第113話 閻仙・楊良の挙動、閻を騒がす

 祝宴の広間は、突然飛び込んで来た兵士の報せで騒然となった。

閻仙えんせん楊良ようりょう

 その名を宵は知らない。

 だが、皆の動揺を見るとかなり重要な人物である事が窺い知れる。

 親友の厳島光世いつくしまみつよでさえ、その名を知って動揺しているのだから。


「閻仙・楊良ですって!? 何故!? 彼は……いや、そんなはず……」


 普段冷静な姜美も兵士の報告には驚きを隠しきれないようで立ち上がったはいいが、動揺を隠しきれていない。

 同じく動揺した様子の光世に、宵は質問を投げかける。


「光世、閻仙・楊良って? 知ってるの?」


「え、ああ、うん。朧軍にいた時、その人の話題になったんだよね。なんでも、兵法家の末裔で、閻で唯一兵法を知る人らしいんだけど、人里離れた山の中で隠居してるお爺さんていう噂だけが一人歩きしていて、本当に存在するかどうかも分からない……って話」


「へぇ、閻にもそんな人がいたんだ。初耳。仙人みたいな人だから閻仙……か。でも、何で朧軍でそんな伝説みたいな人の話題が出たの?」


「閻の天才軍師はもしかしたら楊良なんじゃないかって話題になったんだよね。蓋を開けたら宵だったわけだけど」


「天才軍師だなんて……やだぁ」


 頬を赤く染めデレデレしている宵に冷ややかな視線を送ると、光世はおもむろに立ち上がった。


「何故その者が楊良だと分かったのですか? 楊良は今まで人里に姿を現さず、その存在を認知されていなかったのではないですか?」


 頭を抱えている姜美に代わり、光世が冷静に兵士へ質問する。


「それが、最近、朝廷が楊良なる人物を麾下に加えようと各地で捜索する動きがあったようです。そこで1人の素性の怪しい男に朝廷が目を付け、その者を追ったところ、上手く撒かれて消息不明となっていたとの事で」


「そんな話、私は聞いていませんでしたよ」


 ようやく冷静さを取り戻した姜美が言った。


「どうやら葛州かっしゅうで交戦中の軍には知らされていなかったようです」


「なるほど……続けなさい」


「はい。先程、洪州の朧軍に潜入中の間諜から、楊良と名乗る老人が仕官して来たと連絡がありました。朝廷の動きとその老人の動きを照らし合わせると、どうやら確かにその老人が朝廷の捜していた閻仙・楊良のようなのです」


「解せませんね。朝廷は何故その老人を楊良だと目星を付けていたのですか?」


 顎に手を添え、鋭い目付きになっている光世が問う。


「さあ、そこまでは分かりません」


 兵士はかぶりを振る。


「分かりました。また何かあればすぐに報せなさい。下がって良いですよ」


 姜美が命じると、兵士は一礼して退出した。


「閻仙・楊良。その老人に目星を付けたのは誰でしょうか? 姜美将軍」


 顎に指を当てながら、光世が訊く。


董炎とうえんでしょう。彼は朝廷でもかなり頭の切れる男です。各地で起こった些細な出来事を調査して、楊良と思われる人物を絞込み、部下に身辺を調べさせた。そんな感じでしょうね」


「そしたら逃亡した男を見付けた。その男が洪州に入り朧軍へ仕官した……。うーん、だとしても、何故楊良は閻の敵である“朧”に仕官などしたのでしょうか」


「分かりませんが……もしかしたら、楊良は以前から閻のまつりごとに嫌気がさしていて、今回の朝廷の動きがきっかけで出国を決意したのかもしれませんね。閻に仕えるくらいなら、朧に仕えた方がマシだと、思ったのかもしれません」


 姜美が推測を語ると、突然ガシャンと卓を叩く音が広間に響いた。


「閻仙だか何だか知らんが、閻を裏切るような奴は斬ってしまいましょう!」


 顔を真っ赤にしている鄧平が言った。その顔は怒りに満ちている。


「鄧平……」


「我々が何の為に戦っているのか! 侵略者共から母国を守る為ではないのですか!?」


 鄧平の主張は正論。新たに校尉となった8名の武将達も何人か頷いている。

 ただ、宵も光世も鄧平の主張する「母国を守る」という考えは同じでも、違うやり方で閻を救おうとしている故に、鄧平と目を合わせられずに視線を逸らす。

 そんな中、姜美だけは凛として鄧平を諭す。


「鄧平、確かに我々は朧軍から母国である閻帝国を守る為に戦っています。しかし、何の事情も知らずに、敵方に付いたものを一律斬り捨てるというのはどうでしょうか? 泣く泣く朧軍に付いた者もいるのではないでしょうか? その者も斬るのですか?」


「それは……」


「貴方の話には一理あります。ですが、私が指揮官である以上、朧軍に付いた者達を裏切り者という理由で一方的に斬る事は禁じます。斬っていいのは、己が身を守る時、そして、大切な者を守る時だけです」


「……御意」


 不服そうな顔で小さくだが鄧平は拱手して答えた。


「と、とにかく、朧軍に楊良が付いた以上、今以上に慎重になる必要がありますね」


 光世が言うと姜美は頷いた。そして周りを見回すと小さくため息をつく。


「せっかくの宴ですが、享楽に耽る気分ではなくなってしまいました」


 田燦も鄧平も8名の校尉達も皆気まずそうにザワつく。


「軍師殿と光世先生は私の部屋へ来てください。朧軍への楊良加入について、今一度話し合いましょう。他の者はこのまま続けていてください」


 気丈に振舞った姜美だったが、その後ろ姿に元気はなかった。宵と光世は無言で歩いて行く姜美に従い広間を後にした。

 宴席の端で、下女の清華せいかが宵と光世を見ながら小さく会釈をした。



 ♢



 姜美の部屋にやって来た宵と光世は席についた。

 3人の顔に笑顔はない。姜美が下男に茶を出すように命じると、すぐに宵と光世の卓にも湯気の立ち上るお茶が出された。


「楊良が敵方に付いてしまったのなら、また策を考え直す必要があるでしょうか、軍師殿」


 宵は白い羽扇を口元でパタパタ動かし少し考えるとその口を開く。


「いえ、策は変えません」


何故なにゆえ?」


「閻仙と言えど、楊良の能力がどれ程のものなのか分かりません。私はすでに万全の策をご提案致しました。この策を見破れるかどうか。まずは楊良の能力を見ましょう」


「なるほど。光世先生も同じ意見ですか?」


「はい」


 光世は一切の逡巡なく頷いた。それを見た宵は嬉しそうに口を開く。


「私は、朧軍は10日以内に進軍して来ると読んでいます。雨季を利用しこちらが油断しているところを攻撃する。明日には李聞りぶん殿から兵を貸して頂けるかどうか返事が来るはずなので、早ければ3日後には兵は揃えられるかと」


「軍師殿がいてくれて本当に良かった。私1人では“楊良”という名を聞いただけで震え上がり狼狽えていたでしょう」


「大丈夫ですよ、姜美将軍。楊良より、宵の方が兵法オタクですから! 宵に敵う軍師なんていませんよ」


 光世が言うと、姜美は微笑んだ。


「そうですね。私は兵法オタクの軍師殿を信じます」


「あの、“オタク”って、意味分かってます? 姜美将軍」


 宵のムッとした表情に、姜美は首を傾げたが、光世だけはケラケラと笑っていた。



 ***


 閻帝国・都・秦安しんあん


董丞相とうじょうしょうに拝謁致します」


 直立したまま頭を下げた男女の文官5名が声を揃えて言った。


「頭を上げよ」


 椅子に腰掛けた董炎が命じると、文官達は頭を上げ董炎の顔を見る。

 董炎に呼び出されたのは、太尉たいい孫晃そんこう司空しくう董宙とうちゅう司徒しと董陽とうよう尚書令しゅうしょれい董月とうげつ大司農だいしのう董星とうせいの朝廷高官5名である。


「閻仙・楊良が朧軍に仕官した。由々しき事態だ」


 元々この話で呼ばれる事を理解していた文官達は、董炎の話に特に驚く様子はない。


「私が何を考えているか分かるか?」


 その問いに対し、黒髪を豪華な簪を何本も使って束ねた女、董月とうげつが一歩前へ出た。


「洪州の朧軍に下った愚かな元閻の兵を、朧兵ろうへい、そして楊良共々皆殺しにすべきです。反逆者は不要ですから、父上」


 げつの言葉には殺意と怒りが満ち溢れているが、その表情は穏やか、むしろ笑顔すら見せている。


「さすがはげつ。私の心を良く理解しておる」


 董月とうげつは董炎の次女である。役職は『尚書令しょうしょれい』。尚書台しょうしょだいの長官で、皇帝への上奏文を初めとした公文書の発布権限を持つ最高責任者である。


「他の者はどうだ? げつと違う意見があれば申せ」


 董炎の言葉に反論する者はいない。

 董炎の長男で土木・水利などの事業を司る司空の董宙とうちゅうも真顔で口を真一文字に結んだまはま沈黙を持って答えた。

 だが、ただ1人、浮かない顔をしている女がいた。

 色素の抜けた白銀の長い髪の董炎の三女、大司農だいしのう董星とうせいである。


せいよ。不満か?」


 父の質問に星はただふるふると首を横に振る。


「いいよ、怒らないからお姉ちゃんに話してごらん? せいちゃん」


 せいの隣、せいの白銀の髪と同じくらいに色白の肌の黒髪の女が微笑んだ。

 女の名は董陽とうよう。董炎の長女。役職は『司徒しと』。財政を司る役所の長官であり『三公』と呼ばれる国の重要ポストの1人。

 

 いもうとは声を出さず、ただあねに向かって口をパクパクさせた。


「そっか、分かった」


 声は発していないのに、ようせいの言いたい事を理解し、笑顔で頷いた。


せいちゃんは虐殺は嫌だと言っております、父上」


 せいの意見を代弁したよう。その背後に隠れるように、せいは頷きながらも董炎の視線から外れる。まるで幼子のような仕草である。

 すると董炎は呵々と笑った。


せいよ、其方は優しいなぁ。だが、時に優しさはまつりごとにおいて不要になる事がある。反逆者を見逃せば、他の州の兵も簡単に朧へと降伏するだろう。そうなれば、この閻は崩壊する。せっかくこの私が作り上げた食い物に困らぬ大国。崩壊すれば其方等の亡き母上も悲しむぞ」


 董炎の話をようにしがみつきながら聞いていたせいは、また口をパクパクさせてように訴える。


「父上、せいちゃんは父上達の意見に従うと申しております」


 声が出せないせいの言葉を、姉のようが読唇術を駆使し代弁する。この光景はここにいる者達の間では当たり前の光景で、誰一人不思議がる者はいない。


「結構。そうと決まればすぐに動かねばならぬな。即断即決。時期を逃してはならぬ。孫晃そんこう


「ここに」


 太尉・孫晃は拱手して一歩前へ出る。


呂郭書りょかくしょへ伝えろ。一月ひとつきの内に葛州かっしゅうへ到着し、現地の軍と力を合わせ洪州の閻軍、朧軍共々打ち破れ。楊良も殺して構わぬ。首を持って帰れ」


「……呂郭書が従わなければ?」


「その時は呂郭書の首をここに持って来い。代わりに軍は其方が率いて葛州へ迎え」


「なっ!? 呂郭書を殺し、私に軍を指揮せよと? 私は軍人を辞めて久しく、80万の大軍の指揮などとても執れませぬ。それに……」


「其方と呂郭書は旧知の仲、であろう? ならば殺さずに済むように説得するしかないな」


 冷たく答えた董炎の言葉に、孫晃はもはや何も言い返せず俯いた。


「急務は洪州の反逆者共の討伐。案ずるな、孫晃。其方の力を見込んで頼んでいるのだ。“太尉”も“大将軍”も地位にそれ程差はないではないか。久しぶりに将軍になるのも悪くはないであろう? 葛州に行けさえすれば、我が方にも“宵”という有能な軍師がいる。其奴に敵を滅殺する策を授かれば良いのだ。分かったな?」


「御意」


 渋々といった感じで孫晃は拱手した。


ちゅうようげつせい。其方等には今まで通り朝廷の事は任せる。私は少し葛州と洪州の事で忙しくなりそうだ。良いか? 私がまつりごとから外れている時に、朝廷に少しでも不審な動きがあれば必ず報告するように。特に、宦官かんがん共の動きには殊更に注意せよ。私をよく思わぬ輩が何人かいる」


「「「心得ました」」」


 董炎の優秀な息子、娘達は静かに返事した。

 皆が皆冷静沈着で少しの隙も感じさせない。董炎の朝廷での権力は、愚帝・蔡胤さいいんを遥かに凌ぐものとなっていた。

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