第41話 聖者にあらざれば、間を用うること能わず
茫然自失の
寝台から立ち上がった宵は、竹簡を閉じ、急いで部屋の出入口の扉へ走った。
「鍾桂君……」
扉を開けると、そこには鎧兜を纏った鍾桂が1人、手には食事の乗った盆を持っていた。
「朝食を持って来たよ。……あれ? どうしたの?」
鍾桂は、宵の目が少し赤くなっている事に気付いたのか、心配そうに小首を傾げる。
「何でもない。ありがとう。丁度、お腹すいてたんだ」
当たり前のように食事を運んで来てくれる兵士の鍾桂。こちらの世界に来てから本当に良くしてくれる。
何故そこまでしてくれるのかは分からない。しかし、鍾桂のお陰で軍の中でも孤独を感じないし、生活にも困る事はなさそうだ。だが、本当にそれでいいのだろうか。宵は素直に喜ぶ事が出来なかった。
「やっぱ軍は嫌か……」
食事を部屋の奥の卓に置きながら、鍾桂は意気消沈している宵に訊ねる。
「軍が嫌というより、戦が嫌かな。人が死んでいく現実が受け入れられないから……でも、
「ごめん、俺のせいで……」
しゅんとして俯く鍾桂の手を、宵は優しく握った。
「ねえ、約束しよ。私は、戦で人を
宵の言葉に鍾桂は頷き、そして瞳を見つめる。
「分かった。約束しよう。もうこの話はお互いしない」
真っ直ぐな瞳に魅入られて、宵は頬を染め目を逸らしてしまった。宵の方から握り締めた筈の、鍾桂の男らしい大きな手が、宵の小さな手を掴んで離さない。
「そ、それじゃあ私、ご飯食べるから……そろそろ、手、離してくれるかな?」
「あ、ごめん」
言われてようやく手を離した鍾桂の顔も幾らか赤かった。
「そうだ、肝心な事を忘れるところだった。
「え? 何?」
「『
「え? 私が探すの?」
間諜の人選まで自分でやるとは予想していなかった。この軍に来て2日目の宵に、5万人の兵士の中から間諜に適した人物を見付けるなど至難の業だ。
適当に5人を選ぶのは簡単だ。しかし、間諜という仕事は失敗すれば、こちらの情報が敵に漏れるどころか、その間諜が殺されるなどの危険が付きまとう。責任重大な人選である。
宵はてっきり、間諜に適した人物を廖班が紹介してくれると思っていたが、考えが甘かった。あの男はやはり無能だ。間諜の重要性を分かっていない。
『聖者にあらざれば、間を持ちうること
名君でなければ、間諜を使いこなす事は出来ない。まさに孫子の兵法の教えの通りだ。
間諜を使わなければ圧倒的に不利になる。使わずに戦など出来ないと言っても過言ではない。
孫子では、間諜の重要性が、“
「宵、あれだろ? 間諜って、敵国に潜り込んで情報を盗んで持ち帰る人の事だろ?」
急に黙り込んだ宵に、鍾桂は話し掛ける。
「うん」
「俺で良ければやるよ、間諜」
「……え!?」
有難い申し出。間諜には、信頼のおける人物である事は重要な事項。しかしながら、もちろん、敵に悟られずに情報を持ち帰る事の出来る能力も必要だ。それがなければ、その間諜は敵に捕まり、逆に利用されるか処刑される。
鍾桂にその能力があるかは宵には分からない。なければ殺されるかもしれない。宵が鍾桂を間諜に使うと決断出来る要素は現時点では“信頼”以外には何も無い。
「……」
宵は難しい顔をして、言葉を選びながら口を開く。
「その気持ちは嬉しいんだけど、間諜は、軍に入ったばかりの君には難しいと思う。せめて斥候とか情報収集系の経験がある程度ないと……」
「そうか……俺は伍長とは言え、まだ新兵だからな。重要任務は早いか」
鍾桂は苦笑して肩を竦める。
「伍長!? もう伍長に昇進したの?? さすが、出来る男の人は違うね!」
「え? そ、そうかな?」
肩を竦めていた鍾桂は、宵の賛辞に途端に喜色満面になった。
「うん、凄いよ! このまま出世し続ければ、将軍昇格も夢じゃないね! 私、鍾桂君には将軍になって欲しいな」
「も、もちろん! 俺は将軍になるよ! そして、家族に楽させてやるんだ!」
「なら、やっぱり君は間諜じゃなく、兵士として頑張るべきだよ。兵士として戦場で手柄を立て、この国の為に戦うんだよ」
鍾桂を傷付けずに間諜への志願を諦めさせる。今の宵にはそれくらいしかしてやれない。
「……何だか、上手く言いくるめられた気がするけど、俺は君の指示には従うよ。でもどうするつもり? 自分で間諜に向いてる兵士を探して回るの? 俺は
「大丈夫。1人で何とかしてみる。実は今日この後、
「そっか。何もしてあげられなくてごめん。有能な人材が見付かる事を祈ってるよ」
「心配しないで。私、
宵は胸を張って自慢げな顔を見せる。もちろん、自信があるわけではないが、鍾桂の不安を取り除かなければ、彼は任務中も気が気でないだろう。
「そうだな。君自身が有能な人だから、きっと大丈夫だな。じゃあ、俺は行くね。ここに居る間はまた会いに来るよ」
「うん、またね」
鍾桂は笑顔を取り戻し、部屋から出て行った。
それを見送ると、宵は鍾桂が持って来てくれた食事を摂った。
主食は米ではなく
そんな事を考えながら、宵は食事を残さず食べた。
丁度食事を済ませた頃、先程の下男が筆と硯、そしてさらにもう1人の下男が大きな
硯には既に墨が擦られており、行李の中には50巻程の竹簡がギッシリと詰め込まれていた。
2人の下男は、テキパキと卓の上の食器を片付け、筆と硯を卓に並べ、竹簡の入った行李を床に置いた。そして、空の食器を抱え、一礼して部屋を出て行った。
その一連の動きに全く無駄はなく、宵が手伝う余地は残されていなかった。
今は自分のやるべき事だけやればいいのかもしれない。鍾桂には鍾桂の、下男には下男の、宵には宵の仕事がある。
そう思った宵は、行李の中から竹簡を1巻取り出し、卓に並べられた筆を取り墨を付ける。
祖父の竹簡には、他のものと紛れないよう外側の1片に“宵”と書き、卓に置いた。
「さてと、お仕事始めますか」
心を切り替え、宵は竹簡に兵法を書き始めた。
これはこれで軍師っぽい仕事だな、と、少しだけ気分が上がった。
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