第60話幽暗の刻

まだ年若いだろう銀髪の男が、先回りして遠くで待っている。


すると、その姿を見つけられないままの春陽が、キョロキョロしながら、まるで操られているかの様にやって来る。



いや、明らかに春陽は、今のかなり情緒不安定な隙を付け込まれてしまっていた



銀髪の男の遣う妖し気な術中に嵌まり、何処かへゆっくり誘導されていた。



「そうだ…そうだ…いいぞ…こっちだ…こっちだ、私の所へ来い…」



離れた物陰に隠れている銀髪の男は、世にも美しい声で小さくそう呟きながら、手の平を上にして春陽を優しく…優しく手招きする。



銀髪の男のその被る笠の下から、さも楽しそうに上がる口角だけが見える。



夢の中の様にふわふわと歩きながら何度かそんな事を繰り返している内に、春陽は、更に更に薄暗い細い町の路地に迷い込んで行く。



井戸での洗いかけの洗濯。



小さく開いた窓から見える、食べかけの湯気の出た二人分の食事。



つい今しがた子供達が描いた様なハッキリ残ったかわいい地面の猫の落書きの近くには、コマが落ちている。



人が今住んで生活をしている生々しい痕跡はあるのに、誰一人見当たらず、辺りは怖い程無音で静まり返っている。



異様な雰囲気に辺りを春陽が見渡すと、すぐ背後に人の気配がして振り返る。



「あの…」



ここは何処か?



それを尋ねようと、突き当りの道を右に行った人影を追って角を曲がったが、家に入った形跡も無いのに、すぐそこにいるはずなのに消えていた。



不思議で小首を傾げると、少し前の交差路を又人影が横切り、その後を追ったがやはり角の向こうには姿がすぐ無かった



何なんだ?…



春陽の中の優も戸惑った。



その後もまるで、春陽は、弄ばれているかの様に何度かそれを繰り返し、自分を見失い、優も訳が分からなくなってきて更にずんずん奥に引き込まれる様に人影の後を追おうとする。



その時…



「ハル!」



その一言と共に背後から右腕を掴まれ、振り返らなくとも分かる声に、春陽は、安堵の余り膝から崩れ落ちた。



「ハル!ハル!」



朝霧が呼び、春陽の膝が地面に付く前に体を引き上げると、春陽は、混乱と安心から衝動的に身体を反転し、自分から朝霧の胸にもたれかかった。



「ハ…ハル!?…」



自分の胸にすっぽり収まった春陽を抱きながら、朝霧は、顔に朱を走らせ、動揺の余りいつもの身体能力を発揮出来ず町家の土壁に背中を軽くぶつけた。



「ハル!ハル!大丈夫か?」



ハっと我に返りそのままもたれかかり、朝霧が声をうわずらせる。



そして、コクリと頷き返された姿を見て安堵の大きな息を吐いて言った。



「どうして、どうして黙って出て行った

!」



心の底から絞るような朝霧の呟きに、春陽は、自然とおでこを更に幼馴染みの肩に押し付けた。



朝霧が背が高すぎる為どうしてもそうなってしまうのだが、それに朝霧は、増々顔を紅潮させながら抱き締める力を更に強めた。



一方、春陽の思う所は全く分からないが

、不思議と優は感じとっていた。



春陽の…揺りかごにいる様な安心感を…



「すまない…店の…匂いにやられて、気持ちが悪くなって…外に出たら道に迷った…」



あの、鬼の様な姿の事は、流石に言えない。



そして、優は、春陽が淫魔だと言う事を

、本人も、春頼も、朝霧もまだ知らないかもしれないと愕然とする。



「確かに、癖の強い匂いだった…でも、それなら、俺には言ってくれ、俺だけには…頼む…何があっても、俺の傍から離れるな!俺は、俺は…お前が、お前の事が…」



その朝霧の言葉に、春陽が再び謝ろうと顔を上に向けた。 



てっきり、「お前の事が、心配なんだ!

」と、幼馴染みとして朝霧は言わんとしていると想像したのだ。



すると、自分からしておきながら余りにすぐ近くに朝霧の唇があり驚いた春陽は

、朝霧と見詰め合ったそのまま少しの間ガチガチに固まってしまう。



そしてそれは、優も同じだった。



「ハ…ハル…俺は、お前が…」



朝霧が熱っぽく囁き、春陽の背中に回していた右手を、そこから身体を舐める様になぞらせながら向かわせ、春陽の顎を持ち上げた。



キャハハ!アハハ!



突然、あんなに人の気配が無かったのに

、すぐ横の路地を子供達が鞠を蹴りながら、賑やかに声を上げて走り去った。



そして、急に辺りから人々の声が間欠泉の様に溢れ出し姿が現れ、春陽と朝霧は

、お互い頬を紅くし慌てて身体を離した



「行こう。春頼も、この近くで必死でお前を探してる」



動揺を隠す様に春陽から視線を外した朝霧は、その後回りの様子に怪訝な表情を浮かべた。



「ああ…」



春陽も、なんだか狐に摘まれた感じで周囲を見渡す。



だが、やはり、遠くの屋根からその二人の様子を伺っていた、銀髪の男の存在には気付けなかった。



銀髪の男は、笠の下から唯一見える顔の部分は口だけだったが、そこでチっと舌打ちすると失敗したか…と小さく呟いた



すると…



横に片膝を立て座り、控えていた同じ笠姿の武士も呟いた。



「御自らこれ程に他人を追いかけられるとは、真っ事お珍しゅう御座いますな…このような事、初めて…ではありませぬか?」



「フッ…そうか?」



薄く見目の良い銀髪の男の口元が、楽しそうに笑う。



「私は、どうしても帰らねばならない。あの、小柄な方の男、どこの何者か、素性を調べろ…」



そう、傅く男に命令した銀髪の男の指は

、春陽を真っ直ぐに指していた。







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