第25話 ある日人生に隕石が落ちてきて。

 窓が好きだ。


 窓はいい。外が見える。

 たとえ狭苦しい部屋の中であっても、この場所が異世界などではないことを確かに教えてくれる。


 五月の深夜だった。

 この頃の俺は『日南飛鳥』をやることにようやく慣れてきた頃で──いや、今思えば相当に人間ができていなかった頃だ。

 戻る記憶もまだ僅か、自分が自分である確信すらもなく、漫然と日々をやり過ごしていた。



 午前零時。

 開け放った窓のもと、卓袱台にノートを広げる。

 眠れない夜はいつも限界まで勉強する。

 現世の知識は散々に抜け落ちているが、昔の自分はそれなりに勉強が好きだったらしい。趣味嗜好は変わっていないので、勉強は苦ではない。


 特に数学はいい。理解できないところがいい。感情が介在しないところがいい。明確な答えがあるところがいい。解いている間は意識が沈んでいくのもいい。余計なことを考えずに済むことが、最高にいい。

 だから。


 たとえ現世に帰ってそうそうに追試を食らったがため、これっぽっちもわからない問題の数々に頭を抱えていたとしても。

 それはけっして、悪くない時間で……。

 


 嘘だ・・



『二年前に中断された続きの人生』をやると言った。『現代社会で清く正しく生きていく』と言った。


 嘘ではない。


 嘘ではないが、本心でもなかった。

 どう考えたってそうするのが正しいだろう?

 それ以外にやるべきことなんてないじゃないか。


 だが所詮は正しいだけの理屈であり、人間に戻るとは「理屈では動けなくなること」だった。


 ──なんのためにこんなことをしている?


 夜更の魔力が脳の隙間に入り込み、鬱屈を囁く。


 ──今更、やりたいこともないのに?



 畳の上に積まれた、社会科の教科書を見やる。

 かつてはあれが好きだった。そんな記憶がおぼろげにある。

 将来の夢は思い出せないが、もしかしたら社会科の教師だったのかもしれないと思って。

 無いな、と目を閉じる。


 趣味嗜好は変わっていないと言った。

 少し・・嘘だ・・

 昔は平気だったはずのものが苦手になった。

 味の薄い料理。血の出る映画。それから人間・・


 歴史は嫌いだ。人が死ぬ。

 倫理も駄目だ。人の善悪を論じすぎる。

 人の紡いだ歴史なんてろくでもないものばかりだ。

 善悪の価値なんて最早どうだって構わない。

 真に善いものなんて天体や自然の法則、人の意の介在しない絶対真理くらいだろう。

 もう一つ、好きだった教科の本を手に取る。

 地球科学。絶滅した生物の名前を叩き込んでると安心した。


 どうせ滅ぶ。


 どうせいつか、皆滅ぶ。









 ……いつの間にか意識が飛んでいた。

 問題集は少しも進まないまま、時間だけが無為に過ぎた午前三時。

 風が、ぶわりと薄いカーテンを膨らませる。

 赤い光の粒子が、弾けて消えた。

 踵を鳴らす、着地音。

 ベランダに彼女・・の気配がする。


「ご機嫌よう、飛鳥あすか。いい夜ね」


 文月咲耶が、綻んだ花のように微笑みを浮かべて。

 俺の窓を侵略する。


 ノートに鉛筆を力一杯突き立てて、芯をばきりと折った。

 彼女は最悪な魔女で宿敵で、深夜に喧嘩を売りにくる傍迷惑な隣人で、だから俺はおまえに会いたくなどないのだという顔をして、立ち上がる。



「帰れ」



 全部嘘だ・・・・


 君が好きだ。


 本当は。







 ◇




 ──夢を見ている。




 ある日突然俺の人生に隕石が落ちてきて。

 けれどその隕石は隕石にしては小さすぎて、大事なものを全部めちゃくちゃに壊してなお、俺の人生そのものを終わらせてはくれなかった。




 異世界で出会った少女がいた。

 儀式の起こるそのずっと前。そいつは召喚されたばかりの俺の部屋に、突然忍び込んできた勇者候補だった。

 勇者選定の儀式のその日、これから何が起こるのかを知って。

 この世界を守るため、昨日と変わらぬ明日を手に入れるために志願した、高潔な少女は俺に言った。


『あたしは世界のために死ねる。でもキミは、違うでしょう?』



『──だから守るよ』


 そう言って。

 少女そいつは俺を庇って死んだ。

 呆気なく。


 彼女を貫いた刃が俺の額を掠めた。

 かつて両親に守られて出来た傷を上書きするように。

 赤く染まった視界の中で。


 ──人は、本当に笑って死ぬのだな。


 と他人事のように思った。





 異世界で出会った少年がいた。

 俺の部屋に忍び込む際に少女に踏み台にされていたそいつは、世界の真実を知るため、救われた先の世界で夢を叶えるために勇者に志願した。

 勇者選定の儀式のその日。苛烈な少年だった、そいつは言った。


『世界を救うのは俺だ。それを、他の誰にも渡してたまるものか』



『──だからおまえが死ね』


 そう言って、少女から剣を引き抜き、最後に俺に剣を向けた。

 俺はというと、この後に及んで理解が及んでいなかった。

 けれども額を押さえていた手が、血に濡れているのを見たその時。

 強烈に思った。


 死にたく・・・・ない・・


 と。



 殺されそうになったその瞬間、無我夢中に剣を振るったことだけは覚えている。

 気が付いた時にはすべてが終わっていた。

 少年そいつの剣は俺の腕を切り飛ばし、けれど切り飛ばされるその前に俺の剣は届いていた。

 千切れた腕は剣を握ったまま、少年そいつの首の半ばに刺さっていた。

 足元に倒れる身体と、転がる自分の腕を茫然と眺める。

 死顔は笑ってなどいなかった。

 それを見てようやく、理解した。



 ──もう、笑って死ねない。



 血と、死と、すえた胃液の臭いの中で。

 人生が滅茶苦茶に壊れる音を聞いた、気がした。




 だが。そのまま黙って壊れることなど許されるはずもなく。


『どうか世界をお救いください。勇者様』


 生きたかったはずの誰かを殺してまで、死にたくなかった。

 その強欲には責がある。

 彼らの祈りを踏みにじってまで、生き残ったのならば。

 俺が・・世界を・・・救わねば・・・・ならない・・・・


「知らねえよ。勝手に巻き込んだのはてめえらだ。

 おかしいだろ。こんなの。俺だって昨日と変わらない明日が欲しかったよ。俺だってちゃんと夢があったよ。

 何故それが、踏み躙られなければならない。謂れはないはずだ。

 なあ! 勝手にやってろ、巻き込むな、とっとと滅んじまえよ!!」


 俺は勇者だから、滅べなんて言っちゃいけない。

 世界を救う以外の機能は勇者にはいらない。

 そんなことを言う自我は要らないんだ。


 だから・・・忘れた・・・

 



 けれど罪の意識は、忘れたとして根底に染み付いて消えなかった。

 たとえ何を忘れても人間の根幹は揺らがない。

 根幹に食い込んだ教えは、けして消えることがないのだ。


『正しく生きろ。笑って死ね』


 ──教えは呪いに転じる。


『正しく生きろ。さもなくば死ね』


 ──正しく生きたいのならば。あの時に死ぬべきだった。


『死んではいけません。世界を救うまで』


 ──けれどもう死ぬことも叶わない。







 日に日に自分が消えていく中で、いつしかひとつの願いを抱くようになった。

 忘れたい、ではない。死にたい、でもない。

 何を忘れても消えない、正真正銘の願いを。

 更地にもなりきれなかった俺の人生の上に、いつか抱いた恨み言が結実する。


 ひとつ願いが叶うのならば、どうか。

 明日・・隕石が・・・降って・・・くれ・・と。


 人生におけるどんな幸運も不運も、可能性が低いという意味では同じだ。

 因果は応報されず、天秤は釣り合わず、神仏はけして人に微笑まない。

 わかってはいた。だけど、次こそは幸運・・が訪れたっていいじゃないか。異世界召喚なんて天文学的確率の最悪に見合う何かが、落ちてきたって。



 ──だから。



 どうか明日こそ隕石が降ってくれ。

 このまま人生の全部を木っ端微塵にしてくれ。

 今度こそ更地にして、世界を壊して、何もかもをなかったことにして、無慈悲にすべてを終わらせる。

 そんな圧倒的で、絶対的な、破壊の象徴が。

 そんな最悪こううんが、あの頃の俺は欲しくてたまらなかった。





 ──そして旅の果て、魔女に出会う。

 眼前には赤い海の上に建つ堅牢な魔王城。茜に焼けた空を埋め尽くすのは、夥しい数の竜。

 その天元ちゅうしんに。彼女はいた。


 魔女が手をかざす。

 彼女の命に従って、星が堕ちるように竜が降ってくる。

 恐れ知らずに真っ直ぐに、こちらを見据えて

 圧倒的で、絶対的な破壊を、世界にもたらすために。


 もうとっくに何も感じなくなっていたはずなのに、その姿に、歓喜した。


 ──ああ、彼女こそが。


 待ち望んだ隕石ほしなのだ、と。






 願いは・・・天に・・聞き届け・・・・られた・・・





 勇者じぶんの機能を忘れたわけではない。

 使命の放棄はできない。

 戦いに手は抜かない。

 けれどいずれこの剣が届く魔女が、自分より強いことを願ったし、そして自分が負けることを祈った。


 ──そうすれば。

 義理は果たした上で、別に何かを裏切ったわけでもなくて、かろうじての正しさを守ったままで。

『ああ仕方ないよな。負けたら死ぬからしょうがない』って諸共に滅べるじゃないか。



 ──その希望に満足して、今度こそ日南飛鳥の自我は綺麗に掻き消えた。

 はずだった。




 けれどまさか。



 隕石の正体は文月咲耶で、負けることも終わることも許されず、あろうことか新しい自我で上塗りされて、都合の悪いことだけを綺麗さっぱりと忘れたままに、いつの間にか現世に帰ってくることになるとは夢にも思わなかった。



「夢だけどさ、ここ」



 自嘲混じりに呟く。

 

 夢の中に時間の感覚はない。

 走馬灯のように異世界での二年の記憶を追体験し、その終着点に辿り着く。

 瓦礫だらけの魔王城。天井はぶち壊され、竜の死体は炭と消えた、空っぽの玉座の間。

 見覚えがあるようで無いようなこの光景を、俺は割れた眼鏡・・越し・・に眺める。


「どれだけ生き汚いんだよ俺。往生際が悪過ぎて死にたくなる……」



 答える者はいないはずの夢の中。


「そうね、あなたって。不死身のわたしよりよっぽどだわ」


 声が聞こえた。


 振り返ると魔女が──いや、文月咲耶がいた。


 角はなく、ドレスではなく、魔女の姿ではない。

 この場は異世界の夢だというのに彼女は現世のようなワンピース姿で。

 彼女の亜麻色の髪は、何故か短く切り揃えられていた。



 直感する。

 目の前の・・・・彼女は・・・本物だと・・・・


「なんで、君が」


 ──文月・・がここにいる?


 彼女は得意げに胸に手を当てて言う。


「あら、言ってなかった? わたし、魔女だから夢くらい弄れるのよ。気合いで」

「なんでだよ」


 そこは魔法って言えよ文月。





 そして彼女は、静かに微笑んだ。


「遅くなってごめんなさい。

 ──救いに来たわ。日南君・・・

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