パンツァーとプロッターの書くときの違い



 パンツァーとプロッター。

 これ、前にも話題にしました。


 じゃあいいじゃないか?

 いえいえ。ちょっと待って。

 この前、これについて近況ノートに書かれてる人がいたんですよ。それを読んで、自分的に衝撃が走ったので。


 その人はプロッターとのこと。ただ、完全にラストまでプロットを仕上げてからじゃなく、途中までプロット作り、文章に起こして、またプロット……という手順なんだとか。


 このやりかたの人は多いんじゃないですかね?

 僕も昔、プロッターだったころ、これだった。

 近場の書きたいシーンを箇条書きにして、それをどれがさきで、これはあとで……と頭のなかでこねたあと、文章に起こしてた。


 いや、今回はそこじゃないですよ。

 僕がビックリしたのはですね。その人がノートのなかで、こう書かれてたことです。


『プロット考えてるときはほんとに頭使うし疲れる。文章書くときはまったく頭使わないからスラスラ書けるんだけど』


 原文のままじゃないですよ?

 なんかそんな内容を書かれてたわけです。


 これが衝撃でね。

 えっ? みなさんは文章書くとき、頭使いますか? 使いませんか?


 もちろん、文章を考えるって行為じたいに、なにがしかの思考能力が必要なわけで、表現したいものを形にするためには、まったく何も考えないなんて、ありえないとは思います。たぶん、プロットを書くときほど脳みそをしぼらないですむって意味だろうなと。


 ちなみに僕パンツァーです。何度も言うようですが、プロットなしで、いきなり書きます。長編の場合はあるていど、ラストまでのイメージがかたまってないとダメだけど、短編または連作短編なら、「妄コンからお題借りて『走りだす』で、競馬の話にしよう!」ていどで、ミステリー一本仕上げてしまいます。


 なので、文章書いてるときって、めっちゃ頭使うんですよ。ストーリーのさきのほうのことをチラチラ考えながら、数行書いて、そのすぐあとに書くべきことをたぐりよせていく感じ。


 このときの頭の働きがソリティアとか、頭使う系のパズルゲームしてるときによく似てるんですよね。数手さきを考えつつ、次の一手を出していく。


 将棋なんかでもプロの人たちは数十手さきを考えながら打つって言うじゃないですか。

 あれに近い感覚なんですかねぇ?

 さきでこうなるから、このへんでコレを出しとかないと……みたいな書きかたをしてる。

 まさに、プロットを練りながら書くのがパンツァーなんですね。


 なので、パンツァーだから何も考えずに行き当たりばったりで書いてる、というわけではない。

 もしも「自分、パンツァーです。なんも考えずに書いてます。だから、よく途中でエタります。やっぱプロット考えてから書かないとダメですね」という人がいたら、それは認識が間違ってます。あなたは真の意味でのパンツァーではない。ほんとはプロッターでないといけないとこを、サボってプロット考えてないだけ。


 スティーヴン・キングもパンツァーなんだそうです。

 カクヨム公式連載のフィルムアート社の小説講座のなかに、それについて詳しく書かれてます。

 なんかね。それによると、経験と勘でそのさきどうなるかわかる人だけがパンツァーにむいてる、とかなんとか。

 くわしく引用すると先方の許可を得ないといけなくなりそうなので、てきとうにぼかしました。


 経験と勘。これはほんとにそうだなと思う。

 僕のプロットは同じ書き手さんにも褒められることがよくあるんですが、「どうやってこんなふうに複雑なプロットが作れるの?」と聞かれても、じつは答えようがないんですよ。やっぱり、経験に基づいた勘、ですかね。

 そのとき、どの場面を入れるか、ここらであのセリフを言わせとかなきゃ、などが、なんとなくわかるので。


 なので、知りあいの書き手さんが、自作品のメイキングを書かれてて、それを読んだときにも衝撃が。

 それによると、一度書いたあと、何度も場面を足したりそいだりする、と。


 え? 僕、それできない……。


 なんというか、僕は書きながら流れにあわせて編んでしまうので、いったんできあがった形を継ぎはぎすることってできないんですよ。書いたその形以外、ありえないんですよね。一つの場面をなくして別の形にしようとすると、それにともなう後述の場面も手直ししないといけなくなって、さらにその後述の場面が影響する別の場面も……って感じに、あとに行くほど、ほころびがひろがっていくので。


 きれいに編んだセーターを想像してみてください。途中がちょっと失敗したなぁと思っても、そこをなおすためには、そのあとに編んだ部分を全部ほどかないといけないじゃないですか。失敗したとこだけ切って、ほかの糸と結んで……っていうのは難しい。できなくはないかもだけど。

 僕のプロットはそういうものなんですよね。一回編むと、ほどくことはできない。


 つまり、パンツァーというのは文章を書きながらプロットを作る人。しかも物語として(自分なりに)最善の形でプロットを編む人。そういうものなんですね。


 そういう僕でも作品によって、一日に書ける文字数に大きな違いがある。

 青蘭のシリーズは5000〜8000。ジゴロ探偵は6000〜10000。冒険録は8000〜13000。今回の読み切り、屍喰鬼ゲームは7000〜15000だった。


 これって、早く書ける話ほど、プロットに迷いがないんですよね。頭のなかで編むのが簡単な作品は早く書ける。プロットに要する時間が少なくてすむってことですね。


 文字数から見えてくるプロット組みの難しさの順番。


 屍喰鬼ゲームは一見複雑なプロットなんですが、読み切り長編なので、続編などのシリーズ全体のことを考えなくてもよかった。なので、プロットは一層。意外と道は単純。読み切りは短編も長編も一層。


 冒険録はシリーズ全体だと200万字におよびそうな大長編なんだけど、世界観がテンプレ(ゲームっぽいナーロッパ)なので、そのへんを考える必要がまったくない。その上、キャラクターはほぼすべて自作品の使いまわし。シリーズ全体のプロットと、その回一冊ぶんのプロットさえ、たまに考えておけば、あとは勘で進んでいく。ベラベラ書ける。プロットはアバウトな二層。


 ジゴロ探偵。これは連作短編なので、ほぼ短編一話ずつのプロットだけ考えておけばいい。あとは一冊ずつのまとまりとカラーをゆるく整える。ただし、ミステリーなので冒険録よりプロットが精密でなければいけないぶん、時間を食う。プロットは緻密な一層とアバウトな一層の計二層。


 もっともプロットに時間かかるのは、青蘭のシリーズ。これは100万字ごえの大長編の上に、長編一冊としての山場、さらに一話ずつの短編としての仕上がりと、つねに三つのプロットをこねこねしてないといけないので、ほかのどれよりも構成に頭を使う。プロットは三層。しかも全部が緻密。


 プロットが何層の構造を持ってるか。それによって、書くときの頭脳労働量が違ってくるってことですね。


 これを読んで、なんとなく自分はパンツァーにはむいてないかも……と思った人は、プロッターに変更したほうがいいでしょう。


 とは言え、経験と勘を養えば、いつかは誰もがパンツァーになれるってことでもあります。


 とにかくですね。今回は、パンツァーとプロッターは書くときの脳みその働きがそもそも違うってことが、個人的に衝撃でした。


 わけて使うか、同時に使うか、なんですね。

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