第72話男巫女
まだ早朝、いつもよりかなり早くに春陽は目覚めた。
そして、布団に横になったまま、帰社の馬上で不安定に考えていた事に昨日決心を着けた事をあらためて思い起こす。
ずっと、朝霧に本当の事を言うべきか?言ってもいいのでは無いか?と迷っていた。
しかし昨日、母の口から美月姫の名前が出た途端、春陽は忘れそうになっていた事を思い出した。
(貴継は、この家を出たら一度出生国に帰りすぐ隣国に行き、婚約者の美月姫と祝言を挙げ養子に入り、小さいとは言え一国一城の主になるのだ…)
(貴継自身は、顔も知らない、親に勝手に決められた婚約者だと言うが、貴継が今第一に考えなくてはならないのは私の事では無く、正妻になる美月姫の事なのだ…)
(だから、だから…貴継には、決して…決して…本当の事は言わない…煩わせたく無い…)
そう…決めた。
もうその後はどうしても眠る事が出来ず、布団から出て早々に活動し始める。
猫の小寿郎も春陽の部屋で寝ていていたが、夜が明けてもこの日はずっと、まるで体力を使い果たしたかの様にぐったりしていた。
春陽は、病気では無いかと心配する。
一方、今日も春陽の中に居る優の方は、その理由が自分の為に妖力を使った所為だと分かっていた。
だが、式神の契約がまだなので届かないが、「ごめん…小寿郎…」と心の中で謝るしか無かった。
そして、小寿郎が夢で最後に言った、「たぬき」と言う言葉が気になって仕方なかった。
帰社して翌日にも関わらず、春陽達にはゆっくり休んでいる暇がなかった。
すでに日々の細々とした仕事が有る上に、又、荒清神社の春の例大祭が近くてその準備が忙しい。
荒清神社と春陽の住む屋敷には、日頃から多くの関係者や使用人や護衛の武士団もいる。
そこに更に祭りの準備で村人や納品に訪れる商人もひっきりなしに出入りして皆も慌ただしい。
それぞれの仕事に忙殺され春陽と朝霧は増々距離が開く。
その間を四月の優しい春風が虚しく通り過ぎるが、それでもお互いがお互いを、視線は合わないが遠くから度々見詰める。
優は、朝霧がこんなに近くにいるのにもどかしくてもどかしくて仕方なかったが春陽の方もそうで、朝霧の傍に行く間合いを探っていた。
別れの日は近い…
だから、朝霧に対して嘘を付き誤魔化す結果になっても、最後は何か楽しい話しでもして朝霧とお互い笑顔を交わして別れたいと春陽は思っていた。
昼からの春陽は、本番さながらに行う祭りの衣装合わせと笛合わせが入っていた。
どうも春陽は、祭りの重要な役目を担っている様だった。
どんな男物の着物だろう?と優が考えていたら、目の前に差し出されたのは、いつか何処かで見たモノと酷似していた。
そう、あの江戸時代、観月に無理やり着せられた巫女の着る物だった。
飾り気の無い、無垢な白妙の上衣と深緋の袴。
しかし、だからこそその本質がすぐ明白になり、触るまでも無く、見ただけで卿雲の如く軽く柔らかな極上物だと分かる。
優がア然としていると、春陽はなんの躊躇いも無くすぐそれに着替えた。
そして、それが終わると母の部屋に行き、母の螺鈿の桜模様も美しい総漆塗りの鏡台に向かい座った。
膝立ちする母は、櫛で背後から春陽の長い髪を優しく解かし、やがてしっかりとした艶やかな美しい化粧を彼に施こし始めた。
鏡に映る前世の自分が女性になっていくその姿に優の心に、背徳感と後ろめたさがふつふつと湧き上がって来る。
光陽が差し込む、閉め切られた静かな部屋。
その間、ただ遠くから祭り囃子の鍛錬の音だけが微かに聞こえる。
最後には春陽の額に朱の色で、男巫女の証である契の美しい崩し字を入れられた。
後は演目の前に、本殿で祓いを受けて純金の飾りが麗しく揺れる冠を頭上に戴く。
「とてもキレイよ…春陽…」
母が嬉しそうに言い、前に座る春陽と共に鏡に映る。
「私もどんどん歳を取ります。もうそろそろ、今年限りで祭りの男巫女のお役目は誰かに代わってもらおうと思っています…」
チラリと鏡を見ただけで何の表情も無く、春陽は溜息混じりに呟やき視線を下に落とした。
「そっ…そう…ですね…春陽も、それ相応に歳が…いくのですものね…」
母は、一度言葉に詰まったが慌てて微笑んだ。
少し違和感を感じて、鏡越し母を見た春陽だったが、優の方はそれより遥かにそれを感じ取る。
半淫魔の歳をとらないはずの母、春姫が、何故か歳相応の容姿に変貌している。
聞いていた伝承と違い、もしかして春陽も歳を取るのだろうか?
と優は考えながら、やはり、さっきの春姫の態度がやけに気になった。
「でも、なんだかもったいない気もしますね…こんなに似合っているのに…」
そう母に微笑まれ、春陽は小さく溜息を付くと立ち上がり礼を言い、そっと部屋を出て縁側を何処かへ向かい歩き出した。
巫女になったので、本当の女性らしく楚々と歩く。
(観月さんの言っていた、昔、男巫女が居たと言うのは本当だったんだ。でも、観月さん、男巫女に、なんだか思い入れが有る感じがするな…)
優はそう思いながら江戸時代に一度味わっていたが、、春陽の唇に引かれた紅の馴れない感覚を自分も再び感じ戸惑う。
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