第98話

「ガイウス卿。何故、亜人と人間の混血は禁忌とされているのですか?」


 今となっては、その質問をしたことが遠い昔に感じられる。

 まだ十二歳くらいだった頃――従騎士になって “師”という存在ができた。シオンにとってのその存在は、“リディア”とはまた違った、別のベクトルでの生きる標であった。“リディア”が母であれば、“師”は父と呼ぶべきなのだろうと、幼く未熟ながらに考えたことがある。


「狭間の者であることが、それほどまでに忌み嫌われることなのでしょうか?」


  “師”はありとあらゆる“術”を教えてくれた。理のない暴力を挫く力、俗説に侵されない知識、不条理に屈しない倫理――“生きる”という単純で残酷な現実に立ち向かうためのありとあらゆる“術”を、それこそ細胞の一つひとつに沁み込ませるかの如く、叩きこまれた。


「運命などあり得ず、真実もまた存在しない」


 まるで回答になっていない言葉が返され、頭の中が真っ白になったのを覚えている。それが何を意味するのか――また、的外れなことを言えば、淡々と諭されるように叱られると思い、シオンは思わず口籠る。

 だが――


「いつかに存在したどこかの誰かが決めたことに惑わされるな。お前が学び、経験し、思ったことと照らして違和感を覚えるのであれば、すべからくそれは疑問とするべきことだ。ドグマは個を縛り付けるものであってはならない」


 “師”は、どことなく、シオンの意に肯定的な回答を示した。


 この時、シオンはとにかく嬉しかった。初めてだったのだ。普段から厳しい“師”が、自分の考えを否定しなかったことが。


 混血は許されない――小姓だった時に学んだ現代の倫理において、そのことは、シオンがとりわけ納得できない教えだった。


「何故お前が急にそんなことを訊き出したのかは知らないが――その疑問はごもっともだ。俺も、その禁忌に意味があるものとは思えない」


 シオンが何かを言う前に、“師”はそう応えてくれた。


 認められた気がして、自分でもらしくないと思うほどに、妙な高揚感を覚えた。


 だが、今振り返れば、“あの男”にとっては、こんな些細な弟子とのやり取りですら、自らの野心を満たすための、ただの情報源としか見ていなかったのかもしれない。

 “あの男”は――ガイウス・ヴァレンタインは、感情の一切を排した合理的な完璧主義者なのだ。


 あの時、あんな問いをしたがために、“リディア”がハーフエルフであることをガイウスに知られたのではないかと、シオンは常々後悔していた。

 事実、結果として、シオンのこの問いかけから、ガイウスは“リディア”の正体に勘付き始めた。この時、すでに“リディア”は教会内でも聖女に次ぐ強力な権力を持つ修道女であり、実益を齎さない権力者を嫌うガイウスは、彼女のことを教会の足枷としてどこか敬遠していた節があった。ゆえに、この時点でガイウスは、“リディア”を失脚させる術を思いつき始めていたのかもしれない。


 もっと慎重になっていれば、もしかしたら“リディア”は――そう思い返されることは、この数年の間に、幾度となくあった。


 しかしその一方で――こうしてふと夢の中で思い出すと、今となっては信じられないほどに、騎士時代のガイウスは人道的なことを言っていたなと、シオンは思い出していた。

 自分が従騎士として師事していた時は、間違いなくガイウスは、亜人と人間、双方に差別という悪意の色を持っていなかった。

 そんな人間が、騎士を辞めて教皇になった途端、何故ガリア公国と手を組み、亜人狩りなどという蛮行を――いや、何者かであるかは、一切関係がない。


 自分か、それ以外――とどのつまり、ガイウス・ヴァレンタインの本質は、それなのだ。







「兄貴、起きてくれよ! 午前中に準備しないと、抽選会に間に合わないぜ!」


 シオンが目を覚ましたのは、ソーヤーの甲高い声に呼びかけられたからだった。

 スラム街の格安宿――というより、ほぼ娼館同然の場所で、シオンは新年を迎えた。幸い、スラム街の人間も年越しを祝うため、その多くが外に出払っており、昨夜の宿はとても静かだった。


 体を起こすと、かび臭いシーツを被せたベッドが悲鳴のような軋み音を上げる。部屋の中は異様に寒く、息が白かった。恐らく、暖房が夜のうちに故障して止まったのだろう。


「ボスが酒場に来てくれって。衣装やらなんやら揃えたから、さっさと着替えてほしいってさ。採寸違ってたら取り替えないといけないからだって」


 瞼を何度か瞬かせると、部屋に勝手に入っていたソーヤーが腰に両手を当てて、目の前で仁王立ちしていた。

 シオンは、手首に巻いていた髪留め用の紐を使って、手早く長髪を後ろに一本にまとめる。十秒もかからずにそれを終えると、ふと、ソーヤーがじっとこちらを見ていることに気付いた。


「なんだ?」


 すると、ソーヤーは一瞬だけ体をびくつかせ、少し頬を紅潮させる。


「え、あ、いや、別に……」


 もしかして、こいつも俺のことを女みたいだと思ったのか――シオンはそんなことを考えながら軽く息を吐いた。短髪にすればいくらかは男らしく見えるのかもしれないが――面倒くさい。シオンは、髪を整えるということに対して、えらく無頓着な人間であった。


「ネヴィルはもう酒場にいるんだな?」


 シオンは首を左右に倒しながらベッドから立ち上がる。そのまま部屋を出ると、彼の後ろをソーヤーが餌を求める野良犬のようにして早足でついてきた。


「うん。なんか知らんけど、すごい気合入ってたぜ」

「……なんであいつが気合入るんだ?」

「さあ……」


 そんなささやかな疑問を抱きつつ、二人は早々に酒場へと向かって行った。

 酒場は宿から歩いて二十分もかからない場所にあり、店の前にはライカンスロープの二人組が用心棒のようにして立っていた。


「今更なんだが、あのライカンスロープの二人組、何者なんだ?」


 シオンが訊くと、


「ああ、兄貴たちのこと? この西区で暴力沙汰が起きたりすると、体張って止めてくれるんだよ。警察の替わりみたいなもんかな。ボスや兄貴みたいな騎士にはさすがに敵わないけど、結構強いんだぜ? 俺も子分にしてもらったし」


 ソーヤーはあっけらかんとして答えた。

 初めて会った時はただのチンピラだと思ったが、ちゃんとそれなりの社会的な役割を担っていたようだ。確かに、シオンがソーヤーを懲らしめていた場面は、傍から見れば大人が子供をいじめているようにしか見えなかっただろう。ライカンスロープの二人組なりに、正義感を持ってシオンに絡んできたのだと思われる。

 シオンがそんなことを考えながら、若干の敬意を孕んだ双眸で、二人に視線を送った。

 すると二人は、慌てたように姿勢を正し、何も言わずとも酒場の扉を開いて優雅な所作で招き入れてくれた。


「兄貴たち、シオンの兄貴に相当ビビってるみたい」


 酒場に入って間もなく、ソーヤーが苦笑しながらそう言ってきた。二人に絡まれた時は、余計なことをさっさと終わらせたいがために、少々手荒な脅しを使ってしまったが、まさかあそこまで怯えられるとは――自業自得ながら、シオンは少しだけ傷つくような思いに見舞われた。


 と、そんなどうでもいいことを考えていると、開店前の誰もいない酒場の奥からネヴィルが出てきた。


「おはようございます、シオン殿」

「アンタ、もしかしてここに寝泊まりしているのか?」

「そうですよ? あれ、言ってませんでしたっけ?」

「初耳だ」

「僕がこの街に来たのと同時期ぐらいに酒場の店主が夜逃げしちゃったらしくてですね。従業員と常連さんたちが困っていたところ、事態が動くまでの暇つぶしになるかなと思って、僕が代わりに経営してたんですよ」


 何気ない会話のつもりだったが、不意に、シオンは眉を顰めた。


「事態が動くまでの暇つぶし? まさか、始めから俺がここに来ることを知っていて利用するつもりだったのか?」


 鋭い口調でシオンが言うと、ネヴィルは肩を竦めて、軽い調子を見せてきた。


「いや、まさか。事態が動くまでの暇つぶし、とは言ったものの、正直、妙案が思い浮かばずに八方塞がりの状態でしたよ。ちょっとした息抜き――もとい、現実逃避ですかね。まあ、貴方がここに訪れずとも、今日この一月一日を迎えれば、僕が作戦の実行者になっていただけです」


 そう言って、はは、と自嘲するが、シオンは疑いを晴らしていなかった。

 この男は、イグナーツほどの悪質さはないが、同じくらいに胡散臭く、信じられない。気を抜けば、いつの間にかいいように利用され、仕事を押し付けられているというのが、騎士の時からの教訓だ。


「さて、シオン殿もいつまでもそんな怖い顔しないで、さっさと準備を始めましょう」


 シオンの疑念を無理やり意識から剥がすように、ネヴィルが両手を叩いた。

 今ここで問い詰めたところで、利になるものはない――シオンはそう頭を切り替えて、ネヴィルが一体何をどこまで計画してるのかを、いったん放念することにした。

 怒りを鎮めるような深い深呼吸をして、シオンは改めてネヴィルに向き直る。


「それで、準備って具体的に何をすればいい? 正装すればいいのか?」

「はい。いい服手に入れたので、シオン殿とソーヤーは早速、着替えちゃってください」


 うきうきした様子で言ったネヴィルは、酒場のカウンターに置いてあった二つのスーツケースを、シオンとソーヤーに差し出してきた。どうやら、この中に衣装が入っているらしい。

 シオンはスーツケースを受け取り、淡々とこの場で着替え始める。

 一方で――


「ソーヤー?」


 シオンに声をかけられ、ソーヤーがびくりと体を上下に跳ねさせた。ソーヤーは、スーツケースを抱え込み、店の奥の方へ行こうとしている。


「どこに行く?」

「え、あ、いや、ここ寒いから、店の奥で――」


 と、言いかけたところで、ソーヤーの顔が真っ赤になった。ソーヤーの瞳には、上半身裸のシオンが映っている。


「――!」


 途端、凄まじい勢いで駆け出し、何か続きの声をかける間もなく、店の奥へと消えてしまった。

 そんなソーヤーの奇行を見て、シオンが無表情に片方の眉だけを上げながら首を傾げる。


「……どうしたんだ、あいつ?」


 すると、カウンター席に座り、いつの間にか店のビールを飲み始めていたネヴィルが、何かを含んだ笑みを顔に携えて、


「まあ、あの年頃には色々ありますよ。色々、ね」


 と、独り言のように語っていた。

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