第5話 初めての夫婦喧嘩。
夕方、飛鳥はまだ家に帰っていないようだった。
帰宅したわたしはサワガニがたくさん入ったケージ(芽々に借りた)をテーブルに置く。
これからいい感じの水槽とか用意しなくちゃ。
けれど家にそんな気の利いたものはない。
……タッパーで代用?
と、その時。スマホの通知に気付く。母様からだ。
『咲耶さん。ケーキ焼きすぎちゃったから引き取りにきてくれるかしら』
義母とは長らく距離感を測りかねていたのだけど、最近はこうして些細な連絡が来るようになっていた。色々と我儘を聞いてもらっている手前、わたしは義母に頭が上がらない。
……失踪について気にしないように、という暗示は身近な人間ほど効きにくい。この前の一件で義母に飛鳥との関係をある程度話してある。──彼に助けられたのだと。
同居の許可はあっさりと降りた。なんなら「まだお付き合いしてないの?」とか言うし、いつの間にか飛鳥とお茶友達になっている。なんでよ。……まあ、旧家ではあるので理解があるのは義母が特別だったりするのだが。実家にご挨拶できる日は、多分遠い。
それはともかく。
ここから実家は少し遠い市外にある。着替えて今から行かないと夕飯の時間に間に合わなくなるだろう。
……サワガニ、どうしよう。
涼しい山を降りて暑い下界に連れ出したせいか、皆ぐったりとして見えた。どうしよう。
『飼うなら冷暗所ですよ冷暗所。暑いと死にますからね』
……はっ! 冷暗所といえば。
わたしはサワガニをタッパーに移し、冷蔵庫に入れた。
これでよし。
実家で水槽貰って帰ろ。
ケーキと水槽をお土産に戻ってきた頃には、夏の長い陽も落ちていた。
家に帰ると明かりがついていて、玄関の向こうからは味噌汁のいい匂いが漂ってくる。
「おかえり、晩飯もうできてるぞ」
テーブルに料理を並べてこちらを振り向いた、飛鳥のエプロン姿に。
「けっ」
「け?」
──結婚!!!!!!!
……じゃなくて!
「け、結構なお手前ね」
「どうも?」
危ない。衝動的に叫ぶところだった。
あまりにも飛鳥がご飯作って「おかえり」って言ってくれるシチュエーションの破壊力が高過ぎて。
だってこんなのって、こんなのってもう……〝結婚〟じゃない?
それ以外の語彙って……要る??
えー、結婚しよ? もういいじゃん。なんか難しいことおいといてさー、わたしと結婚しない? どうかしら。いい考えだと思うんだけど。えへへへ結婚して……好き……。
「こほん」
わたしは涼しい顔をして荷物を置く等を済まし、テーブルについた。
ちなみに日々のご飯は当番制だ。少し前までは鍋を焦がし指を切っていたわたしも、もう一人で料理ができるのです。
……まあ、比較的難易度の低い昼ご飯の担当回が多いのだけど。
「いただきます」と手を合わせる。
それにしても、今日の味噌汁はいつもより香ばしくていい匂いが……。
「いやー、蟹なんて何年振りだろうな。いい出汁だ」
向かいの飛鳥が上機嫌に言う。
……蟹?
わたしはおそるおそると味噌汁のお椀を覗き込んだ。
お味噌の海に浮かぶのは──からりと揚がった沢蟹だった。さっきまで生きていたはずの、名前を付けたあの子が、かぷかぷと浮かんでいた。
茫然と、お椀を見つめる。
「あすか……」
「ん?」
そっと箸を置き、飛鳥(人間)を見る。
「離婚よ」
「…………いや、結婚してねぇ!!?」
◆◆
──どうしてこんなことになっているのでしょうか。
「うわーーん飛鳥のばか!! あすかが死んじゃった!!」
夜中、いきなり家まで泣きつきにやってきた咲耶さんを前に、私──寧々坂芽々の目は死んでいたと思います。
これまでのあらすじというものを、ぐちぐちの愚痴状態になった咲耶さんから聞き出すに曰く。
『沢蟹は……食うだろ!!』
『なんで蟹に俺の名前付けてんだよ、嫌がらせか!?』
とまあ、ひどい大喧嘩になったそうな。
「いや、そんな喧嘩の理由あります???」
天井を見上げました。電球が目にチカチカとして頭がクラクラしてきます。
何せ今日、芽々の一日は密度がヤバいのです。
朝、目の前でサラッと結婚しようとする異常な惚気を聞かされ。
昼、蟹に好きな人の名前を付けようとする奇妙な惚気を聞かされ。
夜、痴話喧嘩という名の実質の惚気を聞かされているので。胃もたれです。
色恋沙汰は好きですが、それはあくまで過程への知的好奇心。
夫婦喧嘩は犬も食べない。蟹は食われました。
「まあ冷蔵庫に入れたら食材ですよね」
「でも謝ってくれなかった! 謝ってくれなかった!!」
あっはい。
心を無にして部屋のローテーブルに突っ伏す咲耶さんを宥めます。
「なんていうか、よくやりますよねぇ」
心を無にしきれず、呆れがだだ漏れになりました。咲耶さんは恨みがましそうに芽々を見上げます。
「わ、わかってるわよくだらないことくらい……最近はご無沙汰だったけど、ちょっと前までは天気がいいか悪いかだけでも喧嘩してたんだから……」
そもそも咲耶さんは虫を殺すのになんの躊躇もない人です。魔女だからか、愛は深い割に生き物への情に欠けている──ということを飛鳥さんが言ってました。「あいつ精神が人外なんだよな」と。
多分、蟹のあすかさん(なんですかこのワード)への悲しみは長持ちしていないのでしょうし、どうやら怒りも鎮火していて、反省も済んでいるのでしょう。
咲耶さんはたまに年下みたいに大人気ないですが、おばかさんではないのです。たぶん。
「要するに、久々のガチ喧嘩に引っ込みがつかなくなってるんですね?」
「うぅ……」
はぁ、と溜息。
ずんばらりと断じます。
「──茶番ですね」
「茶番って……」
「それ以外のなんだというんですか?」
たじろぐ咲耶さん。
「そもそも芽々、恋愛って茶番だと思うんですよね。クソ真面目に告白とかデートとか駆け引きとかして。さっさとヤりゃ終わる話を甘っちょろい砂糖菓子にする茶番」
「でも茶番は好きです」
「ひーくんもサァヤも、本気で茶番をやるじゃないですか。……本気で『好き』をやってる。それって結構、努力じゃないです? いや、愛なのかもしれませんけど。がんばっててすごいなーって思う。芽々には一生できませんもん、そゆこと」
咲耶さんは潤んだ目でこちらを見ます。この人はたまに捨て猫のような目をするな、と思いました。その目を私じゃなくて飛鳥さんに向ければいいのに、と思います。多分あの人はすごい形相をしながら拾ってしまうのでしょう。
まったく恋って意味不明です。けれど芽々はよくわからないものが好きなので、恋に全力なこの人たちが好きなのです。応援する理由はそれだけで十分。
頬杖をついて、ニコリと笑いかけます。
「──というわけで、仲直りしてもらいますね。早急に」
丁度、ピンポンと呼び鈴の音。
「あ、ひーくん来た」
「なんで!?」
「芽々は仲直りセッティングガチ勢ですから。サァヤが逃げ込んできたらチクるに決まってるでしょ。なに言ってんの?」
「……そんな!!? まだ心の準備ができてないのに!?」
慈悲はなし。そのまま家からぺいっと放り出しました。
尚これは比喩表現であり、実際はうだつく咲耶さんを子猫を引きずるようにして飛鳥さんが強引に回収していきました。
「うちのアホが迷惑かけたな」
「ちゃんと首輪つけてろください」
「飼い主かよ俺」
そうだよ。
まったく幼馴染でもあるまいし、夜中に人の家に惚気吐きに来ないで欲しいものです。
咲耶さんを引き渡した後。部屋の窓から私は外を見下ろします。
二人が夜道で何事か話した後、手を繋いで並んで帰っていくのが見えました。
どうやら無事に仲直りはできたようです。いや、手ぇ繋ぐんかい。
「……ほんと、仕方ない人たちですね」
こういうのが見たくて、恋愛に茶々を入れているのだったな、と思い。
(……本当に見たいですか? これ)
やめよかな、この趣味。コスパ悪いです。
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