第139話
部屋に閉じ込められてから二時間ほどが経過した頃――ついにユリウスが音を上げて床に尻もちをついた。彼の手は、白い手袋でも履いているのかと錯覚するほどにチョークの粉塗れになっていた。そんな彼の正面には、無数の印章が描かれた黒い壁がある。
「駄目だ。この黒い壁、何層にもなっているうえに、層ごとに別の物質で造られてやがる。そのせいで一回の魔術でバシッと決められねえ」
ユリウスの言葉が合図だったかのように、プリシラもベッドにふらふらと近寄り、後頭部から倒れるように腰を下ろした。
「おまけに、破壊すればその矢先に自動で修復するときた。これは、私たち程度の魔術ではさすがに無理だな。教会魔術師レベルの応用力がなければ、突破できなさそうだ」
二時間の間、立て続けに魔術を行使していた疲労で、ユリウスとプリシラがぐったりと脱力する。そこへ、ステラが沸かしたお茶を運んできた。二人の騎士はそれを受け取り、ほっと大きな息を吐く。
「つーかよ、無理してこの黒い壁壊してまでこの部屋を出る必要なんてねえよな? 水も食料もあるし、何だったら便所もシャワーも問題なく使える。パーシヴァルの野郎が言っていたみたいに、明日の正午まで大人しくしてねえか?」
ユリウスはお茶を飲みながら疲れた声で言った。それから煙草に火を点けようとするが、途端、プリシラが鬼の形相になった。
「おい、この状態で煙草を吸うな。今この部屋の空気を入れ替えているのは、そこの小さな換気口だけなんだぞ」
そう言ってプリシラは、窓際の壁に備え付けられた換気口を指差す。
「わかってる。そこの下で吸えばいいんだろ」
「気流に乗って部屋の中を煙が循環するだろ! やめろ!」
ユリウスが煙草に火を点けた矢先、プリシラが取り上げて握りつぶした。
騎士二人が緊張感もなくそんなやり取りをしている一方で――ステラが、その換気口の方へ近づいていった。彼女はそのまま換気口をまじまじと見つめると、難しい顔になって自分の体のサイズを両腕で計り出す。
「おい、何してんだ? お前も俺に嫌がらせか?」
「え、あ、いえ。ここの換気口、私ならぎりぎり通れないかなって……」
ステラの回答に、ユリウスが呆れて鼻を鳴らした。
「仮に通れたところで、何するよ? この黒い壁を壊してくれそうな教会魔術師でも探しにいくか? 無理だろ」
次いで、プリシラが何かに気付いたような顔でステラを見る。
「ステラ様、もしや、ラルフ・アンダーソンを止めようとしているのですか? 先ほどのガリア大公の話を聞いて」
ステラは図星に言葉を詰まらせた。
「……それは――」
「止めたら止めたで、今度は亜人がガリア公国に連れていかれるな」
口籠りそうになったステラに代わって、ユリウスがはっきり言った。ユリウスはさらに続ける。
「亡命を止めなかったら、亜人たちはグリンシュタットで新しい人生を始められる。だがその代わりに、ガリアとグリンシュタットが戦争をおっぱじめることになるかもしれない。俺にこんなこと言う権利はねえが、もう放っておけよ、どっちにしたっていい結果にはならねえんだ。わざわざ余計な首突っ込んで、自責の念に苛まれる必要もねえだろ」
ユリウスの意見にステラは黙ってしまう。その一方で、プリシラは少し難色を示していた。
「だが、ガリアとグリンシュタットが戦争状態になってしまっては、私たちにとっても都合が悪い。仮にグリンシュタットに入国できたとして、その戦争に巻き込まれることになるかもしれない」
「さすがに“はい明日から全面戦争”です、とはならねえだろ。そうなる前に、俺たちはシオンと合流して、グリンシュタットでの用事をさっさと済ませちまえばいい」
「まあ、そうかもしれないが」
どことなく納得できていなさそうなプリシラだったが、ユリウスは軽く手を振って強制的にこの話題を終わらせようとした。
「いずれにせよ、もう俺たちがここでできることはなにもねえ。シオンと合流したら、さっさと他の国に移って、そこからグリンシュタットに入る方法を探そうぜ」
不意にユリウスが立ち上がり、電話機と電話線を再び繋ぎ始めた。何の断りもない突然の行動に、ステラとプリシラが揃って首を傾げる。
「何をしている?」
「暇だからガリア大公たちの話の続きを盗聴すんだよ。パーシヴァルにはもうバレてんだ。今更遠慮することもねえだろ」
「さすがにもうあちら側が何らかの対処をしているだろう。それに、もうあれから二時間は経っている。さすがに切り上げているんじゃないか?」
「そん時はそん時だ」
プリシラの言葉を無視して、ユリウスは鋼糸を電話線に絡め、魔術で微弱な電気を流す。すると、スピーカーから数回のノイズのあとに、話し声が聞こえるようになった。どうやら、まだ切断されていなかったようだ。
『――ろで、――ア大公。亡命した亜人たちはどうするおつもりで? そのままグリンシュタットに逃がしておしまいですか?』
最初に聞こえてきたのは、パーシヴァルの声だった。まだ話は続いていたらしい。
ステラたち三人はスピーカー近くに腰を下ろした。監禁の疲労でぐったりしているその姿は、まるで昼時の民放ラジオに群がる工事作業員たちのようだった。
しかし、
『ふん、わざわざ敵国に人的資源をくれてやる義理もない。亜人どもを積む列車には、一度発車したら停車できないように細工をしたうえで大量の爆薬を積んでおく。グリンシュタット国内で脱線させ、亜人もろとも都市の一部を吹き飛ばしてやる』
ガリア大公から発せられた言葉を耳にし、すぐに驚愕と戦慄に顔を歪めた。
『そこまでやりますか。過激ですね』
『グリンシュタットの国境付近の街は、我々がこのノリーム王国にいるせいで防衛力が手厚い状態だからな。現場を混乱させ、その間に国境近くの市街地を陥落させてやる』
つい先ほどのユリウスとプリシラの会話の中にあった“はい明日から全面戦争です”という言葉が思い出される。プリシラが、厳しい目つきでユリウスを見遣った。
「ユリウス、お前の予想は悉く裏目に出るな。“はい明日から全面戦争です”という状態になろうとしているぞ」
「だから俺が原因でそうなっているわけじゃねえだろ!」
そんな二人の言い合いを余所に、電話先の話はさらに続く。
『ガリア大公って、今年で六十五歳でしたっけ? 随分と血気盛んなことで。今時、そこまで積極的に戦争を起こしたがる人、見たことないですよ』
『ふん。ラグナ・ロイウのような大都市ひとつを消し飛ばそうとしたどこぞの十字軍より幾分か落ち着いていると思うがね。さあ、もうお喋りはいいだろう。わしはこれからこのエルフに用がある。とっとと自分の部屋に帰ってくれ』
『あちらの方もお盛んのようですね。それじゃ、僕はこれで失礼しますよ』
その言葉を最後に、ユリウスが電話線を即座に切断した。
「少し遅れて繋いでいたら、危うく爺の喘ぎ声をこの密室の中で聞くところだったぜ」
「かなり危なかったな」
ユリウスとプリシラは、飛来する汚物の直撃を紙一重のところで躱したような顔で息を吐き、ほっと胸を撫でおろした。
その横では、ステラが何か思いつめた顔で固まっている。
「ステラ様?」
「どうした? 爺が裸で腰振ってる姿想像して気分悪くなったか?」
ユリウスが茶化すと、すかさずプリシラが彼の頭を叩いた。
そんなふざけたやり取りをしていた二人だが、対するステラの顔は青ざめていた。そして、
「やっぱり、ここを出て亜人たちの亡命を止めないと!」
意を決したように、ステラが二人の騎士に呼びかけた。
だが、ユリウスとプリシラの反応は薄かった。呆れと同情が入れ混じったような、本人たちすらもうまく形容できない表情でステラを見据える。
「いいのか? 止めたところで、亜人たちはガリアに引き渡されて奴隷になるぜ?」
「死ぬよりマシなはずです!」
迷うことなく言い切ったステラ――それから少しの間を置いたあとで、プリシラが徐に口を開いた。
「“死んだ方がマシな地獄がこの世にはある”――昔、奴隷の亜人を助けた時、その本人から聞いた言葉です」
重々しく発せられたプリシラの言葉を聞いて、ステラは、数ヶ月前、ガリア公国のルベルトワで、シオン、エレオノーラと共に奴隷たちを解放した時のことを思い出した。そして、そこで出会った奴隷の少女――アリスの姿も。屈託のない無邪気な笑顔を向けてくる少女の姿と、目にするのも憚られる異形になった凄惨な姿が、ステラの頭の中で交互に映し出された。
自身の人生の中でも最悪と呼ぶべき光景がフラッシュバックし、ステラは、死神に心臓を鷲掴みにされたかのように、顔面蒼白となった。
しかし、そんなことなど構わず、プリシラは容赦なく問い続ける。
「ステラ様。貴女の判断によって、多くの亜人がそれと同じような思いをすることになるかもしれません。それでも、亜人たちの命を救いたいと思いますか?」
ステラは自身の胸を両手で強く押さえた。服の下で、突き立てた指が皮膚にくっきりと跡を残しているのが痛みで伝わる。そうやって呼吸が乱れそうになるのを必死に堪え、ステラは、震える唇を無理やり動かした。
「……はい」
弱々しいが、はっきりと聞き取れる意思表示だった。
ユリウスが、嘆息するように小さな息を吐く。
「……まあ、亜人どうこうはともかく、このままガリアに戦争の口実を与えるのはよくねえな」
それにはプリシラも同意した。
「そうだな。どちらか選ばなければならないとすれば、私たちとしては、亜人の亡命を阻止し、ノリーム王国が無事に同盟を結び、戦争を回避する方向に持っていきたい」
明言こそしなかったものの、二人の騎士は、ステラの意向に従ってくれるようだった。
だがそうだとして、この部屋からどうやって脱出するのか――
「あ、で、でも、結局ここから出る方法を探さないと――」
「できればやりたくなかったが、最後の手段にとっておきがある」
ステラがおろおろしていると、ユリウスが立ち上がりながらそう言った。彼はワイシャツを脱ぎ捨て上半身インナー姿になると、これから何か激しい運動でも始めるかのように身体を軽く動かして温め出す。すると、プリシラも同じように身軽な恰好になって、スーツケースから自身の長槍を取り出した。
「とっておき?」
不可解な行動をする二人の騎士にステラが怪訝に眉を顰めると、
「壊れるまでこの壁ぶん殴る」
ユリウスが短く答えた。
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