第86話 月夜と風

 焦げ臭さと共に朧軍の残した砦からは黒煙が立ち上っていた。砦自体が燃えている様子はなく、どうやら黒煙は内部から上がっているようだ。

 中に入れば砦はもぬけの殻。武器は矢の1本もなく兵糧だけが残されていたが、それらには1つ残らず火が掛けられていた。黒煙の原因はこれである。

 消火作業の指揮を執りながら、瀬崎宵は砦の様子をくまなく見て回った。内部は特に損壊しているところなどはない。


「朧軍め、逃げ際に兵糧を焼いていくとは。我々にこの砦を取られるのが余程怖かったようですな。だがしかし、閻は農業大国。兵糧は潤沢にある。こんな事をしても無駄です。ね? 軍師殿」


 一時も離れずに随行する副官の鄧平とうへいはせせら笑った。

 そんな鄧平に、宵はまた目を合わせずに言う。


「農業大国……実際そのようですが、私はそう感じた事はありません。街で手に入る食材は潤沢にあるようには見えませんでしたし、軍内で支給される食事も量が多い訳ではなく、とても質素なものです」


「ああ……まあ……それは……」


 鄧平は歯切れの悪い返事をして宵から目を逸らす。


「それと、砦を我々に使わせたくないのなら砦ごと焼く筈です。兵糧だけ焼いたのはただの時間稼ぎ。朧軍はまた進軍し、この砦を奪い拠点として使おうと考えているのでしょう。この砦をいつでも奪い返せると思っている。彼らはやはり怖気付いて逃げ出したのではありません。私の策を見破り、それに備える為に退いたのです」


「な……そ、そうですか。軍師殿が言うのなら間違いありますまい」


「考え過ぎだろ」と言いたげな鄧平だったが、彼は絶対に宵の意見には反論しない。


「それにしても、朧軍は的確な退却をしました。我々に包囲される前に迅速に逃げる必要があったにもかかわらず、武器を残さず、兵糧に関しては火を掛けた。焦って逃げたとは思えません。かなり冷静に手際良く指揮を執ったのでしょうね」


「まさか、朧軍の女軍師が?」


 鄧平の問に宵は頷いた。


「陣形のような戦法には精通していなくとも、戦略には長けている。兵法はしっかりと学んでいるようです」


「なるほど。軍師殿がそこまで仰られる朧軍の軍師……是非一度お目に掛かりたい」


「私もです。是非ともこちらに招きたいです。そして、兵法のお話を時間も忘れてするの……」


 宵はニヤける口元を羽扇で隠す。


「軍師殿、私も兵法を語れる程学べば、軍師殿と時間を忘れて過ごせますか?」


「えー? どうしよっかなぁ。鄧平殿はなぁ……下心丸見えだからなぁ」


「下心などありません! 私は巨乳の女性が好みなので」


 何故か自信満々に答える鄧平。宵は苦笑する。


「鄧平殿。貴方あんまり頭良くないですね」


「……じ、冗談です。実は軍師殿のような貧乳に魅力を感じます」


 宵は自分の胸に向けられる鄧平の視線を羽扇で遮ると何も答えず歩き出す。この世界の悪意のないセクハラには鍾桂しょうけいのお陰で慣れてしまった。鄧平が何を言おうが宵が動じる事はない。


「どお? 消えました?」


 宵は燃えていた兵糧に一生懸命に土を被せる兵士達に声を掛けた。


「もう少しです、軍師殿」


「大変ですが完全に消すようにしてください」


「はっ!」


「鎮火したらご飯にしましょう」


 宵が笑顔で言うと、兵士達は嬉しそうに返事を返した。作業のスピードも心做しか素早くなった気がする。


「あの、軍師殿……機嫌を損ねましたか?」


 無視された鄧平が不安そうに訊ねる。


「別に。さ、鄧平殿。本営をここに移します。本営に残っている軍を連れて来てください。兵糧の運搬もお願いしますね」


「御意!」


 鄧平はすぐに自分の部下の部曲将に指示を出し始めた。

 宵は消火作業を頑張る兵達へと目を向ける。

 砦内は熱が籠りより暑さが増していた。

 火攻めにしたらもっと熱いんだろう。などと考えながら、羽扇でパタパタと気持ち程度のそよ風を起こし宵は空を見上げた。

 統計上明日がカラス座に月が懸かる火攻め結構の日。

 しかし、風はまだ少しも吹いていない。

 風が吹かなかったらどうしよう……そう思ったが、宵はそれを決して口には出さなかった。



 ✱✱✱


 朧軍~景庸関けいようかん

 砦を失ってから1日が過ぎた。

 徐畢じょひつが六花の陣を破られた戦闘以来、両軍のぶつかり合いはない。

 ただ閻軍えんぐんは砦を奪い、楽衛がくえい張雄ちょうゆう陳軫ちんしん馬寧ばねいの4つの軍を景庸関の手前に布陣させているだけだ。

 攻めてくる様子はなく、傍から見れば朧軍の投降を待っているように見える。


 だが、閻軍の狙いはそんな生易しいものではない。

 閻軍は景庸関の左右に聳える険しい山々、邵山しょうざん琳山りんざん。そこから軍を逆落としにて奇襲させるつもりだろう。

 相手が瀬崎宵ならば十分有り得る策だ。


 厳島光世いつくしまみつよは景庸関の外の陣営内を歩き回り邵山と琳山の様子を偵察していた。 念の為その2つの山には斥候を放っている。それで敵が見付かれば良いが、人が入れるかどうかも怪しい山である。無事に斥候が戻れるかも正直分からない。

 下女の清春華せいしゅんかは一時も離れずに付いてくる。

 終始浮かない顔をして俯き一言も発する事はない。


「春華ちゃん。そんな暗い顔しないで」


『宵とは絶対会えるから』という言葉は口にしなかった。

 外で2人の関係を示唆できるような発言は極力控えるべきだ。光世の策では少なくとも非戦闘員である自分と清春華は生き残れる。

 徐畢や陸秀りくしゅうという武将達は助けられるかは分からない。徐畢の性格だと、奇襲部隊を撃滅せんと突出するかもしれない。そうなると閻軍は真っ先に徐畢を狙い討つだろう。だが、その行動を光世が止める手立てはない。奇襲部隊には誰かしらが対応しなくてはならない。そしてその役目は間違いなく徐畢になるだろう。

 今光世に出来る事は、陣営内の守りを強固にしておく事だけだ。


「光世様も暗いお顔です」


「え? そんな事ないよ?」


 清春華の指摘に光世はすぐに笑顔を作る。

 自分が自信のない顔をしていれば清春華も不安になってしまう。そうなれば、きっと清春華は命を捨てて光世を宵と会わせようとするだろう。

 それだけは避けなければならない。宵も清春華の帰りを待っているに違いないのだから。


「無理に笑顔など作らなくても……」


「無理なんてしてないよ。それより春華ちゃん。昨日は夜出かけなかったね? いつものは大丈夫なの?」


「あー……さすがに昨日はそういう気分では……って、何言ってるんですか!? 光世様!?」


 恥ずかしそうに顔を真っ赤にして光世の肩を叩く清春華。


「女同士なんだから、隠す必要ないよ。誰だってムラムラするさ」


「え……光世様もですか?」


「ま、私の事は置いといて、閻の軍師もさ、毎晩ムラムラしてんじゃないの?」


 光世の言葉に清春華は一瞬考える仕草をしたかと思うと口を押えてニヤリと笑った。


「だとしたら……萌えるかも」


「え?」


 予想外の返答に光世は首を傾げたが、清春華は隣で機嫌良さそうに跳ねるように歩く。

 何故か元気を取り戻した清春華。この娘の性癖が理解出来ないが、いつもの明るい清春華に戻ったならいいか。と、光世は微笑んだ。



 ✱✱✱


 夜。

 砦内の一室で1人、宵は熱いお湯で身体を洗っていた。

 本当はちゃんと湯船に浸かって温まりたい。しかし、軍営に湯船などはない。

 悲しいかな、桶に入ったお湯で身体を拭うだけの入浴にもすっかり慣れてしまった。

 ほぼ起伏のない平らな胸を温かいお湯を吸った布で拭う。諦めてはいるが、やはり大きい胸を見ると羨ましい気持ちはある。

 中でも直接目の当たりにした姜美きょうめいの胸は忘れない。自分の小学校低学年くらいの胸とは比べ物にならないくらい立派な胸だった。

 宵は入浴の度に自分の胸を見て溜息をつくのだった。


 そんな事を考えながら、椅子に座り脚を洗い始めた時だった。

 部屋の木製の窓がカタカタと音を立てた。

 ビクッと身体を震わせ背筋を伸ばすとすぐに聴き耳を立てる。


 誰かが覗いているのではない。そのカタカタという音は何度も窓を揺らしている。


 宵は手ぬぐいをお湯の張った桶に投げ入れると、裸のまま窓を開け外を見る。


 窓から顔を出した瞬間、心地よい風が宵の黒髪を揺らし頬を優しく撫でた。

 夜空を見上げると、ちょうど月がカラス座に懸かっていた。


「やった! 風だ! 風が吹き始めましたよー!」


 嬉しさのあまり窓から見える衛兵達に声を掛ける宵。


「軍師殿? え?」


「なんだありゃ!? 酔ってらっしゃるのか? 軍師殿は」


「おい! 皆来てみろ!」


 嬉しそうにはしゃぐ宵の方を、何故か集まって来た衛兵達もまた嬉しそうに眺めている。


 数秒考えて、衛兵達が何を見ているのかを理解すると無言で急いで窓を閉めた。

 心臓の鼓動が速い。

 その理由は分かっている。今、衛兵達に裸を見られたからではない。自らの予言通りに風が吹き始めた事による高揚感からだ。

 裸など今はどうでもいい。

 これで火攻めが出来る。景庸関奪還は目前だ。


 宵は急いで身体を拭き、服を着て身支度を整えると部屋に鄧平を呼んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る