第75話 ゲートは1つ
「
自分の名前を呼ぶ声にハッとして都子は目を開いた。
目の前には愛する夫・
つまり、先程の宵は夢……?
「良かった、気が付いたか……まったく──」
「宵は!?」
孝高の言葉を皆まで聞かず、都子は身体を起こすと同時に愛する娘の所在を訊く。
その時、向かいのベッドで寝ている
2人ともピクリとも動かずに眠ったままだ。
「宵はまだ見付かってないよ、都子」
「……私……倒れたの?」
孝高の冷静な言葉で現実を思い出して来た都子は徐々に落ち着きを取り戻す。
「そうだよ。君、身体弱いのに、ご飯も食べずあちこち走り回ったりするから過労で倒れたんだよ。幸い、院内で倒れたからすぐ先生が診てくれたけど……少し休みなよ」
「でも……宵が見付からなきゃゆっくり休んでられないわよ……」
「かと言って、君が身体を壊したら、宵が戻って来た時悲しむぞ」
「……私……宵が何処かに行っちゃう夢を見たの。『やりたい事が出来た。軍師になる』って……」
都子の言葉を聞いた孝高と司馬はお互い顔を見合わせて頷いた。
そしておもむろに司馬は、床に置いていた鞄の中から竹簡を2巻取り出し、1巻を孝高へ渡すと自分の持っている竹簡を開いた。
「それは……」
「探していた瀬崎教授の竹簡の片割れです。瀬崎教授の部屋の押し入れの中から見付けました」
「それには、宵が何処に行ってしまったのか書いてあるんですか!?」
思わぬ進展に都子は大きな声で訊く。
「ここに書いてある事が本当ならば、宵さんは“異世界”にいるという事になります」
「え!? い、異世界??」
都子は目を丸くして司馬の顔を見つめた。信じられない。異世界転移が起こったとでも言うのか。
しかし、司馬は至って真剣な表情でコクリと頷いた。孝高は既に話を聴いていたのか都子ほど驚かず神妙な顔をしている。
「仮にその……異世界へ行ったのだとしたら……助け出す方法はあるんですか? 教授」
「この竹簡によると、助け出す方法はありません」
「そんな……」
都子は両手で顔を覆い俯いた。
「都子さん。瀬崎教授の竹簡からは今回の件で様々な事が分かりました。助け出す方法はありませんが、帰って来る事は出来ると書いてあります」
「え!? 本当ですか??」
「はい。まずはこの竹簡に書いてある事を掻い摘んでお話致します。まず、宵さんが今居るであろう異世界。それは中国文明の異世界にある
司馬は言いながら孝高が持っている竹簡を指差した。
「閻……帝国……」
「はい。そして、何故宵さんが意識を失い、姿を消してしまったのか。それはこちらの『下巻』の竹簡に書いてありました」
都子は司馬の持っている竹簡を見て頷いた。
「今、孝高君が持っている上巻には、どうやら魔法のような仕掛けが施されているようなのです。その魔法とは、声に出して文章を読んだ者を閻帝国へ転移させるものです」
「文章を読むだけで異世界へ行けるの?? なら、私もそれを読めば宵のいる所へ?」
「残念ながらそれは不可能です。現に私も上巻を解読中に何度も声に出して読みました。しかし、異世界転移は起こらなかった」
「何故?」
「異世界転移にはもう1つ条件がありました。それは“名前”です」
「名前?」
「はい。上巻の竹簡の内容は、閻帝国という国についての説明のようなものでした。特に変わった内容ではなく、瀬崎教授の創作の国家の紹介文かと思っていました。ですが、鍵となるのはその文章の中に散りばめられた漢字でした。音読した者が、自分の名前に使われている漢字を読み上げると転移が起こる。そういう仕組みのようです」
「え、じゃあ、……その文章には“宵”という漢字が?」
「はい、ありました。『今
都子は大きな溜息をついた。その話が本当なら、そんな得体の知れないものを何故父・瀬崎潤一郎は持っていたのか。
「あ……もしかして、光世ちゃんと貴船君も宵と同じように異世界転移しちゃったんですか? ……あ、いや、2人はまだそこにいるから違うか」
「いえ、2人も異世界転移しています。宵さんも初めはただ意識を失っただけでしたよね。その状況と2人は同じです。下巻には、転移には2段階あるとありました」
「2段階?」
都子が首を傾げると司馬は頷いた。
「まず1段階目は“意識のみの転移”。そして2段階目が“身体の転移”。宵さんは身体の転移まで起こっているのです」
「そんな……それって、宵は完全に異世界に行ってしまってるって事ですか? どうして転移が2段階あるんですか?」
「『本人の意思が強いと現実世界の身体にも影響が出る場合がある』とあるので、本来は意識のみの転移だけの筈ですが、どうやら異世界に強く感情移入してしまうと、実体まで転移してしまうようです」
「宵は……異世界が楽しくなってしまった……って事? こっちより、異世界の方が充実してるって事?」
都子は拳を握り締めた。
「そう……なります」
「お父さんは何でそんな意味の分からない竹簡を持ってたの? 宵が読んだら……って思わなかったのかしら」
「恐らくですが、瀬崎教授は宵さんをこの閻帝国に行かせたかったのではないでしょうか」
「え? どういう意味ですか? 教授」
「上巻の冒頭で『進退極まれし時、声を発し唱えよ』と書いてあるのです。これは、宵さんが人生で何かに躓いた時に読むように、と、そういう風にも読み取れませんか?」
「……」
「それに、『今宵』という言葉。閻帝国の説明なのに時間を表す言葉は不自然です。これは『宵』の字を使いたいが為に入れた言葉かと。つまり、瀬崎教授は、宵さんが悩んだ時にこの竹簡を読ませ閻帝国へと導きたかった」
「それって……!」
突然大声を出した都子を司馬と孝高は目を丸くして見つめた。
「それって、閻帝国に行ったら宵の悩みがなくなるの? もしかして、閻帝国にお父さんがいるの?」
「そこまでは書いていませんので……何とも」
「お父さん……ほんと、何考えてるのよ」
ふと、都子はベッドで眠る桜史と光世に目をやった。それに気が付いた司馬は2人についても話始める。
「貴船君と厳島さんですが、恐らく2人も宵さんが行ってしまった異世界に行っているものと思われます。ただ、転移可能なのは本来1人だけ。1人は“閻帝国へのゲート”である竹簡を持っているのでこちらの世界に帰って来る事は出来ますが、2人目以降はその竹簡がない。転移出来たとしても閻帝国に転移出来るかは不明。そして……」
「2人は……帰って来れない!?」
躊躇った司馬の言葉を都子が恐る恐る代弁すると司馬は黙って頷いた。
「この竹簡の内容が正しければ……」
「そんな……」
都子はベッドから下りて桜史と光世のベッドの間へと近付いた。
2人の寝顔を一通り見ると都子は目を閉じた。
「お父さん……何でこんな残酷な事をするの……宵も宵のお友達も、皆返してよ」
言いながら都子は涙を流した。身体から力が抜ける。
崩れ落ちそうになるところを孝高がすぐに支えた。
「大丈夫だよ、都子。お義父さんは宵も宵の友達も奪ったりしないよ。そうですよね、司馬教授?」
「もちろん」
孝高も司馬も優しい言葉を掛けてくれた。
だが、都子はただ孝高の腕の中で泣き続けた。
ゲートは1つ。宵が戻れたとしても桜史と光世は戻れない。都子としては我が子・宵には絶対に戻って来て欲しい。しかし、娘が帰還する為に桜史と光世を見捨てる事など出来ない。
都子が泣く事しか出来なくなっていたその時、病室の扉が開かれた。
「瀬崎さん……ですか? 遅くなってすみません。厳島です。光世の様態は?」
「瀬崎さん、ご連絡と付き添いありがとうございます。……あの、桜史は?」
入って来たのは光世と桜史の両親だった。都子達は会釈を返す。しかし、彼らはそれに応じる余裕はない。心配そうに我が子を探して病室の中を見回している。そして我が子を見付けると皆一斉に愛する我が子のベッドへと駆け寄った。口々に名前を呼び身体を揺すり頬を触る。
その姿はまさに娘を心配する自分と同じ“親の姿”だと、都子は思った。
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