僧肇4  涅槃無名論

僧肇そうちょうの著述活動は止まらない。

その後にも『不真空論』『物不遷論』や

『維摩経』の注釈、諸經論の序を著し、

そのすべてが後世に伝わっている。


クマーラジーヴァが死ぬと、

その永きの別れを追悼しつつ、

師への思慕をいよいよ激しいものとし、

思わず死後の世界について論じちゃった。


それが『涅槃無名論』だ。


その論は、このように始まる。


「経典ではあれやこれやと

 涅槃について語っている。

 なのでここで、愚見をまとめてみたい。


 涅槃、漢語では無為、もしくは滅度。


 無為とは有為の領域を遥かに上回る、

 広漠無辺の領域である。


 滅度とはあらゆる患いを打ち払い、

 俗世を遥かに超越することを言う」


ここから序文が長々と続き、

十のテーマ、九の FAQ を備えた。

全部で数千文字にもなるから、

高僧伝において本文は割愛されている。




肇後又著『不真空論』、『物不遷論』等。並註『維摩』及制諸經論序,並傳於世。及什亡之後,追悼永往,翹思彌厲,乃著『涅槃無名論』。其辭曰:「經稱有餘、無餘涅槃。涅槃者,秦言無為,亦名滅度。無為者,取乎虛無寂漠,妙絕於有為。滅度者,言乎大患永滅,超度四流。」云々。其後「十演九折」,凡數千言,文多不載。


肇は後に又た『不真空論』、『物不遷論』等を著す。並べて『維摩』を註し、及び諸經論の序を制し、並べて世に傳わる。什亡きたるの後に及び、永往を追悼し、翹思は彌いよ厲しかれば、乃ち『涅槃無名論』を著す。其の辭に曰く:「經は有餘、無餘の涅槃を稱す。涅槃、秦言にては無為、亦の名を滅度。無為は。虛無寂漠を取り、有為を妙絕す。滅度は、大患を永きに滅し四流を超度せるを言う」云々。其の後十を演じ九を折すも、凡そ數千言なれば、文多くして載せず。


(高僧伝6-8_文学)




涅槃無名論の高僧伝中の記述はこうです。

どん。


斯蓋鏡像之所歸,絕稱之宅也。而曰有餘、無餘者,蓋是出處之異號,應物之假名。余嘗試言之,夫涅槃為道也。寂寥虛曠,不可以形名得;微妙無相,不可以有心知。超群有以幽昇,量太虛而永久,隨之弗得其踪,迎之罔眺其首,六趣不能攝其生,力負無以化其體,眇渀惚恍,若存若往。五目莫睹其容,二聽不聞其響,冥冥窈窈,誰見誰曉。彌綸靡所不在,而獨曳於有無之表。然則言之者失其真,知之者返其愚,有之者乖其性,無之者傷其軀。所以釋迦掩室於摩竭,淨名杜口於毗耶。須菩提唱無說以顯道,釋梵絕聽而雨花,斯皆理為神御,故口為之緘嘿。豈曰無辯?辯所不能言也。經曰:『真解脫者,離於言數。寂滅永安,無終無始,不晦不明,不寒不暑,湛若虛空,無名無證。』論曰:『涅槃非有,亦復非無。言語路絕,心行處滅。』尋夫經論之作也,豈虛構哉?果有其所以不有,故不可得而有;有其所以不無,故不可得而無耳。何者?本之有境,則五陰永滅,推之無鄉,則幽靈不竭。幽靈不竭,則抱一湛然;五陰永滅,則萬累都捐。萬累都捐,故其與道通同;抱一湛然,故神而無功;神而無功,故則至功常存;與道通同,故沖而不改;沖而不改,不可為有。至功常存,不可為無。然則有無絕於內,稱謂淪於外,視聽之所不暨,四空之所昏昧,恬兮而夷,怕焉而泰,九流於是乎交歸,眾聖於此乎冥會。斯乃希夷之境,太玄之鄉。而欲以有無題榜,標其方域。而語神道者,不亦邈哉。


岩波訳を一通り読みましたが、まー要するに涅槃って老子道徳経の言う「道」です。すべての始まりにして、すべてが帰る先。ここにいながらにしてすでにあるが、しかしその存在に気付き得ないもの。


前の段階で僧肇が「道」についての具体的説明(だってそれについて老子は捨ててる、そこを考えることに意味がないから)を仏教に求めたのではないか、と仮説を置いてみましたが、ここにある論を読み、改めてその思いを新たとしました。


ぼく「あっそっち行っちゃうんだぁ……」

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