第二章 おかあさん
第91話
今年の聖王祭は、黒騎士の襲撃というトラブルに見舞われ、やむなく中止の運びとなった。
日が傾き始めた午後の聖都――人払いを済ませたルーデリア大聖堂前の広場では、多くの騎士が事後処理に当たっている。
聖王教にとって一年のうちに最も重要な日にこんなことが起きるとは――参加した信徒の誰もが、そう落胆したに違いない。
ルーデリア大聖堂の最奥部にある教皇の執務室にて、イグナーツは、部下からの厳しい視線を背中に受けながら、そんなありきたりなことを考えていた。
「おい」
不意に声をかけてきたのは、議席Ⅴ番のレティシアだった。現在、教皇の執務室には、議席持ちの騎士が、イグナーツを含めてⅡ番からⅨ番まで揃い、横一列に整列している。彼らが正面に据えるのは、空席となっている机だ。黒騎士襲撃の件で教皇に呼び出されたのはいいものの、かれこれ十分以上、待ちぼうけを食らわされている。
そんな痺れを切らしたかのようなレティシアからの呼びかけ――横一列に並ぶ騎士たちから中央一歩前に出たところで佇むイグナーツが、少しだけとぼけた顔で振り返った。
「何ですか? 教皇がいつ来るかは私も――」
「何故、シオンが生きていることを我々に伝えなかった?」
彼女の眼光には、嘘偽りを言えば殺す、という強い意思が込められていた。しかし、イグナーツは特に怯んだ様子も見せず、軽く肩を竦める。
「不用意にそのことを知る人間を増やしたくなかった――それだけですよ。別に信用していなかったとか、そういう話ではありません。最重要機密でしたので、可能な限り漏洩のリスクを抑えたかった。私以外に知っていたのは、一緒にシオンを回収しに行ったリリアン卿と、あとは総長とヴァルター卿だけです――あ、嘘です。シオンの監視要員兼護衛として彼に付けたユリウス卿とプリシラ卿もですね。でもまさか、その監視要員が一緒になって暴れるとは、思ってもいませんでした。あの二人なら、シオンが無茶なことをしようとするのを止めてくれると思ったんですが、完全に私の見込み違いだったようです」
ハハッ、と、自分の失態を嘲笑うイグナーツに、レティシアは酷く顔を歪めた。彼女はその勢いで、ヴァルターを見遣る。
「老害! 貴様、いつから知っていた!?」
紳士的な老騎士は、女騎士からの恫喝に臆することもなく、横目で視線を返す。
「最後に開催された円卓会議の時――黒騎士討伐のため、お前たちをグラスランドに運んでいる時にはすでに計画として聞かされていた。空中戦艦を手配する手前、私にはあらかじめ知らせておく必要があったからだろう。決してお前を仲間外れにしようとしたわけではないぞ、お嬢さん」
鼻で笑いながら口の端を吊り上げるヴァルターに、レティシアは今にも掴みかかりそうな怒気を放つ。それを、隣のセドリックが肩を押さえて宥めると、彼女は悪態をつきながら正面に向き直った。
「この始末、いったいどうつけるつもりだ? 言い逃れできる状況にないぞ。イグナーツ一人の首を飛ばしてどうにかなる問題でもあるまい」
「それ、ほんの少し前に教皇に向かって刃物振り回したレティシアちゃんが言っちゃう?」
レティシアの言葉に、リカルドが横からそんな軽口を挟んだ。途端、一度は静まったレティシアの怒りが、再度噴出する。
「勝手に割って入るな、殺すぞ色魔」
鋭い刃を投擲するようなレティシアの脅しに、リカルドはわざとらしくぎょっとした顔になってそれきり口を噤んだ。
騎士団の最高幹部たちが仲間割れを起こしかねないような状況が出来上がり、部屋の中の空気が重く張り詰める。
執務室の扉が勢いよく開かれたのは、そんな時だった。
イグナーツを始めとした議席持ち全員が振り返り、扉の前をすぐに開ける。騎士たちは胸に手を当て、軽く目を伏せながら、部屋に入ってきた人物に礼をして見せた。
「今更私に敬意を示す必要があるのか?」
淡々と抑揚の欠いた声で、特段それについての回答を求めているようなトーンでもなく、教皇アーノエル六世が、部屋の中央を突っ切る。
教皇はそのまま机の椅子に腰を掛けると、眼前に並ぶ騎士たちをつまらなそうに眺め始めた。
「揃いも揃って、アホ面が体よく並んでいる」
教皇からの蔑みに、イグナーツが苦笑した。
「恐れ入ります。さて、さっさと本題に入ってくださいな。猊下を騙し、密かに黒騎士を生かしていた件に対しての処遇、いかがなされますか? もし猊下に、主に匹敵する慈悲深き御心がおわすのであれば、是非とも寛大なお心遣いを頂きたいものです」
「取引といこう」
イグナーツの進言から間髪入れずに、教皇がそう言った。
思わぬ切り返しに、この場にいた教皇以外の全員が吃驚した顔になる。
「今回の騎士団の不正について目を瞑る替わりに、“十字軍”を騎士団に替わる大陸の治安維持部隊として公に活動させる。それで卿ら全員の首が胴体と繋がったままでいられるのだ。安いものだろう」
“十字軍”――この耳慣れない言葉に、議席持ちの騎士たちが揃って怪訝に眉を顰めた。だが、イグナーツとヴァルターだけは――よりによって、副総長と最古参の騎士の組み合わせが、狼狽したように目を丸くさせていた。
「お待ちください、猊下。“十字軍”は教会の正式な組織では――」
「だから、それを騎士団が公式に認めろといっている。教会の軍事に関わる規定変更には、すべからく騎士団の承認が必要だ。こればかりは、教皇である私の一存でも好き勝手にすることができないのでね。どうだ、わかりやすい取引だろう」
厭らしく口元を歪ませる教皇と、まるで心臓を鷲掴みにされたかのように表情を険しくするイグナーツとヴァルター――そんな二人の対峙に、それまで静観していたアルバートが割って入った。
「発言、よろしいでしょうか」
教皇が、すん、と表情を改めて、アルバートに目を馳せる。
「“十字軍”とは何ですか? 我々議席持ちでも知りえない組織が、教会に存在しているのですか?」
アルバートの質問を聞いて、教皇は失笑するような短い息を零す。
「なるほど。今の騎士団は、碌に教会の歴史も勉強させず、随分と平和ボケしているようだな。腑抜けの集団になるのも無理はない」
何故、教皇がいきなり見下してきたのか――アルバートが首を傾げていると、
「“十字軍”は、教会の組織図には存在しない、教皇直属の私設軍隊です。長い教会の歴史の中で、かつては騎士団に匹敵するほどの力を持っていた強力な軍隊ですが、教皇の権力を不必要に強める危険性があるため、百年以上前に、その存在ごと秘密裏に解体されたはず。ですが――」
イグナーツが手短に回答した。
そして彼は、らしくなく、眉間に深い皺を寄せて教皇を睨みつける。
「我々騎士団が与り知らぬところで、今も存在しているのですか?」
すると、教皇は椅子に深く腰を掛け直し、背もたれに体重を預けた。
「“こんなこともあろうかと”、いつでも再結成することができるように準備を進めていた。内部紛争を起こすばかりか、裏切り者の処分ひとつまともに出来ない組織に、これ以上仕事を任せられないのでね」
「ふざけるな!」
得意げに言った教皇へ、レティシアが怒号を飛ばす。
「ガイウス! 貴様、自分の権力を強めるため、何もかも初めから計らっていたな!」
今にも飛びかからんとするレティシアの剣幕に対し、教皇は冷ややかな表情を見せた。
「レティシア、もう二度とその名前で俺を呼ぶな。今、お前が目の前にしているのは、教皇アーノエル六世だ」
「ほざけ、騎士崩れが!」
吠えたレティシアだが、すぐにセドリックが彼女を制止させる。その巨体を活かし、正面からレティシアを抑え込んだ。
そんな光景を、教皇はまるで狂犬を見るような侮蔑の視線で見遣り、鼻を鳴らす。
「それとも、今ここで俺を討ち取ってみるか? やれるものなら、やってもいいぞ。ただし――」
教皇がそこで区切ったのを見計らったかのように、執務室に新たな来客があった。
それは、大仰なカソックを身に纏った四人の枢機卿だった。
「彼らの相手も一緒にしてもらうがな」
その四人を見て、イグナーツは強く歯噛みする。
何故なら――
「お前たちと一緒に円卓を囲んでいた昔の同志たちだ。挨拶のひとつでもしたらどうだ?」
教皇と時を同じく数年前に騎士団を抜け、枢機卿へと転身した、かつての議席持ちの騎士たちだったからだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます