第92話 ここに居るはずのない友
朝日が昇ってきた頃には風はやんでいた。
閻軍軍師・瀬崎宵が
宵は、
景庸関を落としたという事は、宵の立てた策が成功したという事だ。やはり孫子に、兵法に間違いはない。
景庸関の門の前に集結した閻軍の兵達から歓声を浴び馬上でぺこりと一礼する。
大きな勝利を収め自信をつけた宵は、総大将・李聞の隣で胸を張って立派な関所である景庸関を遠目から眺めた。
火攻めにした際の炎は閻軍が上手く鎮火させたらしく、今は黒い煙が至る所から立ち昇っているだけだ。
景庸関の門は解き放たれ、その前には3人の人影がが見える。成虎が捕らえたという朧軍の指揮官達であろう。
宵は、景庸関奪還と女軍師を捕らえた事に上機嫌になり、腰の帯に提げている巾着袋から祖父の形見の竹簡を取り出し紐を解き中を確認する。
戦で大勝利を収めたのだ。竹簡にはきっと“勝利”という2文字が浮かんでいる筈だ。
しかし──
「あれ? 文字が……増えて……ない?」
この時を楽しみにしていたのに、竹簡の文字は“自立”という文字で止まったまま変わったところはない。
ガックリと肩を落として深い溜息をつく宵の隣にいた李聞は、宵の落とした肩に手を置いた。
「焦る事はない。今まで順調に文字は増えて来ていたのだろ? すぐに残りの言葉も見付かる。今は兵達と共に勝利を喜べ」
李聞の優しい言葉に宵はニコリと微笑んで頷いた。
「さあ、まずは朧軍の軍師に会いに行こうではないか」
「そうですね!」
宵はニコニコしながら竹簡を巾着袋にしまうと、護衛の20騎をその場に待機させ李聞と2人だけでゆっくりと馬を前に進めた。
朧軍の女軍師のもとへと馬を進めながら宵は門の前の面々を見て違和感に気が付く。
視界には女物の衣を纏った人物が2人と、そこから少し離れた所に軍師を捕らえた成虎の姿があるだけ。景庸関の指揮官である
それにいくら見回しても、成虎と共に景庸関を攻めた
それでようやく宵は今までの浮かれ気分から脱し、身体中から変な汗が噴き出るのを感じた。
徐々に女軍師に近付く宵。女軍師の隣に居るのは間諜として潜り込ませていた
その姿を確認してホッとしたのも束の間、宵は馬をピタリと止めた。
女軍師の姿をハッキリと認識した宵は背筋が凍り、目を見開いた。
唇を噛み締めて目を潤ませている茶色い髪の女軍師。
それは宵の良く知る人物。
嘘だ。そんな筈はない。光世がこの世界にいるなんて……
そう思ったが、あまりの衝撃に宵は声が出せず、ただ固まって女軍師の何とも言えない表情を見ていた。
すると、女軍師の隣にいた清華が前に出た。
「お待ちください! 先に宵様とお話させてください!」
清華の申し出に宵は隣の李聞を見て無言で頷くと1人馬を降りて光世と清華のもとへ近付いた。
「清華ちゃん、無事で良かった。あの……」
真っ先に清華の両手を握り無事を喜ぶと、チラリと横の人物を見る。
「宵様、こちらは朧軍の軍師。光世様でございます」
清華の紹介で光世は宵に微笑んで見せた。
「やっと見付けたよ。宵。元気そうで良かった」
その声は紛れもなく親友・
だが、笑顔の光世のその声は微かに震えていた。
「……何で? 何で光世がここにいるの?? ホンモノ??」
にわかには信じられない。光世は宵と同じ世界の人間。異世界転移したのは自分だけだと思っていた。そして異世界転移の鍵は祖父の竹簡の筈。竹簡は今宵が持っている。他の人間がこの世界に来る方法が他にもあったと言うのだろうか。
予想外過ぎる展開に、宵は光世をすぐにはホンモノだと信用出来なかった。
まるで人見知りでもしているかのように挙動不審に光世をチラチラと見る宵に対し、光世は呆れたように1つ息を吐いた。
「あのヘナチョコだった宵が、まさか閻帝国で軍師やってるとは思わなかった。私も頑張ったけど、全然敵わなかった。さすがは
「……あ……え? どういう事? 分かんない。何で光世がここに居るの? 居るはずない……」
宵は混乱しながらも冷静さを取り戻そうと羽扇でパタパタと顔を扇ぐ。
「突然居なくなったからさ、探しに来たんだよ……」
光世の言葉を遮り、宵は羽扇を一旦帯に挿すと、
サラサラの髪の毛、温かくて柔らかな頬。間違いなく現実の人間。大きく少しツリ目がちな目は宵の良く知る光世の目に違いない。
「ちょっと……宵」
ムッとしている光世を見て、宵は一度手を離した。
だが、それでもまだよく出来た偽物の可能性を捨て切れない宵は大学のゼミで仲間達と共に学んだ『呉子』の言葉を口にする。
「『戦いて勝つは易く』」
「『勝つことを守るは難き』」
間髪容れず応えた光世を見て自然に宵の口角が上がる。
そしてさらに問答を続ける。
「『可を見て進み』」
「『難きを知りて退くなり』」
「いいよ、いいよ! 『死を必すればすなわち生き』」
「『生を
「本物だ……本物の光世だ……!」
呉子の引用に完璧に答えて見せた事で、目の前の人物が正真正銘本物の厳島光世である事を確信した宵は、久しぶりに元の世界の知り合いに会えた喜びから人目も気にせず光世を抱き締めようと両腕を広げた。
「待った!」
だが、清華の声と同時に、光世は一歩引いて宵のハグを回避。そして代わりに宵のハグに清華が割って入り込む。
「え? どうしたの? 清華ちゃん?」
意図せず抱き締めてしまった清華の顔は何故か神妙な面持ちだった。
「落ち着いてください。宵様。もし、閻の軍師と朧の軍師が顔見知りだと知れたらどうなります? 光世様がわざと負けたのではないかと、朧の兵達に疑われ恨みを買います」
「あ……」
「今はお互い初めて会った事にしておいた方が賢明です。その為にあたしは先に2人だけを合わせたのです。宵様も話を合わせてくださいね。光世様の為に」
「分かったよ、清華ちゃん」
宵が頷くと、清華はようやく宵の腕の中で笑顔を見せた。
「後で詳しく聞かせてね、光世」
「もちろん」
宵は清華を離すと、李聞と成虎を近くに呼んだ。
「ほう、若いな。まさか朧軍の軍師もうちの軍師と同じくらいの娘だったとはな。それに、髪型も宵と似ている。これは偶然か?」
光世の姿を見た李聞は当然の疑問を口にする。
「偶然ですよ」
と、公にはそう言いながら、李聞の耳元で「詳しい話は後で」と呟くと、李聞はそれ以上光世の事には触れなかった。
「ところで、生き残ったのはお前だけか? 成虎」
「いえ、
指をさして説明する成虎に宵は訊ねる。
「
だが、その問いに成虎は気まずそうに宵から目を逸らした。
「姜美殿は、敵将の
「え!? え……え!? 重傷!? 治療中!?」
宵にとっては信じられない情報だった。
あの姜美が宵の奇襲作戦を実行して重傷を負ったなど。死んでいない事にはホッとしたが、怪我を兵達に治療されてるとしたら姜美の秘密もバレてしまったのではないか。
しかし、それをここで問うわけにはいかない。
姜美と約束したのだ。女である事は2人だけの秘密だと。
宵は頭を抱えて溜息をつく。
「他に……怪我をした者は?」
弱々しい問い掛けに今度は清華が口を開く。
「
「え……」
歩瞱。宵が間諜として送り込んだ男。
間諜という任務故、生きて帰れないかもしれないという事は覚悟していたつもりだったが、まさか、本当に戻らないとは。
宵は帯に挿した羽扇を手に持ち、顔を隠した。
完璧だと思った作戦で、宵の親しい友が大怪我をし、そして初めて出来た部下は命を落とした。
涙は止めどなく溢れ頬を伝い、ポタポタと地面に落ちた。
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