第92話竹筒
(俺も、耳はいいが…こいつ…よく…こんな声が聞こえたな…淫魔の特性か?…)
定吉が、そう優の事を思いながら、その優を背後に護るように小さな呻き声を辿る。
うっそうとした木々と、それらに絡まる葉と、腰まで生えた草の獣道を、しばらく慎重に行く。
すると、少し開けた崖下に…
大量の土砂や木に埋もれた、うつ伏せの状態の男らしき顔と方腕だけが出ていた
。
声は、そこからしている。
昨夜の大雨であちこち崖崩れが起きていたが、ここでも起きていた。
「あっ!!!」
優が叫んだ。
そして、すぐ脳裏に浮かんだのは、朝霧と春頼の顔。
もし、春陽を探し二人が災害に巻き込まれたならと思うと、ぐっと息が止まりそうになった。
(朝霧さん!春頼さん!)
そして、再び優に蘇る、定吉と落ちる時の朝霧の春陽の名を叫ぶ声。
優はその朝霧の声に更に、胸がこれ以上無い程締め付けられる。
優が顔面蒼白でばっと走り出すと、又定吉がその腕を掴んで止めた。
「待て!放っとけ!もう…どうせ助からねぇ…今は、俺達が一刻も早く先を行くのが先決だ!」
定吉の声は、優が驚く程冷静だ…
「え!?」
優が、眉間を寄せて定吉を見た後、埋まっている男を見た。
よく見ると、男から大量の血が流れ出て
、元々赤茶けた土に染みて分かりにくく一体化していた。
それでも優は、珍しく怒りの表情を定吉に向け定吉の腕を大きく振り払い、男の元に駆け寄る。
「ひ…酷い…」
優は、目を背けたくなるのを堪え、男をよく見た。
朝霧でも、春頼でも無くて一瞬安心したが、だからと言って放っていい訳では無い。
それに、血だけでは無い…
遠くからだと泥だと思っていたが、実際は髪は焼け焦げ、顔も腕も所々火傷し煤で黒くなっていた。
ただ、土砂崩れに巻き込まれただけで、こんな風にはならない。
すると…
「み…み…」
人の気配に、男が必死に瞼を開けて呟いた。
「み?なっ、何んですか?」
泥と煤、そして、血の匂いにむせそうになりながら優は、地に両膝を付け、その声に懸命に耳を傾ける。
定吉はすぐ横で、逞しい腕を組み仁王立ちし、ただ冷静な視線で優達を眺めていた。
「み…水…最後に…た…のむ…水が…飲みたい…」
男が震えながら、優に懸命に方腕を伸ばした。
優はそれを聞き、すぐ立ち上がり定吉を見て、定吉の腰にぶら下げていた水の入った大きな竹筒をさっと取った。
「なっ、何すんだ!もう無駄だっつてんだろ!無駄な事すっと、こっちが命取りになんだよ!わかんねぇのか?」
定吉が驚き叫んだ。
優は激しくムッとしながら、もういいっ!といった感じで無言で竹筒を定吉に押し返し、近くに生えていた大きな丸みのある葉をちぎった。
「待ってて下さい。すぐ水持って来ますから…」
静かに男に告げ、優は、自らもかなり疲弊していたが葉を持って、少し離れた川に全力で走った。
「あっ!おいっ!」
定吉は優を止めようと腕を前に出したが引っ込め、土中の男を見下ろし溜め息をついた。
すぐに優は葉に水を入れ、幾分こぼれたが慎重に運んで来て、男の顔をゆっくり動かし葉から水を与えた。
もうボロボロなのに、やはり本能なのか
、男は凄い勢いでそれを飲み干した。
しかし、まだ欲しいようだ。
優はその姿に少し安堵して、又水を汲みに行こうとした。
すると…
「ほらよ…」
溜め息混じりに呟き、定吉が竹筒を優の前に差し出した。
優は、一瞬驚いたがすぐ受け取り、今度こそ十分飲ませてやる事が出来た。
「す…すなない…あんた…達も早く逃げ…ないと…いけないのに…」
ほぉっ…と、落ち着いたような深い息を付いた後…
男が何か酷く混乱しているような口調で
、訳が分からない事を切れ切れに言った
。
「逃げる?何から?」
優は、又地に両膝を付き、酷く困惑しながら労るように尋ねた。
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