第40話 旧街道で見つけた小さな春

 季節は春になりました。花粉症の人には辛い時期に入りますが、近所の野草は伸びやかに育っています。遠方に薄っすらと見える山並みは寒々しい姿から苔むした感じに装いを変えました。そんな自然に優しく背中を押されて決めました。

 ナップサックに飲み物とタオルを仕込み、軽い携帯食を入れて出掛けました。まずは低山にある旧街道を目指します。吹く風は暖かくて首筋にじんわりと汗をかきました。早々に持ってきたタオルが活躍します。

 民家の中の道を進みます。乗り捨てられたような三輪車を中央に見つけて端に寄せました。軽い足取りで歩いていきますと周囲にあった民家は数を減らし、自然が勢力を取り戻してきました。

 ようやくのことで旧街道の出入り口に到着しました。砂利と粘土を固めたような傾斜を上がり、枯れ葉で敷き詰められた山道をゆきます。踏み締める感触が柔らかくて歩く程に脚の疲れがなくなるように思います。

 それもあって草原を散策さんさくするような気軽さで歩けました。枝葉の隙間から零れる光はひんやりした空気の中ではとても心地よく、必要のない深呼吸を何度もしました。

 蛇のように曲がりくねる山道を進んでいくと急に冷えてきました。陽が陰ったわけではありません。何かによって空気が冷やされている状態です。記憶の中を探っても理由は見つかりませんでした。

 周囲を見ながら歩いていくと山道の一部が黒ずんでいました。近づいてわかりました。水が流れていました。左手に目を向けると小川よりも小さな流れを目にすることができました。拳くらいの石が転がっていて、もしかして、と思って手近な石を引っ繰り返してみました。

 期待したものは何もなくて、下には砂利が敷き詰められていました。目につく石はあと三つ。全てを裏返したとしても大した労力ではありません。私は進んで石の下を覗き込みます。

「いた」

 心の声が漏れた先に小さな沢蟹さわがにがいました。私に見られている状態でじっとしています。こちらも動かないで様子を窺っていると横歩きで移動を始めました。

 小さな歩幅でついていくと見つけた石の隙間に潜っていきました。しばらく見ていましたが出てくることはありませんでした。

 私は良いものを見られたと足取り軽く、旧街道を取り囲む自然を堪能しました。小腹が空く頃には帰宅して、今日、目にした小さな春を振り返ります。そして心に強い思いが芽生えました。

 沢蟹の素揚げが食べたいと。

 こぢんまりとした店舗で食べたあの味が懐かしく、今晩の献立を考えるのでした。

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