第65話沸騰

春陽は、幼い頃知り会って数十年、初めて朝霧に叩かれ心の底から驚愕した。


しかし、優も、今はその身体に共生しているのだからかなりの衝撃を受けた。


朝霧は、自分がした事に一度ハっと我に返り、やってしまった自分の手の平を見た。


そして、呼吸が酷く乱れて、その上半身が大きく上下する。


頰に手を当て、震えそうになる唇を堪えて、あ然と春陽が朝霧を見詰める。


だが、今まで向けられた事の無い険しい視線を返され、何一つ言葉が出てこない


「貴さん!!!」


それに激しく噛み付いてきたのは、打たれた本人でなく春頼だった。


「どんな理由があろうと、いくら貴さんでも、兄上に手を上げるなら私が許しませんよ!!!」


春頼は洋燈を左手に、とうに背を追い越してしまった兄の前に立ち大声で庇う。


真正面の朝霧と睨み合いになり、一触即発の様相になった。


だが、春頼が朝霧に対してこんな態度に出るのも初めてだった。


「春頼!いいんだ。悪いのは私だ…私が

…悪いんだ…」


春陽は、痛む左頬を押さえながら所在無さ気に俯いた。


「兄上…」


朝霧を剣呑に見据えながら春頼は、右腕を背後に回して護る様に兄の身体を自分に寄せた。


それでも、朝霧の怒りは収まらない。


それ所か目の前の二人の様子に、増々そのイライラが増しただけの様だった。


そのまま春陽達の方へ一歩踏み込み、ミシっと、部屋の入り口近くの畳が軋んだ


「ハル…お前、昼から一体何なんだ?!おかし過ぎるだろ!」


「兄上は、もう、充分分かっている!これ以上は!」


春頼が凍るような冷たい声と眼差しで、朝霧の左肩を押した。


このままでは、不味い…


春陽は焦りながら、やはり昼からの自分の変化を正直に言わなかった。


いや…昼からの非現実的な事を、あの匂いを嗅いだ時の心の乱れをどう言えば良いのか?


説明すれば分かって貰えるのか?どうしても迷い言えなかった。


しかも、朝霧は、数日後には出身地に帰り、新しい人生の門出に立っているとても大事な時なのだ。


さっき橋からの帰路、朝霧に問い詰められても何も答え無かったのも、それ等をぐるぐると考えていたからだ。


「どうしても外の空気が吸いたかった。私が本当にどうかしていた。何度も心配させてすまなかった。春頼………貴継…


そして、春陽は俯いたまま、布団に入ろうと向かう。


しかし、朝霧はさっきの、春陽が大きな男の身体に跨がって見詰め合っていた事を思い出してしまう。


そして更に、全身が一瞬で血が沸騰したかの様にカッと熱くなってしまった。


あの時…


春陽の乱れた浴衣からは、春陽の滑らかな左肩が…


裾からは、白く美しい、しなやかな両足首から太ももまでもが露出していた。


刀さえ無ければ、それはまるで、閨を共にし身体で睦み合う者同士の様だった。


「ハル。さっきも聞いたがもう一度聞く…あの男は誰だ?俺の知らない所でいつ知り会った?」


朝霧が、視線の厳しいまま春陽の背中に向い聞いた。


そしてそれを聞いて、春頼も怪訝そうに目を眇め兄を見た。


「知らない…」


春陽の、振り返らず返された声はか細い


「そうか?お前は親しそうに、酒は余り飲むなと言っていたが!」


朝霧が噛みつく様に更に詰問すると、隣の部屋から障子越しの、知らない宿泊者の男の声がした。


「すいません…お武家様。夜も遅うございます。どうかお静かになさってくださいませんか?」


「す、すまなかった。すぐ静かにする…


春陽が、慌てて謝罪し布団に向かう。


しかし、小さくなったとは言え、朝霧の執拗で低く怒りに満ちた声が捕まえる。


「ハル!待て!あいつは誰だ?お前は…お前は、あいつの事を、今も考えているだろう?!」


「知らない…本当に知らない奴なんだ…


ただ…


そう言いかけてハっとして止め、今度こそ春陽は、逃げる様に布団の中に入り込み頭からそれを被った。


思い出すのは、春陽が馬乗りになって、殺さない…と告げた時の、あの男の顔。


それまでと打って変わり春陽を見詰める目は、一瞬だかとても真摯だった気がした。


草紙の中に出てくる凛々しい闘神の様な…あの表情…


ただ…


ただ…


ただ…あの男は、何故か、何処か、とても引っ掛かる…今日、初めて会った様な気がしなかった…


ただ…ただ…


ただ…


それだけ…




















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