第91話 影の功労者

 燃え盛る朧軍陣営。

 炎に包まれた兵糧庫や武器庫はガラガラと音を立てて崩れ、朧国側への退路を断っていた。

 朧兵達は皆閻兵に追いやられながら景庸関けいようかん側へと逃げて来る。


 厳島光世いつくしまみつよは、清春華せいしゅんかと護衛の兵士1人を伴い景庸関の階段を駆け下りた。

 方々で戦闘が起こっている。景庸関へ追いやられた5万もの朧兵達が何とか後退しようと景庸関の門に殺到する。だが、門は固く閉じられており開く事はない。門を開いてもその先にいるのは閻の大軍。

 ここまで全て閻の軍師・瀬崎宵の思惑通りなのだろう。


「光世様、もう邵山しょうざん琳山りんざんへ逃げ込むか、門を開け閻軍に投降するしか道はありません」


 階段の途中で光世を止めた清春華が言った。

 確かに、朧兵の一部は熱さと閻軍の圧力に耐えかねて邵山と琳山へと逃れ始めていた。

 一直線に押し込まれた兵達が景庸関の門の前で必死に閻軍と戦っている。


「逃げ道……東になら抜けられると思ったんだけど……邵山と琳山からしか脱出は無理か……」


 光世の呟きを聞いた護衛の兵士はかぶりを振った。


「山に逃げるのは自殺行為です! 邵山と琳山は険しく、道を知らぬ者が入れば遭難し野垂れ死ぬのが関の山。それに、邵山にも琳山にもまだあんなに閻軍の松明が」


 護衛の兵士は灯りが煌々と灯る邵山と琳山を指さして言った。


 しかし、光世は冷静に答える。


「あの灯りは恐らくハッタリ。険しい山に何千もの兵を入れる筈がない。山にはまだ兵が大勢居るから抵抗は無意味だと思わせているのよ。兵法三十六計の二十九計『樹上開花』ね」


「ジュジョウカイカ?」


 清春華は顎に指を添えてフムと首を傾げた。


「まあ、山に敵がいないとは言え、食料も待たずに険阻な山に逃げ込む事が自殺行為だという事は私も同意」


「なら、どうしますか? 光世様。まだ策があるのならわたくしはついて行きます」


徐畢じょひつ将軍が居れば包囲を突破出来ると思ったんだけど……これじゃあ何処に居るのかも分からない……想像以上に火が強い……」


 光世は炎と人の海になっている陣営を見下ろした。

 風が茶色い髪を揺らす。


「風さえなければこんな……」


 光世は胸の前で拳を握る。

 今度こそお手上げ。一か八かの山中への脱出は選択肢にない。助からなければ宵と合流出来ないのだから。

 光世の目的は朧国を裏切らずに宵と合流する事。だが、この地獄絵図では、これ以上光世が行動出来る事は完全にない。頼りにしていた徐畢はおろか、陸秀りくしゅうの姿も見えない。

 宵の思惑通り、景庸関の朧軍は完全に破られたのだ。


「投降しましょう、光世様」


 光世の心に仕舞っていた言葉を、清春華が言った。


「え……?」


 諦めるなと言ったのは清春華だった筈だ。なのに、今度は投降を勧めてきた。

 一体何を考えているのか、と思案したが、清春華の強い光を秘めた目を見て光世は確信した。

 この子はもう光世に策がない事を見抜いたのだ。と。


 光世は大きく息を吐いた。


「そう──」


 光世が返事をしかけたその時、突然、護衛の兵士が清春華の首元へ剣を突き付けた。


「我々に投降などない! 下女は1人でどっかに行け! 軍師殿は俺が守る!」


「やめてよ! この状況で逃げられるとでも思ってるの!? 光世様を守るにはもう投降するしかないわ!」


「黙れ!」


 護衛の兵士はこともあろうに清春華の顔を裏拳で殴り階段から突き落とした。5段ほど転がり落ちて清春華は地面に伏した。


「春華ちゃん!!」


 光世は護衛の兵士を突き飛ばすと、すぐに転がり落ちた清春華のもとへ駆け寄る。


「大丈夫!? 春華ちゃん!!」


 倒れた清春華を抱き起こす光世。


「いてて……私は大丈夫です」


 可哀想に、清春華の頬は腫れ、額と口からは血が流れている。それでも清春華は自分を突き飛ばした兵士を睨み付け手元にあった木の枝を投げ付けた。


「この馬鹿兵士! アンタこそどっか行きなさいよ!」


「春華ちゃん……!?」


 まるで怯むことなく剣を持つ兵士へと反抗する清春華。光世はハラハラしながら清春華と兵士の顔を交互に見る。


「貴様……どうやら立場が分からんらしいな」


 案の定怒り心頭に発した兵士は鬼の形相で階段を一段ずつ降りて来た。もちろん、手には剣が握られている。


「やめなさい! 私の下女に手を出したら許さないわよ!」


 兵士の前に飛び出して両手を広げる光世。身体は恐怖で小刻みに震えていたが、軍師である光世の前ではさすがに兵士も足を止めた。


「軍師殿。あの下女は敵に投降を促す裏切り者。斬らねば軍師殿の身が危ないのです」


「そんな事ない! この状況で投降を勧めるのは自然な事よ! 春華ちゃんは間違ってないわ!」


 兵士は光世の言葉に苛立ちの色を浮かべた。


「……どいてください」


 光世の説得も聞かず、兵士は光世を押し退けると、座り込んだままの清春華の前で剣を振り上げた。


「裏切り者には死を!」


 粛清の名のもとに清春華の首へと振り下ろされる剣。

「やめて」と叫びながら光世は必死に兵士の身体を引っ張る──と、その時──

 兵士の振り下ろした剣は、衝撃と共に何かに弾かれ、兵士はバランスを崩し仰け反った。

 同時に、二度目の衝撃が光世の頭上に走った。そして、ゴトンと音を立てて光世の足もとに兵士の首が落ちた。


「ひっ!!??」


 腰を抜かして地面にへたり込むと、首のない兵士の身体がドサッと崩れ落ちた。


「清華! 無事か! 逃げるぞ!」


 気付けば清春華の前には朧兵が1人、彼女を守るように立っていた。


歩瞱ほよう殿! ご無事で!」


 満面の笑みを見せる清春華を見て光世は全てを悟った。

 この男が閻の間諜。朧軍の陣営に火を放ちこの地獄を作り出した男。宵の命令で……。


「あ、あの……」


 光世が男に声を掛けようとすると、男は血のついた剣を光世へ向けた。


「やめて、歩瞱殿! この人が朧の軍師。宵様のお友達なの!」


「そうか、この方が」


「うん、だから光世様も連れて3人で閻に戻ろう」


 清春華の提案に、歩瞱は剣を引かずに周りの状況を見る。

 そして僅かに思案するとすぐに答えを出す。


「分かった。なら俺が朧兵に成りすまして景庸関の向こう側に続く道へ誘導する」


 言いながら歩瞱はようやく剣を下ろす。

 しかし、光世は首を横に振った。


「駄目……ごめんなさい。私……ここに残ります」


「な、何言ってるんですか? ここは危ないですよ!?」


「私は朧国の軍師なの。徐畢将軍と陸秀将軍がまだ戦ってるかもしれないのに、先に逃げられない。私はここで……朧軍として負けたい」


「光世様……」


 必死に閻軍を押し返そうと今も戦い続けている朧兵がまだ大勢いる。光世には朧兵達を見捨てて閻へ投降するつもりは毛頭ない。


「そういう事なら分かりました。行くぞ、清華」


 光世の答えを聞いた歩瞱は躊躇う事なく光世を置いて清春華と共に脱出する判断を下した。


「駄目! 光世様を置いていけない!」


「大丈夫だ。景庸関の朧軍は次々に投降を始めている。残っている朧軍はすぐそこまで押し込まれて来た奴らだけだ。もう間もなくで片がつく。景庸関の角楼で大人しく待機していれば、いずれ姜美きょうめい殿や成虎せいこ殿が見付けて丁重に扱ってくれるさ」


「そんな……」


 清春華は悲しげな目で光世を見た。光世はそれでいいと黙って頷いた。

 しかし、清春華は光世へと抱き着いた。


「なら、あたしも残ります! 光世様が酷い扱いされないかあたしが見守ります! 歩瞱殿は先に脱出しててください」


 光世に抱き着いた清春華を見て歩瞱は溜息をつく。


「我儘な娘だ。俺は追われている身ゆえ残る事は出来ないのだぞ。俺だけ脱出したら軍師殿に何と言い訳すればいいか」


「歩瞱殿は先に脱出してください。軍師殿には投降した後であたしが弁明してあげますよ」


「分かった。なら必ず2人とも生き残れ。閻で会おう」


 そう言って、歩瞱が清春華の肩をポンと叩いたそ時、歩瞱は突然呻き声を上げてふらついた。

 何事かと光世と清春華が歩瞱の身体を見ると、その腹には1本の矢が突き立っていた。


「見付けだぞ! 閻のネズミめ! 矢を放て!」


 何処からともなく聞こえる声と共に無数の矢が光世と清春華の横を通り抜け、その全てが歩瞱へと突き刺さる。


「────ッ!!??」


 声にならない叫び声を上げ、清春華は目の前で何本も矢が突き刺さって倒れた歩瞱を抱き起こす。


 光世は余りの突然の事にただ茫然と清春華と歩瞱の様子を見ている事しか出来ない。


「歩瞱殿!!」


 清春華が叫ぶ。


「な、何をしている。早く軍師殿のご友人を角楼へご案内しろ……俺に構うな」


「でも、歩瞱殿が……」


 歩瞱の身体には5本の矢が刺さっていた。素人目にも助からないという事は分かる程にその光景は悲惨だった。

 清春華は歩瞱の手を握り必死に話し掛けている。


「逃げ足の速いネズミめ! ようやく捕らえたぞ!」


 そう言って歩瞱に矢を射た弓兵達の中から馬に乗り槍を持った将校が現れた。


卞豊べんほう殿……」


 現れたのは陸秀の部下の校尉・卞豊。光世や清春華とは顔見知りである。


「その男が我が陣営を火の海にした。生かしてはおけん! ……が、死ぬ前に少しでも情報を吐かせてやる。軍師殿は下がられよ」


 そう言った卞豊はゆっくりと馬で歩瞱のもとへと近付いて来る。

 恐怖。味方である筈の卞豊に光世は恐怖を感じ身体を震わせる。下がれと言われても動く事が出来ない。


 そんな中、清春華は歩瞱を守ろうとただギュッとその身体にしがみつく。「やめて」などとは口が裂けても言えないだろう。そんな事を言えば、歩瞱同様間諜として清春華自身も斬り捨てられる。ただ、この状況では何も言わなくとも清春華が歩瞱を庇っている事は一目瞭然。いずれ2人共殺される。

 今2人を庇う事が出来るのは光世ただ1人。

 だが、光世には歩瞱を庇う事は立場上出来ない。間諜の存在を知りながら報告しなかった事がバレたら光世もただでは済まないだろう。

 何もする事が出来ない無力な軍師・光世は、ただ自らの横を卞豊の馬が通り過ぎるのを見逃すしかなかった。


 ──ここまでか……


「朧軍に告ぐ! この陣営は我々閻軍が制圧した! 皆武器を捨て投降せよ!」


 光世が諦め掛けたその時、突如現れた閻軍の将校が、大勢の兵を引き連れ大声で叫んだ。


「あれは確か……成虎殿」


 閻の将校を見た清春華が呟いた。


「チッ! 投降だと!? お前達! 投降するくらいならせめて1人でも多く閻兵を斬れ!!」


 卞豊は馬首を返すと弓兵を引連れ降伏勧告をしてきた閻軍へと突っ込んで行った。


「止むを得ん! 斬り捨てよ!」


 閻の将校、成虎は攻撃命令を出すと、周りの兵達が瞬く間に卞豊の弓兵を討ち取った。


 そして──


閻の民の為に・・・・・・!!」


 卞豊は叫びながら成虎へと槍を突き出す。

 対する成虎は方天戟ほうてんげきを構え、すれ違いざま一撃のもとに卞豊の身体を両断した。


 血を被った成虎は方天戟を火の粉の舞う夜空へと掲げ雄叫びを上げる。


 その雄叫びが景庸関制圧の合図になった事を、ただ立ち尽くす光世は理解した。

 徐々に波及するときの声。

 勝利の声は景庸関全体を包んだ。


 そんな中、清春華は矢が突き刺さった歩瞱の身体を抱き、1人静かに涙を流していた。



 勝利に酔いしれる閻軍が朧兵の格好をした1人の影の功労者の死などに気付く筈もない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る