第95話

 わけもわからず出会ったばかりの子供に腕を引かれ、シオンは、ラグナ・ロイウの西区と呼ばれる場所へ案内された。ちょうど、客船が停泊した港に対して、正反対の場所に位置する区画である。

 そこは、他の区画の華やかさに反して、貧民街と呼称するに他にないほど荒んでいた。異臭を放つ水路は黒く濁り、底が見えないドブの川と化している。建物はどれもこれも修繕が必要な状態のまま放置され、その多くがレンガ造りであるにも関わらず、廃材による突貫の補強で済まされていた。路地裏には、ならず者や浮浪者、娼婦が日銭を求めて怪しげな動きをしており、治安という概念すら頭に浮かばない有様である。子供たちは揃って死んだ魚のような目をしており、遊ぶどころか立つ気力すらないのか、ドラム缶の中に入れた木材に火を点けて暖を取り、スキットルの飲料水を回し飲みしていた。


「おい、待て。どこに連れていくつもりだ?」


 シオンが戸惑いながら、目の前を早足に歩く子供――ソーヤーをそう呼び止めた。腕を両手で掴まれ、無理やり西区の奥へ奥へと連れていかれる。西区の住民たちは、その様子を奇異な目で見遣っていた。シオンのような小奇麗な恰好をした若者を見るのが珍しいのか、まるで珍妙な動物を目の当たりにしたかのような有様だ。だが、後に続くライカンスロープの二人組が番犬のようにして睨み返すと、途端に黙って視線を外す。ライカンスロープの二人組というのは、無論、つい先ほどシオンに絡んできた輩たちのことである。


「俺たちのボスに会ってほしいんだ、“兄貴”!」


 シオンの問いかけに、ソーヤーは意気揚々とした様子で答えてきた。

 兄貴、という言葉を聞いて、シオンは眉間に深い皺を寄せる。


「“兄貴”って……まさか俺のこと――」

「兄貴以外に誰がいるんだよ」


 ソーヤーは当然の如くといった感じで肩を竦めてきた。シオンが無言で吃驚する。


 そうこうしているうちに、西区の奥地へと着いた。ラグナ・ロイウを構成する島々の最西部に位置する場所だ。


 スラム街同然の街並みを抜けた先にあったのは、視界一杯に広がる水平線――初めて目の当たりにする光景に、シオンは思わず、その赤い両の瞳を大きく見開いた。


「兄貴、ぼーっとしないでくれよ。こっちだ」


 ソーヤーが、棒立ちするシオンの腕を強く引いて彼の意識を呼び戻す。シオンは、ああ、と短く間抜けな声を上げ、大人しく従った。


 ソーヤーに連れられて入ったのは、酒場と思しき建物だった。とは言っても、外壁はすべて鉄板や何かの廃材で組み立てられており、潮風で錆びまみれで、とてもではないが飲食物を扱う場所とは思えない有様だ。酒場と判断できたのも、辛うじて看板にそうと書かれていたからである。

 そこに扉はなく、茶色く変色した布が一枚、頼りなく吊るされているだけだった。後ろについていたライカンスロープの二人組が見張りのように出入り口前で待機しつつ、ソーヤーが布を勢いよく捲ると、酒と煙草、それに汗の臭いが一気に漏れ出す。


「この奥だ」


 シオンが顔を顰めている間にも、ソーヤーはぐいぐいと引っ張ってきた。酒場の中は、店というにはあまりにも不衛生かつ散らかっていた。テーブルと呼べるほどの物はなく、空の酒樽や何かの鉄板が代替とされ、そこに酒瓶が大量に乗せられている。客は浮浪者のようなみすぼらしい身なりをした者ばかりで、娼婦と一緒になって声高に乱痴気騒ぎを起こしていた。


「おい、いったい俺をどうするつもりだ?」


 シオンが戸惑いつつも訊くと、


「ああ、悪い悪い。ここ、ちょっと臭いよな。でも、ここを通らないとボスのいる場所にいけないからさ」


 ソーヤーが的外れなことに対して謝罪するだけだった。

 埒が明かないと、シオンがいよいよ不機嫌になる。と、その時だった。不意に、シオンの肩に何者かの手が置かれる。


「おい、ソーヤー。そんな上玉、どこで見つけてきた?」


 振り返ると、酒で顔を紅潮させた中年の男が、吃逆を起こしながら言ってきた。

 ソーヤーが頭を掻きながら引きつった笑いを見せる。


「上玉って……この人は娼婦じゃないし――ていうか、男だよ。確かに綺麗な顔してるけど」


 すると、中年の男は機嫌を損ねたようにシオンとソーヤーに詰め寄ってきた。


「あん? んなわけねえだろ! ソーヤー、てめぇ、大人を揶揄うのも大概にしろよ! こんな別嬪が男なわけねえだろ! おい、ここで働かせるなら最初に俺に――」


 刹那、中年の男がその場から姿を消した。正確には、後ろに大きく吹き飛んだのである。車に追突されたかの如く、男は酒場のテーブル席に突っ込み、そのまま気を失わせていた。

 途端に静まり返る酒場――その中心にいるのは、中年の男を殴り飛ばした腕を伸ばしたままのシオンだ。


「あ、兄貴……?」


 ソーヤーが、恐る恐るといった様子で話しかける。シオンの顔は無表情であったものの、怒りで目の周囲だけが酷く歪んでいた。そのただならぬ迫力にソーヤーが気付き、ヒッ、と怯えていると、


「な、なんだ、この男女! 俺たちとやろうってのか!?」


 客の男の一人が、威勢よく怒号を放ってきた。だが、すぐにその男の身体が、またも白昼夢のようにして消えてしまう。一瞬のうちに起きた轟音――絡んできた男は、酒場の壁を突き抜けて、海へと突き飛ばされていた。

 無論、やったのは、シオンである。


「て、てめぇ! 女だからって調子乗ってると――」

「誰が女だぶっ殺すぞ!」


 息巻いた酒場のならず者たちの声を掻き消す勢いで、シオンが獣の如く吠えた。あまりの声量に、酒場中のグラス類が小さなひび割れを起こし、身体の細い娼婦たちが気絶したほどである。

 美人が怒ると怖い――まさにそれを体現したかのように、シオンの顔は憤怒に酷く歪められていた。


 シオンは、その異常なまでに整った容姿から女と間違われることがたびたびあったが、それは彼にとってこの上ない屈辱だった。幼少の頃から、ことあるごとに女と間違われ、男としてのプライドが悉く蔑ろにされた過去がある。

 十五歳を過ぎたあたりから、声変わりや体格の変化によって、ようやく間違われることがなくなってきたのだが、それでもなお、女と思われることには耐えがたい羞恥心があった。


 酒場のならず者たちは、そんなシオンの逆鱗に触れてしまったのである。


 シオンは、向かってくる男たちを、文字通り、ちぎっては投げちぎっては投げ、瞬く間に酒場を死屍累々の惨状と化してしまった。手加減はしているものの、騎士の身体能力で振り回されることは、グリズリーにどつきまわされる以上に威力があり、シオンに挑んだ男たちは漏れなく意識を失って口から泡を吹かせていた。


「あ、兄貴、落ち着いてくれ!」


 ソーヤーが咄嗟にそう声をかけるが、


「おい、誰が女だ!? あ!? 聞いてんのか、おい!?」


 シオンは額にいくつもの青筋を浮かばせ、普段の落ち着いた振る舞いからは想像もつかないほどにガラの悪い言葉を放っていた。まるで、戦闘時の苛烈さが意思を持ち、シオンの人格に憑依したかのような有様である。そんな彼に胸倉を掴まれて体を揺さぶられる男は、無論、すでに意識を失っていた。

 店の外で待機していたライカンスロープの二人組が、何事かと応援に駆け付け、しがみつくようにシオンを制止させようとするが、彼はそんなことなどまったく意に介していない様子で怒りをぶちまけていた。


「なあ、もういいだろ! そいつらも悪気はなかったんだ! もう許してやってくれよ!」


 ソーヤーが半べそを掻きながら、ボコボコにされた男たちに代わって命乞いをする。


 と、そんな時だった。店の奥から、人影が現れたのは。


「騒がしいですね。何事ですか?」


 そこにいたのは、一人の男だった。羊毛のような茶色いくせ毛を携えたその顔は色白で、どこか気だるげである。丸眼鏡の奥にあるのはアーモンド色の双眸で、今しがた目を覚ましたばかり、といった覇気のなさだ。成人した男にしてはやや小柄で、身長は一七〇センチもなく、細身である。身に纏うローブのような服は小汚く、ぶかぶかであった。

 その男の姿を見るなり、ソーヤーの顔がぱあっと晴れていった。


「ボス!」


 ソーヤーにボスと呼ばれた男は、酒場の荒れようを目の当たりにし、眠気を覚ましたかのように目を丸くさせた。


「な、なんですか、これは? でっかいイノシシでも暴れたんですか?」


 男はそう言って仰天しながら酒場を見渡す。するとすぐに、未だにならず者の胸倉を掴み、恫喝し続けるシオンの姿が、彼の目に留まる。

 そして――


「し……シオン殿……?」


 男が、驚いたように、シオンの名を口にした。

 シオンもまた、思いがけないところでその声を聞いたといった風に、怒りから我を取り戻す。彼もまた、男を見て、驚きに目を見開いた。


「アンタ……ネヴィル・ターナーか?」


 ネヴィルと呼ばれた男は暫く硬直していたが、やがて緊張を解くように息を吐き、小さな笑みをこぼす。


「まさか、こんなところでお会いすることになるとは夢にも思いませんでした。願わくば、貴方が黒騎士になる前に、一緒に“円卓”を囲いたかったですよ、シオン殿」


 円卓という言葉を聞いて、シオンの赤い双眸はますます大きく開かれる。


「円卓を囲いたかったって――」

「僕は、今の議席Ⅹ番です。戦争で貴方に殺されてしまった先代の後釜ですよ。議席持ちとしては、出来立てほやほやですね」


 苦笑するように、ネヴィルが肩を竦めた。

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