第24話 恋人未満にキスは許されるだろうか。
『おとなしく寝てなさいよ!』と言い残し、ひとりで学校に行った、その放課後。
雨はまだ止まない。
わたしは自分の家には帰らず、そのままあいつの部屋に行く。
鍵は貰ってないので不法侵入だけど、それも慣れたことだ。
──いっそもう、わたしと一緒に住めばいいんじゃない?
どうかしら、名案だと思うのだけど。
「寝てる、か……」
部屋の様子をうかがってほっと息を吐き、適当に買い込んだ差し入れを置く。
わたしが入ってきても起きないなんて、珍しい。
わたしは枕元に座り、あいつの顔を覗き込む。
髪を整えていないせいか、珍しく深く眠っているせいか、いつもより幼く見えた。昨日ずっと年上に思えたのが嘘みたいだ。
きゅう、と心臓が鳴いた。
唇が熱を持ち出す。
前にも似たようなことがあったけど、どうやらわたしは彼の寝顔を見るとキスをしたくなるらしい。
……本当に、はしたない性分だ。
──今ならバレない。バレないわ。バレないかなぁ。
でも、たとえバレたとしても。
怒られたりしないでしょう?
……ならいいんじゃない?
我慢しなくても──ええ、そうよね。
規則正しい寝息は、犯行が完璧に済むことを保証する。
ごくりと生唾を飲み込んだ。
──どこにキスを落とそうか?
額は駄目だ。傷がある。
瞳は駄目だ。澱んでる。
唇は駄目だ。それは『恋人』の領分だ。
ならば頬? でもそれは……唇よりも恥ずかしい気がする。
わたしは、唇へのキスは幼い頃から見慣れていた。
映画や恋人の多かった母親で、だ。
そのせいか、そこまで羞恥することのほどでもない気がする。
所詮キスなんてお芝居みたいなものじゃない?
でも頬へのそれは、なんだか他の場所とは違うように思う。
外国では挨拶程度、親愛の意味だとしても。
わたしにとっては〝純粋な愛情表現〟という感じがするのだ。
わたしは多分必要とあらば、唇へのキスはできるだろう。
恥ずかしさはあるけれど、お芝居みたいに難なく。
だけど……頬へのキスは本当に愛している人にしかできないし、きっと許せない。
必要や欲望の介在しない、親しみと、慈しみ、混じり気のない愛情の印。
それを……唇よりも殊更に、無警戒な場所になんて……。
──そんなはしたないこと、できっこない!
はっと我に返る。
いつの間に顔を寄せたのか、間近にあいつの寝顔があって、勢いよくのけぞった。
……いや、そもそもなんでキスしようとしてるんだわたしは!
しません。しないったら。するわけがないでしょ。
顔を覆って溜息を吐く。
息で唇の熱を冷ます。
──あれ? もしかしてわたし今……ちょっと正気じゃなかった?
寝顔をじっと眺めるだけに留めておこう、と自制した。
……それにしても。
なんだかんだと、弱音を聞いたのは今朝が初めてだった。
何も考えていないようで本当は色々考えていて。
図太いようで意外と繊細、だったりして。
──わたしの〝絶対〟は、なんてことのない普通の男の子だったんだな、なんて。
……そんなことを思い知る。
最近少し忘れかけていたけれど。
もう、忘れないでおこうと思う。
◇
目が覚めると、視界一杯に咲耶の顔があった。
「うわっ!?」
近い!!
「あ、起きた?」
早急に起き上がる。
「……おまえ、何してんの?」
目を開けるなり頭上に人の顔があるのは、めちゃくちゃ怖い。
襲われるところだったのだろうか?
なにせ人が寝ている時にやることなんて、寝首を掻く一択である。怖い。
「安心して。何もしてないから。ちょっと寝顔を一時間くらい見てただけよ」
「それはそれで怖いな!?」
おかしい。いつもならあまり近くに咲耶がいると、目が覚めるはずなのだが。
……そんなに深く眠っていたのだろうか?
「熱下がったみたいね」
「え? ああ、うん」
そう言われてようやく思い出す。
風邪引いてたなそういや。
半端に寝ぼけていた。
おぼろげな記憶をひとつひとつ確かめ──。
…………。
「……俺、今朝すごいこと口走ってたね?」
「うん。反省しなさいね」
やばい、顔が見れん。
体調が傾くと理性がどっかに飛んでいくらしい。
逃げるように立ち上がる。
「ありがとう! もう大丈夫だって! だからほら、帰れ! うつるぞ!」
「わたし風邪ひかないし」
「バカだから?」
「あらぁ、吠えるわね! 元気そうで何よりだわ!」
口が滑った。
咲耶はむすっと不貞腐れる。
「ちょっと心配した」
「ごめん」
「お茶でも淹れるわ。待ってて」
そう言って、当たり前のように咲耶はウチの台所に立った。
その光景に、なんだか不思議な気分になる。
……咲耶が俺の家に、いる。
別に珍しいものでもない。毎朝来ている。
だが、何かいつもとは違うのだ。
そう、逆だった。
いつもは咲耶は客として俺の部屋にくるわけだ。
当然俺が茶を淹れる側、というか味噌汁を入れる側。
だけど今は、俺が目が覚めたときからから部屋に咲耶がいて、当たり前のように薬缶に火をかけている。
その光景はなんだか……嫁っぽいというか──いや、これまだ頭茹ってるな!?
ものすごく馬鹿なことを考えてしまった。
顔でも洗ってくるか、と考えて気付く。
……というか、一時間もだらしのない寝顔を見られていた?
恥じゃないか。
慌てて身支度を整える。着替えも死角で済ます。
あまりその、どうしようもない姿は見られたくないのだ。特に咲耶には。
いやもう晒したけど。これ以上は流石に、意地というものがあった。
◇
雨は穏やかに降り続いている。
この部屋は窓が大きいので、雨でも部屋は充分明るかった。
電気を点けるまでもない。
ひとまず卓袱台で今日のノートを写させてもらうことにする。
「復調に半日もかかるなんて不覚だ……」
「ま、風邪を引くなんて最近人間らしくなったんじゃない? 5点加点ってことで」
想像を絶する採点の甘さだった。
風邪引いて加点なんてあり得ないだろ。
……まあ
あの世界の法則では精神の方が大事なので、肉体ダメージは現世ほど重くなかったのだ。
咲耶は卓袱台に頬杖をついて、ふふ、と笑う。
「それに、たまには弱るのも悪くないわ。今なら勝てそう」
「だからなんだよその血の気」
にしても、ただの風邪にしてはおかしかったような気がする。
あそこまでぼんやりとするものだっただろうか?
病院は嫌いなので絶対に行きたくない。
湯呑みの茶を啜る。
「ま、わたしのせいで風邪を引かせたようなものだから。責任は取るわ」
咲耶は正座してぽんぽんと膝を叩く。
「どうぞ?」
「……何が??」
「膝枕だけど。見たらわかるでしょ?」
「なにを言ってるの?」と首を傾げる咲耶。
なるほど、と頷いて。
俺は空になった湯呑みを卓袱台に打ち付けた。
「わっかんねえよ!!」
脈絡がなさすぎる。『何言ってんの』はこっちのセリフだ。
咲耶はきょとんとして、「つまりね」と説明を始める。
「あなたが弱っている今が勝ち時でしょ?」
「そうだね」
「でも病み上がりに喧嘩を売るのははしたないわ」
「確かにな」
「だから、精神的優位を取ることで勝つべきよね」
「何言ってんの?」
咲耶は大真面目な顔で言う。
「つまり。お詫びを兼ねつつ
完璧な論理だと主張するドヤ顔。瞳は得意げに輝いていた。
……なるほどな。
甘やかす、はちっともわからないが。
(目上でもないのに甘えるのはごめんだし、よりにもよって咲耶に甘えるとか絶対ありえない)
しかし、確かに膝枕というのは合理的だ。
無防備に首を晒すわけだから、その体勢を取らせた時点で『いつでも寝首を掻ける』
筋は通って……
「いやおかしいだろ!」
筋が通ってるわけないだろ!
立ち上がった俺を、咲耶は見上げて首を傾げる。
「膝枕はイヤ?」
「違う!!」
……まさかこの女、本気でわからないのか?
頭痛がひどくなってきた。
とりあえず正座をさせようと思ったが、咲耶は既に正座している。
──しまった。
俺は「正座しろ」以外の説教の始め方がわからない。
咲耶は座り込んだまま、何かを考えるように俯いて。
「……やっぱり、胸の方がいい?」
厚い胸部装甲を、ふに、と自らの手のひらで持ち上げた。
白いブラウスの山は、装甲などと言って誤魔化せないほど柔らかにたわんだ。
「は?」
マジでなに言ってんのこいつ?
「え? だってあなた、見てるじゃない。普段から、わたしの胸」
沈黙する。
眉間を揉んだ。
「いやっ、それは……好きな子の胸は、見るだろうが!!!」
六畳間がシンとした。
嘘だ。雨音はなんかいい感じに窓を打っている。
侘び寂びだなぁと現実逃避するが、長くは持たない。
「…………すみません」
正座した。
駄目だ、今日。
病み上がりで理性が効いてないから口が滑る。
あんな最低な告白あるかよ。言い訳としても見苦しい。死ね俺。
「い、いいの! わたしも……その……似たようなもの、だから!」
似……なにが?
咲耶も俺の胸を見ているということか?
怖。男の胸を見て何が楽しいんだ……。
いや、妙な暴露したからそれは見るか。俺でも見るわ。
……死ぬか〜!
妙な気まずさに支配された空気の中。
咲耶は少し目を背けて、か細く言う。
「ちょっと恥ずかしいけど、別にそういう目で見られても……」
うっすら頬を染めて、見上げる。
「あなたになら……いいわよ?」
一から十まで何を言ってるのか。
困惑している間に、咲耶はするりと制服のリボンを解き、ぷちぷちとボタンを開け始める。
白い肌が柔らかに晒される。
目の前の光景の意味がさっぱりとわからなくてガン見した。
「いや、よくねえよ!!」
我に返る。
「嫁入り前の娘が肌を晒すなこの、バカ!!」
「どうして? いずれあなたに嫁入りするのに?」
「急に何言ってんだ!!?」
「あ、婿の方が良かった?」
「ちげえよ! 全部違う! ……な、なんでおまえ! そんなことを! こんな状況で言うんだよ大馬鹿が!!」
最低だ! 咲耶には情趣がわからない。
こいつはいっつも大事な話を微妙なところでする!
論理も頭も品性も貞操観念も全部おかしい!
「とりあえず、脱ぐな!!」
「きゃっ」
ボタンを全部外そうとしていた咲耶の腕を咄嗟に掴んで、そのまま、勢い余って押し倒してしまう。
無言の間。
雨脚が強くなる。
日が暮れて、部屋の中が暗くなる。
探り合うように見つめる。
「……いつかもあったなこの構図」
ずっと物騒で余裕のないマウントの取り合いばかりしてきたから。
組み伏せるくらいは別に、初めてではない。
だが、潤んだ瞳に、ブラウスの合間からレース、ほのかに赤い張り詰めた柔肌。
見える景色はいつもとは違っていて──普段の言い合いで済ますには、少し喧嘩を売られすぎていた。
「……退かないの?」
「退いて欲しいなら退けって言えよ」
咲耶は何も言わなかった。
……こいつ。
危機感がないのか。
舐められているのか。
わかっていないのか。
それともわかっていてやっているのか。
正解が、わからない。
難しく考えるのはやめだ。
要はこれもいつもの喧嘩だ。
あえて勝ち負けだけを考える。
ここで挑発に乗ってまんまと胸を揉んでみろ。
それは、確実に負けだ。
据え膳を食わないことより、大人しく食うと舐められている方が恥だろう。
勝負の勝ち方はシンプルだ。
相手の思惑通りに運ばせないこと。
不意を打ち、意表を突くこと、予想を裏切ること。
たかが恋愛だって、やるべきことは同じだ。
──恋人未満で、どこまでが許される?
──どうせ将来的に付き合うならば、いいんじゃないか?
膝に、胸に、触れていいと彼女は言う。
感情の確認、合意はとっくに済んでいるのだ。
関係の名を恋人に変えること、明確な言葉にすることこそできないが。言い訳なら後でいくらでも作れる。
動作に縛りはない。
──最終的に責任を取るならば、今、唇に触れて何がいけない?
いけない理由なんて、ないだろう。
掴んだ手を離す。
咲耶は逃げなかった。
顔を近づける。
咲耶は目蓋を閉じた。
合意の返答と解釈。
だから、彼女の唇に、触れようとしたその手前で。
「…………あっ」
数ミリ先の唇から小さな吐息が漏れた。
訝しんだその瞬間。
咲耶は目を見開いて。
「──ごめんなさいっ!!」
ゴンッ! と衝撃が来る。
触れたのは唇ではなく額同士、つまり。
──全力で、頭突きされた。
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