6.人の見る悪夢

 ぎー、ぎー、ぎー、ぎー――――――。

 鳴き声めいた音を軋ませながら、は揺れていた。ゆらり、ゆらり蕩揺とうようを繰り返す。は、誰かが手を叩いた音と共に止まる。


 そこには、白い少女がいた。


 ただ無意味に広いだけの黒い空間に、何かしらの意味を持って置かれたであろう小さな丸い卓の前で、黒い病衣のような布をまとった少女は胡座あぐらをかいていた。そこに粗放そほうさは感じられず、むしろ神聖みすらおぼえる。

 体を伝い床に流れ落ちる白髪の隙間からは、雪さえ欺くような肌が覗くが、不自然な事に顔だけは見えない。確かに彼女の髪は長いが、それが原因ではない。顔だけが、まるで白い布で覆われているように、隠されているのだ。


 人間味のない少女は、また手を叩いた。乾いた音は黒に潰え、一度だけ軋む音が鼓膜をうつ。


 そして少女は、人間のように確かな言葉を紡ぎ始めた。


「一つの過去を語りましょう。その街には、万人に等しい慈愛をもたらす、天使のような人間がいました」


 遠い御伽噺を聞かせるように、子守唄をうたうように、彼女は幼くも凛とした声で語る。それに合わせて、どこから運ばれてきたのだろう。卓の中央に、銀の蓋が被せられた白い皿と一本の蝋燭が、ことりと音を立てて置かれた。皿に盛られているのは、何かの料理なのだろうか。あまり心地の良い香りはしない。


「その人間はあらゆる病苦から人々を救い、飢えに苦しむ子らには食事を与え、知識なき哀れな者たちには己の知恵を授けました。その人間は万人を等しく救い、愛せる、とても強く優しい者でした」


 正しく連なる言の葉は、そうであるべきだと定めて作られた、一つの楽器じみたものを感じる。無機物のように、しかし穏やかな母親のように、少女は続けた。


「しかしその人間は知らなかったのです。平等は、時に人を蝕む毒になりうると言うことを。優しさとは、卓上の肉と人の区別を曖昧にすると。――彼の過ちを語りましょう。それは、優しさ故の盲目、欲深さ。そして、無意識に行われた生命の選定」


 少女は目を閉じ、そして開いた。顔は見えないが、炎のようにゆらめく緋色が確かにこちらを捉えた。

 誰も触れていないに関わらず、皿にかぶさっていた銀の蓋が徐に開かれる。ゆっくりと、皿上に乗せられたものが露わになっていく。


「欲深き者は、吊られるのが当然の末路です。誰も彼もが盲目に嘆くこの濁世だくせでは、自身が皿の上にいる事にさえ気づけない」


 そして、蓋は開かれる。

 皿の上には、悪趣味な芸術品が飾られていた。


 それは数多の白い花々に体を侵された、鴉の死骸だった。体を食い破って芽吹く大輪の花は見事だが、ほつれかけの布のように裂けた肉の隙間から、小さな花が項垂れながら密集して咲く様は、まるで死体を這いずる蛆のごとく悍ましい。

 胴体は既に花と同化しており、花に養分を吸われ一部が白骨化した大きな翼に守られるようにして、頭部分が中央に添えられている。眼窩がんかに取り繕うようにして収められた紫の眼球は、汚泥を吸い上げたように濁っていた。


「善の獣に喰い尽くされた亡骸へ、哀悼を。かの者の過ちに、炎の道標が灯らんことを。――――それでは、カーテンコールに至るまで。しばしの別れと参りましょう」


 語り部の役割は終わりだと、少女はゆるりと立ち上がる。最後に細やかな、憐憫れんびんの情を漂わせながら。


 彼女の語りを聞いていた青年がいた。彼は彼女の対面に座りながら、ぼんやりと全てを眺めていた。


 少女が立ち上がるのを皮切りに、鴉と花々は地面に落ちた水滴のように赤く弾け飛び、皿やテーブルを汚す。赤は次第に質量を増していき、バタバタとテーブルの上から青年の脚に滴り落ちた。ズボンは不愉快な粘り気と共に肌に張り付き、鉄の香りが鼻腔を刺激する。


 少女の背後で、どさりと、かが落ちた。


 それでもなお焦点の合わない目で前を見続ける青年に、少女は静かに頭を下げる。


 ――――そして世界は、蝋のように溶け落ちた。



 ***


 息が詰まる。苦しい。そんな感覚で、アルは目を覚ました。皮膚の内で細い虫が蠢いているような、吐き出せない吐き気が胸中をぐるぐると掻き回す。

 額にじっとりと滲む汗を手の甲で乱雑に拭い、アルはとりあえず上半身を起こした。


 嫌な夢を見て目覚めた時の対処法として、とりあえず布団を被る、朝ならば陽に当たる、魔除けを置く触る……などなど、様々なものがあるだろう。

 しかしアルの対処法は一味違った。


 彼は勢いよくベッドから跳ね上がると、閉め切っていたカーテンをバァンと開け放ち、陽の光をこれでもかと言うほど室内へ取り込み始める。

 ここまではいいだろう。

 彼は勢い任せに包帯を破きそこら辺に放り投げると、なんと筋トレを始めたのだ。悪い事は汗と共に流してしまおう。とか、彼はそう言う思考の持ち主なのだ。

 数時間前までは瀕死寸前の敗残兵が、今では片腕で腕立て伏せを軽々とこなすまでに回復。まさに驚異的だ。異常事態ではあるが、喜ばしい。


 数百とカウントを重ねていくごとに蓄積されていく疲労感が、体を伝う汗が、生きている喜びをアルに教えてくれる。


「ア、アル。君……」


 だが、医療班班長ルクスにおいて、それらの事態は率直に発狂寸前の大問題だった。病気や怪我が残していく爪痕の深さを、彼は知っている。ゆえにアルの行動は、己の寿命を嬉々として削る危ない奴に映るのだろう。

 ドアを開け、具合はどうかと尋ねるつもりで開いた唇がわなわなと震え始め、朝日に照らされて青や紫など複雑な色味を滲ませる、高い位置で一つに結えられた鴉の翼のような黒髪が、押し寄せる感情の波に耐える体に合わせ小刻みに揺れ動いた。焦りと不安、それらは次第に熱を上げ沸騰し、怒りとなって爆発する。


「一度、腕立てをやめようか」


 そこで声を上げないのは、さすがは医師の鑑と言ったところだろう。今持てる限りの笑みを湛えて、ルクスは黒い手袋に包まれた手をアルの肩に添える。それでもなお、彼は動き続けた。ルクスの存在を認識できないほどに集中してるのか、はたまた故意に無視を決め込んでいるのか。そのどちらなのかは定かではないが、ルクスに目眩を覚えさせるには十分なきっかけとなった。


 思わずひくついた口角を抑えて、ルクスは一度、目眩に任せて後ろへ下がり、問題患者から距離を取る。

 腕立てのカウントは増え続ける一方。ルクスがなけなしの睡眠をとって回復した体力は、ジリジリと削られていく一方。

 そこで打開策として、少々手荒な手段を取ることにした。


 ルクスは小さく息をする。微かな呼吸音が空気を揺らし、彼を中心に細やかな風が巻き起こった。そして、彼が右手を突き出し『根絶壁こんぜつへき』と呟くのに並んで、右手の先に緑の透明な壁が一枚展開される。

 壁は即座に四つに割れ、アルの腕や手足に絡みつく。プラスチックのような質感をしたソレは重く、アルの動きを見事に阻害し体勢を崩す事に成功した。四肢の自由を奪われた彼の体はつんのめり、あわや地面に激突――する寸前に、四つに割れた壁は再び一枚となり、倒れ込む彼の体を優しく受け止める。


 何が起きたのか状況を把握できない様子のアルは、元々よくない目つきをまんまるくさせながら、四つん這いのまま足音のする方を見た。そこには、一見おおらかな笑みを浮かべながら、彼の顔を覗き込む鴉のような医師の姿があった。

 アルはゾッとする。その笑顔の奥の方に、鬼も逃げ出すような怒気を感じたからだ。


「具合はよさそうだね、安心したよ。だけれど、僕の許可なしに体を動かすのは感心しないなぁ」


「あー……。悪ぃ夢見ちまったから、忘れたかったんだよ」


「そうか、それは仕方がないね。…………と、言うとでも? それとこれとでは、全く話が違うんだ」


 僕は精神科医でもないしねと付け加えながら、ルクスはアルに迫る。


 運動時に流れた汗とは別に、冷や汗がアルの背筋を伝う。彼は理解した。反省はしていないが、理解はした。ルクス・アトランティアという男は、決して怒らせてはいけないと。


「悪ぃ」


 棒で引き伸ばされたような、薄っぺらい謝罪がアルの口から溢れ出た。――――そこからルクスのお説教が始まったのは、言うまでもないだろう。


 窓の外では、楽しげに二羽の小鳥が囀っていた。

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