第162話

 ヴァンデルは、クラウディアとメンゲルを引き連れ、基地の駐車場へと移動した。そこに整列されていた雪上車のうちの一台に乗り込み、急いでエンジンをかける。


「兵たちがどうにか奴らを食い止めているようだな」


 時折、地鳴りのような爆音と衝撃がこの駐車場まで伝わってくる。恐らくは基地の一階ホールで兵士たちが戦闘しているのだろう。

 エンジンが温まるまでの間、暫く雪上車をアイドリングする必要がある。急く思いを抑えながら、ヴァンデルは雪上車が走行可能な状態になるまで大人しく待つことにした。

 そこへふと、メンゲルが曇った眼鏡を拭きながら怪訝に眉を顰める。


「将軍、これからどこに行くんですか? 最初に断っておきますけど、貴方の娘さんを治すまで一緒に逃亡生活を送るなんてことは嫌ですからね、僕は」


 やけにふてぶてしいメンゲルの態度に、ヴァンデルは思わず眉の先を吊り上げた。


「わかっている! まずは近くの司令部に助けを求め、匿ってもらう。そこでまたクラウディアを治療するための設備を整え――」

「人体実験の設備なんてそう簡単に作らせてもらえるんですかね? あの基地の施設は貴方があそこの責任者だったから造れたものでしょう。すでに別の責任者がいる他の施設で、同じような設備を整えるには相当な時間と労力がかかると思いますがね」

「そんなもの、私の地位があればどうとでもなる。軍の施設の一つや二つ、私が声をかければ簡単に手に入る」

「さいですか」


 メンゲルは拭き終わった眼鏡をかけて肩を竦めた。

 それを尻目に、ヴァンデルは雪上車の状態を再度確認した。エンジンの調子は良好なようで、走り出すために機体は充分に温まった。


「よし、そろそろ走れるだろう。このままこの基地を――」


 そう言ってブレーキを外そうとしたところだった。

 雪上車の後部座席で、バタン、と何かが倒れる。ヴァンデルとメンゲルが同時に見遣ると、そこには意識を失って横たわるクラウディアの姿があった。


「クラウディア!?」


 ヴァンデルは運転席から後部座席へ駆け寄り、娘の華奢な身体を慎重に抱え上げる。


「どうした、大丈夫か!?」


 呼びかけても反応がない。そればかりか、体は石膏のように白く、固くなり、顔の表皮が少しずつ剥がれ落ちていた。劣化がまた始まっているのだ。


「メンゲル! これはいったいどういうことだ!? ついさっき治療したばかりだろう!」

「ええ、ちゃんと治療しましたよ」


 娘の危機に青ざめるヴァンデルとは対照的に、メンゲルはあっけらかんと応じた。


「ならこれはどういうことだ!? どうしてまた劣化が始まっている!?」

「そう何度も何度も劣化と修復を繰り返していれば、当然ガタはきますよ。修復と劣化のサイクルが速まっていることは常々お伝えしたはずですが?」


 クレーマーを相手にするようにメンゲルはやれやれと首を横に振った。ヴァンデルは怒りに顔を歪め、メンゲルに詰め寄る。


「貴様が言ったのではないか! 研究が完成すれば、クラウディアを生かしてやることができると!」

「ええ、それについて嘘は吐いていませんよ。でも、研究が完成するまでに貴方の娘さんが生き長らえることまでは保証していない」


 ヴァンデルは目を剥きながら奥歯を噛み締めた。


「どうにか、どうにかできないのか!」

「また上の研究施設を使えばもとに戻せると思いますよ」

「今この状況でそんなことができるはずないだろう!」

「と、言われましてもねぇ」

「何か手段はないのか!?」


 うーん、とメンゲルが眉間に皺を寄せて唸る。それから数秒後、何か思い出したかのように、あ、と小さく声を上げた。


「生かすだけなら、まあ……」


 しかし、それが失言であったかのように、すぐにまた黙ってしまう。

 ヴァンデルはそれを見逃さず、メンゲルの肩を強く揺さぶった。


「何を渋っている!? このままだと娘が!」

「やめた方がいいと思うんですけどねぇ」


 今一つ煮え切らない態度を取るメンゲルに、ヴァンデルが懐から拳銃を引き抜いて銃口を向けた。


「やれ」

「でもですね――」


 メンゲルはまったく臆せず何か言おうとしたが、銃声に遮られた。


「さっさとやれ! でなければ今ここで撃ち殺すぞ!」


 メンゲルは口を尖らせながらも、渋々といった様子で承諾した。

 すぐにメンゲルはクラウディアを後部席にうつ伏せで寝かせ、彼女の背中を露出させた。次に、懐から出した一枚の紙をひび割れた背中に張り付ける。それはクラウディアの背中一面を覆ってしまうほどの大きな紙だった。そこには、“騎士の聖痕”を対象物に書き写すための印章が描かれている。


「娘さんの肉体には亜人の血肉が含まれています。そこに“騎士の聖痕”を直接刻んでやれば、肉体の異常活性が始まるはずです」

「それが起きるとどうなる?」

「娘さんを蘇生できるかもしれないですね。“条件”付きですが」

「“条件”?」


 気になる一言にヴァンデルが怪訝になったが、それの回答はなかった。

 メンゲルは魔術を発動させ、クラウディアの背中に“騎士の聖痕”を刻む。魔術の実行反応である青白い光が雪上車の車内に充満し、ヴァンデルは堪らず両目を腕で覆った。


 それから数秒後、光が治まり、車内に静けさが戻る。

 クラウディアの背中には“騎士の聖痕”が絵画の如く刻印されており――ひび割れていた箇所の皮膚がみるみるうちに再生していった。

 ヴァンデルは感嘆の声を弱々しく上げ、歓喜に震える。


「……クラウディア!」


 名前を呼ぶと、クラウディアは徐に後部座席に座り直した。着衣が乱れていることなども気にせず、ぼーっと正面を見つめている。


「どうした? 意識がはっきりしないのか?」


 ヴァンデルが気づかわしげに声をかけるも、クラウディアは一向に反応を示さない。


「クラウディア?」


 もう一度名を呼んで、ようやく微かな反応を見せてくれた。

 クラウディアの唇が、ゆっくりと動き出す。


「……一度でいいから――」

「うん?」


 言いながら、クラウディアは首を少し上に傾けた。


「こんな灰色の景色じゃなくて、みんなが普通に見ている景色をこの目で見てみたかった……」


 ヴァンデルはそれを、クラウディアが死を覚悟したものと捉えた。娘の気を強く持たせねばと、ヴァンデルは苦笑しながら首を横に振る。


「何を弱気なことを言っているんだ。これからだ。メンゲルの研究が完成すれば、お前の身体もきっと元通りに――」

「結局貴方は、私の言うことを何一つ聞いてくれなかった」


 クラウディアの首と両目が、ぐりん、と不気味にヴァンデルへ向けられる。

 身の毛がよだつ恐怖を感じ取り、ヴァンデルは咄嗟にクラウディアから距離を取った。


「クラウ、ディア……?」


 ヴァンデルが間抜けに雪上車の床に尻もちをつく一方、メンゲルはいつの間にか扉を開けっぱなしに車外へと移動していた。まるで、避難するような振る舞いだった。


「早く車から出た方がいいですよ、将軍」


 さらにはそれを裏付けるような言葉が遠くからかけられた。


 直後、クラウディアに異変が起こった。

 まず、背中から大量に出血し、彼女の後方が鮮やかな赤色に染まる。それから脱力したように両膝をつき、呻くような声を上げながら両腕で自身の身体を抱え込んだ。


「クラウディア!?」


 ヴァンデルが咄嗟に駆け寄り、彼女の顔を覗き込む。そして、そこにあった異形に悲鳴を上げた。


 クラウディアの両の眼球が風船のように膨らみ、音を立てて破裂する。そこから流れたのはどす黒く変色した血で、瞬く間に彼女の顔面を侵していった。それから間もなく毛髪が一気に抜け落ち、体色が石膏のように白くなる。

 ヴァンデルが戦慄する間に、クラウディアの身体はさらに変貌していく。

 全身の骨が砕けるような音を立てながら、四肢が細く伸びていった。やがてそれらはカマキリのそれと似たように、鋭く、歪に長い形状になった。それに追随するようにして、今度は背中から骨のようなものが無数に生えていく。生え切った骨は翼膜のない羽のような形状を模り、節足動物の手足のように緩やかに動き始めた。


 変わり果てた娘の姿を目の当たりにして、ヴァンデルはただただ両目を剥いて絶句する。


 クラウディアはそんな父のことなど一切構わず、徐に雪上車から外に出た。そうしている間に、両目を失った彼女の頭部上半分が巨大な双角に置き換わった。

 車外へ出て数歩歩みを進めた矢先、クラウディアの身体がゆっくりと宙に浮きだす。足の先が大人の身長ほどの高さまで到達したところで、彼女の頭上に巨大な青い光輪が現れた。


「だから言ったでしょう。やめた方がいいって」


 呪われた天使のような姿になったクラウディアを前に、メンゲルが鼻を鳴らして呆れた。

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