて春陽を見ると、すでにずぶ濡れの兄は寒そうだった。


「兄上…」


春頼は、春陽の濡れた足袋を脱がせ、足の指から、急ぎ布で下から上へ春陽の身体を拭く。


そして終わると一瞬躊躇したが、春頼自身自分を止められなかった。


春頼は次に、兄であるその春陽の身体を強く抱き締め温める様に背を何度も擦った。


神楽の衣装は春陽の身体に貼り付き、そのしなやかな躰の線が春頼に強く伝わる。


「春…頼…」


そう呟く春陽の声と体が、僅かだが震えている。


春頼はやっと我に返り、自分がしていた事に青ざめハッとしたが…


「しばしお待ちを…すぐに着替えをお持ちしますから…」


春頼はそう言い、慌ただしく座敷を出た。


障子の閉め切られた静かな座敷。


春陽は、舞を終え、今年の祭りでの自分の役目が全て終わった事を再確認してホッと息を漏らした。


いや…


今年だけでない…


春陽は、さっきの舞を最後に、長年務めた神職としての、神に仕える立場自体が終わった。


そしてこれからは、完全に武士一本で生きて行く事になる。


これからは、清らかな護られた世界から、血に塗れた不浄な世界で生きて行かねばならないのだ。


そう思った時…


「痛っ!」


春陽の頭と体に激痛が走った。


そして、体も異常に熱くなる。


思わずしゃがみ込んだ春陽だったが…


次に立ち上がろうとして、不意に自分の両手が目に入った。


「?!!!」


突然、春陽の両手の爪が異様に鋭く伸びて、まるで獣のようになっていた。


更に、口に違和感があり右手をやると…


上に二本の牙が出ていた。


春陽は、以前川や骨董屋で起こった事を思い出し、全身総毛立った。


そして、恐る恐る、自分の頭に右手をやる。


すると、そこには…


生々しい小さい角が二本…


遠き西洋の悪しき魔物の様にハッキリと生えていた。




















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