第35話 兵の形は水に象る

 李聞りぶんの怒号が聞こえなくなった室内は静寂に包まれていた。

 廖班りょうはんは澄ました顔で酒を1杯呷った。


「頑固な男だ。歳をとってもああはなりたくないな」


 俯いていた瀬崎宵せざきよいはらわたが煮えくり返るような想いを必死に堪えた。


「あの、お水を頂けますか?」


 宵が手を挙げて言うと、廖班が外の兵士に命令しすぐに水を持って来させ、宵の卓の酒の入っていた空の杯の横に、新たに水の入った杯を置いた。

 兵士が一礼して出て行くと、宵はすぐにそれを一口飲んだ。

 冷静に。ここで歯向かえば何をされるか分からない。宵は劉飛麗りゅうひれいの忠告を思い出し、目を瞑った。

 廖班という傍若無人な男は手段を選ばない。宵に兵法を使わせる為なら、きっと宵自身ではなく、鍾桂しょうけいやその家族に危害を加える等と言い出しかねない。

 それは絶対に避けなければならない。自分も死なず、宵の知り合いが誰も傷つかないように。

 だが今は廖班の事よりも、閻帝国えんていこくを脅かす明確な敵・・・・をどうにかするのが先だ。

 宵は深呼吸した。そして、意を決して口を開く。


「廖班将軍。早速ですが、戦況をお教え頂けますでしょうか?」


「おお、やる気だな。良い事だ。良し、許瞻きょせん殿。説明を」


 例の如く廖班は、自らは戦況の説明をせず、軍監の許瞻に委ねた。この男は相変わらず、自分では自軍の事も敵軍の事も興味を持たない。

 許瞻は立ち上がると、部屋の外にいた兵士に部屋の隅にあった机と地図を持って来させた。

 廖班と宵は地図の広げられた机の所に集まった。


朧軍ろうぐんは5万の軍勢でえんの東の国境の景庸関けいようかんを攻めている。指揮を執るのは陸秀りくしゅうという将軍。対する我が軍は、景庸関に2万5千の兵で守りを固めている。景庸関の守将は葛州かっしゅう蔡彪さいひょう将軍と廖班将軍が援軍として派遣された張雄ちょうゆう安恢あんかい成虎せいこ龐勝ほうしょうの4人がいる。廖班将軍は景庸関に籠り徹底的に守れと命じられている。交戦が始まったのは今日。2時辰程前」


 許瞻は知っている情報を言い終わると宵の顔を見た。前回の廟算びょうさんの時よりは軍の事を把握しているようだ。恐らく、宵に策を立てて貰う為に事前に情報だけは整理しておいたのだろう。


「景庸関の防御能力と武器、兵糧、補給線は?」


 とりあえず宵は敵味方の情報を集めていく。


「景庸関は高さおよそ3丈 (約10m)の石の防壁があり、外には水堀がある。中に入る手段は水堀に架けられた跳ね橋しかない。それを上げてしまえば敵は攻めるのに苦しむだろう。兵站は戴進たいしんが担当していて武器も兵糧も十分にある。物資については何の心配もない。廖班将軍のご命令通り打って出なければしばらくは持ち堪えられよう」


「防御面、武器、兵糧については大丈夫そうですね。敵の兵種は分かりますか?」


「報告によれば、歩兵4万、騎兵1万。後方に衝車しょうしゃが数台があったと」


 その報告に宵は顔色を変えた。

 衝車とは、屋根付きの台車に、釣鐘を打つ撞木しゅもくのような丸太を吊るし、その丸太を城門・城壁に打ち込んで破壊する古代中国で用いられた攻城兵器の一種だ。


「衝車まで運んで来てるの?? ご苦労な事で……。だとすると、堀を埋められて取り付かれたらそう長くはもたないか。城ならともかく、関所の防壁じゃな……。敵はまだ自国内にいるわけだから兵站も整っているだろうし……。許瞻殿、各郡からの援軍はありますか?」


 宵は地図を睨みながら許瞻に訊ねる。


「まだどこの軍も動いていないが、最も近い青陵せいりょうの軍なら1日もかからずに景庸関に着く。兵力は分からぬ」


 味方との連携が取れていない。敵は1つの国家だというのに、味方国内で連携を取らず一体どうやって敵を退けるつもりなのか。この軍というより、閻帝国自体が戦慣れしていないせいで全てが後手に回っている。

 1つとしてこちらに有利な状況を見い出せない。だが宵は落ち着いて地図を観察する。そして、景庸関の左右に広がる山々に指を置いた。


「この山は? 険しいですか?」


邵山しょうざん琳山りんざんだ。どちらも険しいが邵山には細い山道さんどうが幾つもあり行き来は出来る。だが琳山はかなり険しい山で地元の者も滅多に入らないと聞く。私も詳しくは知らぬ」


 許瞻は説明を終えると首を横に振る。

 終始黙って話を聴いていた廖班は宵の様子を窺っているようでしきりにその視線は地図と宵の間を往復している。


「“郷導きょうどうを用いらざる者は、地の利をることあたわず”。琳山に詳しい兵か高柴の民をここへ連れて来てください。いなければ現地付近の村々から連れて来てください。今すぐお願いします」


 宵の迷いのない指示に許瞻は口を挟もうとしたが、廖班がそれを手で制し、外の兵士を呼び寄せた。そして、宵の指示を伝えるとその兵士はすぐに部屋を出て行った。


「ありがとうございます。最後に1つ教えてください。今、高柴こうしには李聞殿の他に武将は誰がいて、兵力はどのくらいですか?」


 宵は地図から目を離し、不満げに顎髭を撫でる許瞻に訊ねた。


「李聞殿と楽衛がくえいしかおらぬ。兵は歩兵が8千、騎兵2千」


 許瞻の説明を聞き終わると、宵は目を瞑った。

 頭の中で兵法が駆け巡り、先程目に焼き付けた地図と融合する。まるで自分が戦場にいるかのような想像を膨らませる。汐平ゆうへいでの戦闘の記憶は宵にトラウマを植え付けこそしたが、反対に1つの大きな経験をさせた。あの時の戦場の雰囲気が宵の頭の中に本物の戦場を再現し緊迫感を与える。


「それでは、僭越ながら、策を申し上げます」


 目を開くと同時に、宵は静かにそう言い拱手する。


「良い策を期待している」


 廖班は嬉しそうにニヤリと笑う。


「景庸関ですが、次の4つを徹底させてください。1つ、打って出ない。2つ、跳ね橋を下げない。3つ、門を開けない。4つ、堀を埋めさせない。万が一、堀が埋められ衝車が防壁や門に張り付いた場合、周りの歩兵へは矢を射掛け、衝車本体には石を落として必ず破壊してください」


 宵は指を折りながら徹底防御の策を説く。

 すると、廖班はまた外から兵士を呼び寄せると、宵の言った事をそのまま伝え、すぐに景庸関へ走らせた。

 これまで宵の策に難癖を付けてきた廖班だったが、今回は妙にすんなりと宵の提案を受け入れる。


「必要な手配はしてやる。で? 今のは防衛の話であろう? 敵を倒す策は?」


 廖班に急かされ宵はまた口を開く。


「そうですね、“兵の形は実を避けてきょを撃つ”」


「ん? どういう事だ? 勿体ぶらずにさっさと申せ!」


 眉間に皺を寄せ、廖班は続きを急かす。

 不意に宵は、自分の卓に置いてある杯を手に取ると、中の水を卓にわざと零した。水は卓の上に広がり、やがて卓の縁に達し床へと落ちた。

 その宵の奇行を廖班も許瞻も呆気にとられて見ている。


「“兵の形は水にかたどる”。ご覧のように、水は高い所を避けて、低い所へと流れます。兵の形も同じで、敵がしっかりと備えている“実”を避けて、備えが手薄な“虚”を攻める。これが兵法の教えです」


 床に滴る水を眺め無言で頷く廖班と許瞻を見て、宵はコトンと杯を卓に戻した。


「つまり、戦力の充実した敵には正面からぶつからず、弱点を見付けそこを攻めろと言う事です。景庸関が持ち堪えている間に、敵を背後から突きます」


「背後から? どうやって回り込むというのだ? 景庸関の左右は山に囲まれているのだぞ……」


 そこまで言って廖班は何かに気付いた。


「そうか。琳山を通るのか。だから琳山に詳しい者を探せと言ったのだな」


「その通りです、廖班将軍。ですが、通るのは琳山だけではなく邵山もです。琳山と邵山を通り、朧軍の背後に2部隊で回り込み敵の退路を断ちます。それと同時に景庸関から全軍で出撃。朧軍を挟撃して討ち滅ぼします」


 宵の策を聴いた許瞻は溜息をつき、そして笑い出した。


「宵殿。先程も言ったが邵山はともかく、琳山のような険しい山を行軍するなど不可能だ。いくら土地勘のある者がいたところで──」


「通れない。そうです。普通は通れないんです。敵も通れないと思っています。故にそれこそが敵の弱点。最も警戒の薄い箇所。だから敢えてそこを通ります・・・・・・・・・・。“そのおもむかざる所に出で、そのおもわざる所におもむく”。これこそがまさに敵のきょを突く法。絶対に敵が仕掛けて来ない所から奇襲をかける。そうすれば敵はこちらの奇襲を防ぎきれず混乱する。正面と後方に兵力を分断させる事も出来ます。そうなればこちらにも勝機が見えるでしょう」


 なるほど、と、廖班も許瞻も納得して頷く。


「……しかし、あのような険しい山に誰が入るのだ」


 顔を顰めた廖班が問う。


「李聞殿に軽装の精鋭5百を与え琳山に向かわせてください。邵山には楽衛殿。こちらは大勢で行軍出来るでしょうから兵3千5百」


「ま、待て待て宵。4千もの兵と李聞、楽衛がいなくなってしまったら、この高柴はどうなるのだ??」


 廖班は額に汗を浮かべて言った。


「何を仰っているのですか。廖班将軍と許瞻殿、そして兵が6千も残るではないですか」


「し、しかし、万が一ここを攻められれば……俺は籠城戦などやった事はないのだぞ!」


「私だって戦などやった事はない! 私は朝廷より軍の監察に来ているだけの役人だぞ??」


 何と情けない事を言うのだろう。ただの女子大生が、命懸けで戦場に赴きこうして必死に献策をしているというのに、この男達は本当に不甲斐ない。


「私もここに残りますので、もしもの時はまた策を考えます。私の策を破れる者などおりません」


 狼狽える情けない男達を勇気づける為、宵はハッタリを言ってみる。すると、案外効果はあったようで、廖班と許瞻は落ち着きを取り戻した。


「そうだな。宵。其方を軍師としてここに呼んだのだからな。その策を無闇に否定するものではないな。今回は素直に従うとしよう」


「ありがとうございます。では、すぐに李聞殿と楽衛殿をここに呼んで今の作戦を伝えましょう」


「よし、許瞻殿。済まぬが李聞と楽衛をここに呼んで来てくだされ」


「ぎょ、御意」


 廖班の命令で許瞻が慌てて部屋を出ようとしたその時だった。


 1人の兵士が部屋に飛び込んで来た。


「報告します!」


「何だ?」


 廖班が跪いた兵士のもとに歩み寄る。


「景庸関が……落ちました」


「馬鹿な!!?」


「蔡彪殿が討ち死に! 張雄殿、安恢殿が残存兵を率いて高柴に戻られましたが、成虎殿と龐勝殿の姿はありません!」


 その報告は、宵の作戦を崩壊させると共に、閻軍の想像以上の脆弱性を思い知らされるものとなった。

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