第61話夜陰
その夕方、春陽達は、春陽の体調を考慮して早めに宿に帰り、朝霧の為にと少し贅沢な食事を部屋でとった。
やがて浴衣の春陽が宿の一階の縁側にもたれ庭と夜宙を眺め、同じく浴衣の朝霧は、今日の買い物の整理を布団の上でしていると、三人の内、最後に風呂から出てきた春頼が帰って来た。
「あーいい湯だった」
そして何気に布団の上に置いてあった宿泊代の請求書を見て顔色を変え憤慨した
。
「何ですか、この額は!値上げなんて!こんな事聞いてない!」
「俺も言ったんだが、女将が泣いてハルに頼んだら、ハルがこの宿も困窮してるから払うと言って聞かないんだ…」
朝霧が、春陽の顔を呆れ気味に見た。
「請求書は私に持って来る様にと女将に言ったのに…兄上、あの肝っ玉の座った女将がそんな簡単に本気で泣く訳ないでしょう!兄上がいつもそんなですから連中にいい様にされるのですよ!まぁ、兄上は、これから貴さんが居なくなっても
、私がずっと兄上のお側に居ますからなんとか生きていけると思いますが…。取り敢えずこれは今から私が行って直させますから!」
まだ乾かぬ、生まれ変わりの西宮によく似た髪を振り乱し、請求書を手に春頼はドスドスと荒く部屋を出て行った。
春頼さん、西宮さんと顔も声も一緒だし
、いつも人当たり良くニコニコしてるんだけど本当しっかりしてる所も同じだ…
優は、春陽の中で感慨深く呟いた。
しかし、やはり気になるのは、貴さん…つまり、朝霧が居なくなってもという言葉だ…
どうしても、嫌な予感しかしない。
「だから…言っただろう…これは、やはり春頼の言った事の方が正しい」
整理を中断していた朝霧が、溜息を漏らした。
そして、おもむろに立ち上がり、傍にあった朝霧自身の羽織を春陽の肩に掛け、ゆっくり春陽のすぐ右横、畳の上に胡座で座った。
「ここの女将も困っている様だったし、少し位ならと思ったんだが…」
シュンっとする春陽。
「こんな世の中だが、困っているから何をしてもいい訳じゃないだろう?」
朝霧は、同い年の春陽を、幼子に対する様に柔らか目に諭した。
「春頼、昔はあんな可愛いかったのに、最近は本当に生意気になってしまった…
。今の態度だけじゃない。許嫁との婚約は一言も無しに勝手に解消するわ、私が説得しても、結婚して神社の跡取りを作る気は無いと言うわ…」
春陽が更に項垂れた。
朝霧はそれを見て、妙な複雑な顔をして苦々しそうに笑った。
「でも、貴継。お前も変わった。幼い頃は、あんな身体が弱くて小さくて泣き虫だったのに…一月半後旅立って国元に帰ったら、お前の父上も母上もさぞお喜びになるだろう…」
春陽が、とても穏やかな視線と言葉を朝霧に向けた。
だが、朝霧は、何故かそれに対し眉根を寄せ下を向く。
「貴継。別れ際、言葉が詰まって言えないかもしれない。だから、今、言っておく。長い間、本当の兄弟の様に接してくれて、本当に、本当にありがとう。これからどんなに遠くに離れても、二度と会えなくても、お前の事は一生忘れないし
、お前が武功を立て、妻を娶り、子を成して立派な武将になる事を心から祈っているからな…」
春陽は、儚い淡い色の花の様に微笑み、一言一言心を込める様に告げた。
昼間、春頼の言っていた、<最後>の意味が、ようやく優に分かった。
朝霧さんが、帰る…国に…?
優は、動揺し激しい不安に駆られる。
そして、春陽の感情は読み取れないが、彼の身体の痛みや変化を敏感に感じ取る
。
春陽は、どうも涙と震えを必死で堪えている気がした。
「に、二度と会えないなんて言うな!縁起でも無い!」
朝霧が、声を荒げて横を向いた。
「そうだ、そうだな…」
春陽は、わざとのように笑って場を明るくしようとしたが、すぐに表情は引き締まった。
「貴継…」
春陽は、逸らされた朝霧の顔に両手をやり、ゆっくりと自分の方に向かせた。
「それなら、再び会えるその日までよく覚えておく様に、貴継…顔を…顔をよく見せてくれ…お前の顔を、心の中に焼き付けたい…」
そう言いながも、春陽は分かっている。
この世の中、一度遠く離れてしまえば、濃い血縁者ですらそう簡単に会う事は叶わない…
それが、ただの幼馴染みなら尚更そうだと…
そして、この乱世、春陽自身、長く生きられる可能性が少ない事も…
ならば、例え死んでこの身が朽ち果てても、心だけは残るなら、いつまでもずっと…ずっと…貴継の顔を覚えていたい…
心の底から、春陽はそう思う。
両方の頰を持たれたまま、されるがままになりながら、朝霧は、春陽の顔を呆然と見詰めた。
互いの息のかかりそうな距離で、春陽の美しい邪心の無い瞳が、下から上へ撫で上げる様に朝霧の顔をゆっくり見ていく
。
本当にその全てを、自分の内に留めんと
…
優も春陽の瞳を通して凝視しながら、ジワリと込み上げてくるものを耐えながら
、その奥に、生まれ変わりの朝霧を無意識に探す。
「ハ…ハ…ル…」
朝霧は、唇を震わせ声を上擦らせ呟くと
、耐えられないとでも言わんばかりに再度顔を背けた。
「すまなかった…」
春陽は、朝霧から手を離し苦笑いしながら下を向き、今した事を酷く後悔した。
つい、幼い頃と同じ感覚でやってしまった…
男にあんな事されても、今の貴継には気持ち悪いと思われるだけなのに…
人それぞれの心の淵の真実を覆い隠してしまっている様な漆黒の広がる夜は、更に深まってゆく。
その中、夜闇を遠くの物陰から、春陽の逗留する宿の玄関をじっと伺う姿があった。
一つは、二人の武者。
そして、もう一つはその近く、それは、武者達さえ存在に気付けなかったが、暗闇に隠れ、大きな一つの目だけが爛々と光っていた。
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