7.孤児院

 アルの今の気分を例えるならば、飲み会で聞きたくもない武勇伝を聞かされてる部下のソレそのものだろう。もちろん彼にそう言う経験があるわけではないが、何となく想像はつく。こう言う気持ちなのだろうと。

 確かに自業自得ではあるが、ルクスのお説教はかれこれ三十分は続いている。体感では、既に一時間を経過したところだ。


 ベッドの上に座りっぱなしで落ち着かない足を、肘をついて無理やり抑え込む。大声で怒鳴られるのはうるさいな程度で済むが、さすがは医師。静かに冷静に、言い聞かせるように怒るところが妙に生々しい。


「ルクス医師、そこら辺にしておいてはいかがです? 貴方、朝食をとっていないでしょう。お茶とサンドイッチを用意しましたから、一度朝食にしましょう」


 ルクスのお説教に滑らかな割り込みをいれたのは、紅茶の中を揺蕩うアプリコットのような髪色が特徴的な一人の女性だった。ノックの音は聞こえなかったが、手にした木製のトレーの位置を整える仕草から、怠っていたわけではないと推測できる。


 トレーには、まろやかな茶葉の香りがたちのぼるティーカップと、目玉焼きをトーストの中に挟み込んだサンドイッチが乗せられていた。

 アルは思わず唾を飲んだ。昨日目覚めてから何も口にしていないことを思い出して、胃袋がきゅっと縮こまる。

 良い焼き色のついたパンからは、甘く芳しく小麦が香り、金色の表面から滲み出たバターが照明を反射して艶々と輝く。間から覗く卵の白身は一部が茶色く焼けているが、それがまた、手作りの温かみを感じさる。


 そんなサンドイッチの魅力に、ルクスも惹かれたらしい。彼は思わず口を止め、そのまま固まっている。


「アメリア、ここは病室だよ。朝食なら、ちゃんと休憩室で摂るから」


「それは失礼。じゃぁ、はい。これを持って休憩室へどうぞ」


 アメリアと呼ばれた女性は、トレーをずいっとルクスに差し出した。彼は受けとらない。

 渡す渡さないのやり取りが収まり、次に視線だけの攻防戦が繰り広げられる。無音の火花が弾けた数秒後、誰かの腹が大きな音を立てたことで勝敗は決した。引き分けだ。

 二人は苦笑しながら、音のする方を見る。そこには、胡座をかきながら視線を逸らすアルの姿があった。


「貴方の分も作ってきましょうか」


「……いらねぇ」


 少しだけ赤くなったアルの頬を見て、ささやかに微笑むアメリア。手料理を持つ彼女の姿は、綺麗に整えられたシニヨンヘアと柔らかくもテキパキとした所作が相まって、まるで母親のようだった。


(母親か)


 もはや顔も思い出せないが、自分にも確かにいた存在。今更恋しくも思わない。だが、片時も忘れたことはない。確かに、大切なもの。

 えもいえぬ感覚が、胸をゆるく締め付ける。ノスタルジーに似た情動が、心臓を圧迫した。

 少し弱々しげなアルを見て、ルクスは思う。彼は相当お腹が減っているのだと。我ながら幼稚だとは理解しつつも、彼は悪戯な表情を浮かべてトレーを受け取る。


「アメリアには敵わないな。あーあ、それにしてもいい匂い。バターもたっぷりで美味しそうだ。ほら、じゅわぁって溢れてきてる。これは冷め切る前に食べないともったいないな」


 いかにもな嫌がらせに、アメリアは思わず呆れた息を吐いた。だが同時に、少し嬉しそうでもある。それは手料理を褒められたからと言うのもあるが、彼の表情が確かに明るくなったことを感じたからだ。

 ルクスの嫌がらせに、アルの腹は正直にぐるると唸り声に似た音を立てて、空腹を訴える。赤錆色の鋭い目で睨まれるのにも慣れたのか、飄々とルクスはアルに微笑み返した。


「そうだ。それだけ元気なら、アメリアに街を案内してもらったらどうかな? あ、もちろんアメリアの予定が空いていたらだけど」


「問題ないわ。ちょうど今から、買い出しに行こうと思っていたところなの」


「それはちょうどいい。アルも動き足りないみたいだし、荷物持ちをしてもらうといいよ」


 勝手に話しを進めるルクスだったが、アルに反対はなかった。どうせこの白い部屋にいても退屈なだけだし、ジッとしているのは性に合わない。

 気をつけてねと声をかけ、医師は病室を後にする。


 何はともあれ、長ったらしい説教から解放してくれたアメリアには感謝の至りだ。荷物運びをして恩を返しておこう。そう心で呟くアルに、アメリアは向き直った。


「改めて、私はアメリア・フローレンス。先鋭部隊ネメセイアのリーダー補佐を務めているの。と言っても、堅いことは好きじゃないから、敬称も敬語もいらないわ。よろしくね」


「アル・パーヘリオン。……あー、よろしく」


 差し出された彼女の手を、そっと握り返す。普段ならば素っ気なく払ってしまうところだが、なぜかそれができなかった。交わした手はお互いに冷たかったが、確かなあたたかさを感じる。不思議な感覚だった。


 ***


 外は快晴だ。まるで昨日の地獄が嘘のように、はたまた地獄などどこにもなかったかのように、薄情なほど空は青い。

 緑から黄色や赤へ移ろう街路樹が立ち並ぶレンガ道を、二人は歩いていた。


 チラチラと火の粉のように揺らめきながら、アルの足元に黄色くなりかけの葉が落ちた。木漏れ日が頬を掠めただけで、火に焼かれたような痛みを錯覚する。風にざわめく木々は、まるで遠くにいる戦士の雄叫びのよう。

 ここは戦場とは真逆の、全くもって平和な街だ。それなのに、常に死がそこにいるような気持ちになる。死が怖いわけでも、戦うことへの嫌悪があるわけでもない。

 火の粉と腥風せいふうに燻られ続けた体は、そこでしか息が出来ないと言うように心臓を急かす。ただ、心が落ち着かなかった。


 青年はふと、手の中にある赤色を見る。それはここエプレの街の名産品である、リンゴだった。


『エプレに来たら、まずはリンゴを丸ごと食べるの。素材の味を噛み締めてから、中央通りのスイーツ屋や露店を回るといいわ。何度でも感動できる美味しさよ』


 と胸を張って説明しながら、アメリアが買い与えてくれたものだ。

 しかし青年は、このリンゴに手をつけられないでいる。まるで質の違う赤なのに、比べるまでもなく劣る赤だと言うのに、これがあの天使の瞳に見えて仕方がない。もう一つの死の形である少女の姿が、ふと脳裏に浮かび上がった。もしかしなくとも、この胸が落ち着かないのは、今手にしているリンゴのせいなのだろうか。

 奇妙な唸り声をあげてリンゴを睨み続ける彼に、リンゴがいっぱい入った紙袋を抱えたアメリアは苦笑する。


「リンゴ、嫌いだったかしら」


「別に」


 我に返ったアルは、ひっくり返りそうになった喉をさすった。あくまで平静を装いながら果実に歯を立てる。しゃくりと、小耳の良い音と共に蜜が溢れた。舌が痺れるような甘さに、アルの鋭い目がまんまるくなる。


「うまっ」


 薄い紅色の皮から覗く黄色みの強い白の果実は、今までに食べたどれよりも濃厚だが、不思議とくどさは感じない。初めてリンゴというものを食べた幼子のように、アルは素直に感動する。彼の弾んだ声につられて、アメリアも安心したように頬を緩めた。

 手にまで滴る果汁を舐め取り、次々と頬張っていく。青年の鍛えられた掌を占領していた大玉の紅は、あっという間に芯を残すだけになった。


 ぱんぱんの紙袋を片手に抱え直したアメリアは、絵に描いたような形になった芯をアルの手から取り上げる。交差して、彼はアメリアの腕からやや強引に紙袋を受け取った。まるで息子が母を気遣うような行動に、アメリアは驚きながらも嬉しそうに微笑んだ。

 そうしている間に、芯はみるみる凍りついた。おおっと、アルは小さく歓声を上げる。アメリアの能力は、冷気や氷を操るもののようだ。手の中で凍りついた芯はいとも簡単に分解され、フレーク状になり、そよ風にのってどこかへ飛んでいく。ゴミ箱のいらない、なんとも大胆なゴミ捨て方法である。


「で、俺たちはどこに向かってんだっけ」


「あら、リンゴに記憶を食べられちゃった? 私の経営する孤児院よ。今朝たくさんリンゴをもらったから、買い出しついでに子供達にもお裾分けしたくて。アルももう一つ食べる?」


「……食う」


「じゃぁ、一個とっておくわね」


 アルの抱える紙袋から一つリンゴを取り出すと、アメリアはそれを肩掛けの小さな鞄にしまいこんだ。

 彼女は孤児院経営を始めとして、さまざまな活動に身を投じているらしい。食事に困っている人々へパンを配り歩いたり、薬草に関しての知識を分け与えたり、時には女性向けの護身術教室を開いたり……。多彩な人物だと道中ひっそりと感心を示した事を、孤児院をきっかけに思い出す。


「見えてきた。あれが私の孤児院よ」


 エプレの街からは少し離れた場所。石畳ではなく、子供達が遊びやすそうな土の上に建てられた孤児院は、キャラメル色の屋根と薔薇色のステンドグラスが印象的だった。ステンドグラスには――何かのシンボルだろうか――雫型の紅を抱く黒い三日月が描かれている。孤児院の周りは黄色の化粧を施した木々に囲まれていて、数メートル先には陽の光を浴びて一つの白い塊のように輝く湖が見える。その眩しさに、アルは目を細めて地面を見た。


(天上花てんじょうか、こんなとこにも咲いてんのか)


 病室で見た白い花が咲いている。数は多くない。しかし、確かな存在感を放つ神秘的は花は、周囲の空気を浄化しているようだ。


「ついてきて」


「……うぃ」


 早足に孤児院へ向かうアメリアの背に、苦い顔をしたアルも続く。彼は子供嫌いだ。本当は行きたくなという意思を、玄関に続く地面の削れ具合が表している。


「あっ、ママだ! お帰りなさい!」


「ただいま、可愛い子供たち」


 扉を開けてすぐ、アルは子供たちの歓声に押し戻された。バタンと、彼らの圧で扉が閉まる。否、アルが閉めた。

 腕に抱えたリンゴを見て、深い深呼吸を繰り返す。意を決して再び扉を開いた。


 外から見えたステンドグラスの赤い光の歓迎を越え、室内へ脚を踏み入れる。そこは、石張りの壁が印象深い食堂――遊び場も兼ねているらしい――だった。

 いくつかを繋ぎ合わせた長テーブルの上に放置されたクッキーはまだ焼き立てで、甘いバターの香りがする。子供たちは、おやつそっちのけでアメリアに殺到していた。


「ミリア、レイ、ユリウス、いい子にしてた? あぁ、レイチェル。風邪はもういいのね」


 抱っこをせがむ子供たちの名前を一人一人呼び、愛おしげに抱きかかえる。片手に子供を抱え、空いているもう片方の手で柔らかな髪を撫でる。

 心の隅で母は強し、という言葉にアルは一人納得していた。アメリアは、紫の目いっぱいに慈愛を湛える聖母だ。その名が相応しい。同時に、細い体躯を包む厚みのあるワンピースとは裏腹に、鎧のようにたくましさをまとい次々と子供たちを相手取る様には、一種の戦士めいたものすら感じる。


「貴方も、抱っこしてほしいの?」


「んなわけねーだろ」


 種類の違う戦場を前に立ち尽くす彼に、アメリアはからかいを投げかけた。即座に彼はツッコミを返す。

 そこでアルの存在に気づいた子供たちは、あの人誰ー? と口々に指を差した。


「リンゴの配達人」


 意外にも彼は捻った回答をして、リンゴの詰まった紙袋を走り寄ってきた子供へと差し出してやる。ぱっと目を輝かせ、子供は紙袋を受け取った。


「ありがとう! 顔の怖いお兄ちゃん!」

「ん」


 満面の笑みで踵を返す子供の足が、三歩程度でひたりと止まる。彼の視線の先には、いつの間に現れたのか、赤いフードを被った少女が一人佇んでいた。少女の来訪がまるで恐ろしいもののように、子どもたちは一斉に静まり返り、パタパタと別の部屋へと姿を消してしまう。

 確かに、彼女は異質だった。


 露出の多い衣服から覗いた腕や腹、脚に至るまで、風化した傷跡がいくつも刻まれており、整った顔立ちを斜めに断裂するように、醜い癒合跡がくっきりと走っている。現在の医学力にして、その傷跡。よっぽど劣悪な環境で育ってきたのか、はたまたなのか。

 どうやら、右目も見えていない様子だ。左目が雲ひとつない空のように透き通っているのに対し、右目はひどく濁っている。


 狼の耳と尻尾を模したファーが、少女の動きに合わせて揺れ動く。音もなく、彼女アメリアの前で静止した。最後までアメリアに抱きかかえられていた子供が、小さく震えている。安心させるように頭を撫でた後、アメリアは鞄から白い紙袋を取り出し、その子に握らせた。


「この薬を、弟に届けてくれないかしら」


 子供は頷き袋をぎゅっと抱きしめると、そそくさと部屋を去っていった。

 乾いた沈黙が立ち込める。目の前の少女は、何もしないし何も言わない。


「ただいま、ネージュ」


「アメリア、お帰りぃ。えへへ、お仕事頑張ったよ、褒めてぇ」


 アメリアが微笑み腕を広げると、ネージュと呼ばれた少女は、先ほどの沈黙が嘘のように明るい声をあげた。間延びした声が、ざらりと耳を撫でる。

 薄く雲のかかった空色の髪を揺らして、ネージュはアメリアの腕に飛び込んだ。中にすっぽりと収まった彼女の頭を、アメリアは偉いわねと優しく撫でる。満悦の様子で、彼女は頬を赤らめた。


 妙な緊張感から解き放たれ、盛大なため息を吐いたアルは、狼から犬のように変貌した少女を見る。

 自分と同じ十七程度、いや、それより少し下くらいの年頃か。まだ幼さの残る表情を浮かべた彼女は、醜い癒合跡さえなければ至って普通の女の子のようだ。


「お前、弟いたんだな」


 目の前の少女についてではなく、チラリと話題にのぼっただけの弟へ、咄嗟に思考がズレた。気配を勘ぐらせない実力と、肌を刺すような威圧感。そして、現在の小動物のように戯れ付く彼女の温度差に、脳が追いついていかないようだ。

 そこでアルの存在に気づいたのだろう。ネージュは、他の子供たちと同じように彼を指差す。


「お前、だれ……?」


 それはこっちが聞きたい。アルは心の中でツッコミを返した。

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