ep.32 今日はそれでいい
壁の向こう側に行ってなかなか戻ってこない夫が心配になったカレン。抱きしめていた我が子を少しの間だけその場に置いて自身も壁の向こう側へ。
「あなた。どうしたの……?」
どこか遠くを見つめている夫の背中に声をかける。それで視界が遮られていて前は見えない。
「カレン。これを見てくれ」前方を指差すネフライ。
「何かあったの……?」
促されて夫の隣に立ったカレンは驚きのあまり目を見張って口もとを両手で覆った。
「これは……どうして……」
「……勇者と魔族の戦いを私たちは昔話の中でしか知らない。けれど実際はこんなにも恐ろしい出来事が世界で起こっていたんだろう」
七賢者の末裔としてネフライは勇者の認識を改めることとなった。
しばらくの間、2人はその場に立ち尽くしていた。そうするとクレーターの中からこちらへと近づいてくる人影が見えた。
「あれは……」
もうその時点で2人は気づいていたが、近づくにつれて鮮明になっていく人影の帰還を静かに待った。
「元気そうだな」
「……ええ。あなたの作ってくれた盾のおかげで」
戻ってきたセンリに対してネフライは安心の表情を浮かべた。
「もうここに用はない。街へ帰るぞ。……2人も連れてな」
「……はい。一緒に帰りましょう。ですがこの状態ではとても馬車は見つかりそうにありませんね」
「馬車なら向こうに1つ見つけた。が、馬がどうなったかは知らん。車輪が回れば俺が動かす」
「分かりました。では彼らを迎えて馬車まで行きましょう」
そうして3人は死体を回収して、そこからさらに馬車のあるところまで歩いた。
予想通り馬車は吹き飛ばされていて馬の姿はそこになかった。しかし荷台は所々破損が見られるものの街までなら何とか持ち堪えてくれそうだった。
娼婦を抱きかかえたセンリとカイルを抱きかかえたネフライは死んだ彼らをまず先に荷台に乗せた。その後、センリは御者席に座り、ネフライとカレンは死体が寝かせられた荷台に乗り込んだ。
それを確認してセンリは風の魔術で車輪を動かした。ガタガタと今にも壊れそうな音を立てながら馬のいない馬車は街へ向けて出発した。
馬車は周囲の魔力を探知しながらそれが多い方角へと向かった。魔力の反応が大きければ大きいほどその方向に多くの人々が存在するということになる。付近で多くの人々が存在するとなればそこが王都の街だ。
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行きと同じ見飽きるような景色の連続を経て3人は街に辿り着いた。すでに深夜の時刻で人通りは非常に少ない。
センリはあの街外れの教会で馬車を止めた。ネフライとカレンは荷台から降りた。
荷台から娼婦を抱きかかえて出てきたセンリは静かにこう言った。
「ネフライ。あんたの知ってるこの街の最高に景色のいい場所へ案内してくれ」
「……はい。分かりました。案内しましょう」
最初は言葉の意味が分からなかったネフライ。しかしすぐに意味を理解して妻のほうを向いた。
「私たちも……いいね?」
「……ええ。そうしましょう」
カレンは穏やかな表情でゆっくりと頷いた。
3人は半刻をかけて街を歩き階段を上がって雑木林を通り抜けた。その先にはネフライのとっておきの場所があった。
そこは秘密の高台。見上げれば遮るものが一切ない一面の星空。横からは身体中に染み渡る新鮮で心地良い夜風。下を見れば広大な王都の街の全景を見渡すことができた。
「とてもいい場所……。あなた、いつからここを?」
「君と出会う前。魔術学院時代かな。全身ローブなしには直射日光に当たることができない私はみんなと遊べずにいつも一人ぼっちだった。そんな時に散歩をしていて偶然見つけたんだ。それ以来何かあれば必ずここへ来ていた。……この場所なら心安らかに眠れるだろう」
「……そうね。ここならきっと気に入ってもらえるわ」
ここまでは涙を堪えていたカレンだがいよいよとなると涙を流し始めた。
3人は魔術を行使してその場に穴を2つ掘り死体を寝かせた。ここからは別れを惜しむようにその手で土を被せていった。途中で悲しみの限界に達してカレンはとうとう号泣してしまった。それにつられてネフライもその平静な顔を涙で濡らした。
唯一センリだけは表情を崩さずにいたが、儚い命を憐れむような眼差しを向けていた。
認識の甘さが招いた悲劇。虫すら殺せなかった幼少の頃と何ら変わらないと自らをきつく戒めた。
「やることはやった。俺はもう帰るぞ」
死体を埋葬したあと、センリはさっと高台から飛び下りた。その影はあっという間に夜の街並みへ溶け込んだ。
ネフライとカレンは肩を寄せ合って朝まで我が子の思い出を語り合った。
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迎えた次の朝。いつも遅くまで寝ていたセンリにしては珍しく早起きをしていた。風の通り道になる大窓を開け放ち、バルコニーから晴天に恵まれた空を眺めている。
「どうかされたのですか?」
そっと声をかけてセンリの隣に並んだエスカ。何度ノックをしても反応がなかったので勝手に入室したようだ。
「勝手に入ってくるな」
「……ごめんなさい」
「まあいい。何の用だ」
「いえ。用という用はありません。ただセンリさんの顔が見たくなって。最近は公務が忙しくてあまりお話しすることができませんでしたから」
久々の何もない休日。エスカはセンリの横顔を見て顔を綻ばせた。
「今日は良い天気ですね。思わずうとうとしてしまいそうな心地です」
「元人間だという魔族の王はさぞかしこの空が憎かったんだろうな」
「え?」
「いくら厚い雲で覆っても流されればそれまで。どんなに嫌でもいつかはこの空を拝むことになる。まるで勝目のない戦いを挑んでいるかのような空虚感」
センリは晴れ渡った青空に唯一浮かんだ小さな白い雲を掴もうとした。
「そういえば伝承では魔族の王も異世界から来たそうですね。彼らはいったいどんな世界からから来たのでしょうか」
「さあな。そもそも誰が何の目的でこの世界に召喚したのか」
「センリさんはご先祖様のことについて何か聞かされてはいないのですか?」
「言い伝えによると俺の先祖は鉄の世界から来たそうだ。そこは魔術も使えなければ魔族もいないヒトだけの世界らしい」
「不思議な世界ですね……。どのように生活しているのでしょうか」
「やることは変わらないだろう。起きる。食べる。寝る。学ぶ。働く。遊ぶ。最後は交わって子孫を残す」
最後の言葉にエスカは顔を赤くして照れた。
「たまにふと考える時がある。もし向こうで生まれていたら、と。今と変わらない人生を送っているのか、それともより良い人生を送っているのか。……少なくともこの力に振り回されることはなかっただろうな」
「……センリさん」
自らに宿った偉大な勇者の力。それが必ずしも喜びを引き寄せるとは限らない。時には悲しみや苦しみも引き寄せる。そのことは自身の体験や歴史がすでに証明していた。
「俺とお前が結んだ契約。覚えているか」
「はい。もちろんです。私の命を自由にお使いいただく代わりに力を貸していただくというものですよね」
「その意志に変わりはないか?」
「変わりありません。むしろラボワでの一件でその意志はより堅固になりました」
そう言うエスカの眼差しは一途に真っ直ぐで。
「もしも勇者が魔族に敗北を喫せば民は新たな救世主を求めるだろう。それで新たな救世主がこの世界に召喚されて魔族を滅ぼしたとしても彼らに居場所はない。危急存亡の秋は盛大に持ち上げて平和が戻れば危険な力として廃棄処分される。使い捨ての兵器と何ら変わらない。しかしそれが勇者と呼ばれる者の真実だ」
「悲しい歴史は繰り返させません。この私が絶対に」
「お前1人に何ができる? 世論の風は一度吹いたら流れは変わらない。お前はその風を掴んで流れを捻じ曲げるとでも言うのか」
「残念ながら私1人に世論の風を捻じ曲げる力はありません。ですが事が起これば私は世界各地を巡り反対側からそれ以上の風を吹かせましょう」
「理想論だな。小娘1人の声に誰が耳を傾けるというんだ」
その返事を受けてエスカは小さく深呼吸をしてからこう言った。
「私1人で声を上げるわけではなりません。その時までに世界各国に味方を多く作り、彼らとともに訴えるのです。幸いなことに私は第二王女。王族としての責務はあっても王位継承という鎖は今のところありません。行こうと覚悟すればどこへでも行けます。センリさん。あなたを探しに出かけた時のように」
「……現実的じゃない。無理に決まっている」
「先日、私は国王より特使という役目を賜りました。世界的な脅威である魔族の情報を交換し共有するために他国へ派遣されるのです。次の月にはこの国の特使として南の隣国イグニアへ赴くこともすでに決まっています」
センリが想像していたよりもずっとエスカは自らの意思に従い行動を起こしていた。落ちてきた果実を拾って渡していただけの人形とはもう違う。
「……少しは変わったな」
目の前の彼女が口だけではないことを理解してセンリはぽつりと本音を漏らした。
「え? それは良い意味ですか? それとも……」
「悪い意味ならとうに話を切り上げている」
「良かった。ということは私のことを褒めてくださったのですね」
エスカはほっと胸を撫で下ろしてその澄んだ深緑の瞳を輝かせた。
「……今日はそれでいい」
その言葉を聞いてエスカはさらに目を輝かせてすり寄った。その様はさながら飼い主に褒められて喜ぶ子犬のよう。
「だがあまり調子に乗るな。お前たちはあくまでも加害者。気が変わればいつでもこの手を返す。それを忘れるな」
「……はい。それは分かっています……」
「俺はお前たちの先祖ほど誰彼構わず殺すような非理性的な獣じゃない。だがもしもこの世界のどこかに俺以外の末裔がいて、そいつが理性的じゃなかったらきっとお前たちは皆殺しにされていただろうな」
残忍さの中に潜む理性。それ故にセンリは寸前で手を止めることができた。
復讐の炎に身を任せて簡単に殺しても一瞬の快楽にしかならないことも分かっていた。
だから彼はもっともっと長くそれこそ虐げられてきた数百年分、彼らに重荷を背負わすことができるような償いの仕方を今この時も考えていた。
そんなことを考えているとは露知らずエスカは青天の空をふと見上げた。そして思い描いた。
鉄の世界と呼ばれる彼の故郷はきっと穏やかで美しく輝きに満ちた場所なのだろう、と。
――『その勇者の名は』編、完結――
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