第33話 ブリキの心臓、だとしても。
そして、俯いていた彼女は、残りの魔法を解いた。
魔女のドレスはいつもの制服に戻る。
捻じ曲がった角もゆっくりと頭蓋の中に収まっていく。
顔を上げる。
咲耶は微塵も表情を変えないまま、ぽろぽろと涙をこぼし始めていた。
緊張がようやく解けたのだろうか。
無表情のまま、彼女は俺に、静かに詫びる。
「迷惑かけた。ごめんなさい」
声と感情を震わせずに、ただ滴だけを零す、不器用な泣き方だった。
「どこまで正気で、どこまでが正気じゃなかったのかわからない。でも正気のまま、『あの結論』に至ったところまでは覚えているの」
知っている。
彼女のズレてしまった倫理観は、正気の奥に深く食い込んでしまった楔みたいなものだ。
「……わたし、やっぱり悪いやつで、人でなしの魔女なんだ」
普段、あれほど嬉々として『魔女』を名乗っている咲耶が、自罰めいた弱音を吐く。
「ばっかじゃねーの」
自罰なんて何の得にもならない、と思った。
なんでわざわざ、自分で自分に、呪いをかけるようなことを言うのか。
「おまえ、人間味しかないよ。俺の三倍くらい『人間』だわ」
咲耶は、驚いて。
「……それ、あんまりじゃない? わたし、人間として三十点くらいよ? 逆算すると、あなたは人間として十点って意味だからね?」
「はは。合ってる」
「笑うな!」
評価は厳しいくらいが張り合いが出る。
「いや、でも。昔の俺とは違うって言ったけど。根本はあんまり変わってないと思うぞ? 多分」
思い出した限りだけど。
それはちょっと言っておかないと、と思った。
多分、咲耶は実際より深刻に受け取りすぎているから。
「? でもあんた、感性おかしく……」
「あー、あー…… ? それか、暴走の根拠は。……げ、まさか『更地』の件?」
「え、うん。察しいいわね……」
取り柄、それだけだからな。
というかマジかよ。
笑い過ぎて引かれた自覚と、感情の出力をミスった認識はあったが。
やっぱりあれ、根本的に笑えないのかよ。
現世、難しいな。
……いや、これ現世関係ないか。俺のせいだ。
溜息を吐く。
「あのな。
隕石が好きなのは、元々。
服の趣味も、元々。
あと、不謹慎なのも元々だよ」
「………………はい?」
「俺、昔から、ばあちゃんの通夜で爆笑するようなヤツだった」
「は?」
「身内が犬神家死してたら、笑うだろ」
「何の話してるの!?」
俺もわからないんだよ。うちの家系、俺以外バカだから。
咲耶が顔を覆った。
「待って、聞きたいことは山ほどあるけど、とりあえず……なら、どうしてもっと早くそう言わなかったの!?」
「おまえが弁解の隙もくれずに、喧嘩売ったからだよ!」
早く言えとか、どの口で言うか!
「脳味噌の治安が悪いんだよ、おまえは!」
「あんたが言うと洒落にならないわ!?」
「俺は弄られてるから逆に治安が良いんだよ!!」
「死ぬほど不謹慎!!!」
涙も引っ込んだ。
「……え? 日南君て結構、変な子だったの? 普通の、いい子じゃなかったの?」
「だから。おまえ、昔の俺のこと知らねぇじゃん。友達じゃなかったからさぁ〜……。なんか外面よかっただけだよ昔の俺は」
咲耶はあからさまにショックを受けていた。
「わたし何を、思い詰めて……?」
「だから言ってるじゃん。割と記憶思い出してるし、結構自我あるって」
ところで、記憶といえば。
芽々って俺の後輩だった気がするんだけど。
あいつ、なんで初対面みたいな態度とってたんだろう?
俺のこと忘れてるんだろうか?
薄情なやつだなー。
「とにかく、対話させろ対話。おまえは喧嘩っ早すぎる」
「あ、あんただって!」
「俺は、売られた喧嘩は全部買う。そういう主義だ」
そうだった、みたいな顔する咲耶。
「……な?」
反省した?
やっぱり俺、あんまり悪くないだろ、これ。
とばっちりだ。
「わ、わたしの方が悪いのには異論ないのだけど、なんか、釈然としない……!」
それはまぁ。
「俺の態度が悪いからだね」
「わかっててやってんの!?」
いやだって。
今更、いい人願望とかないし。
ひとしきり言い合って落ち着いて、俺たちはようやく〝いつも通り〟になる。
咲耶はすんっと鼻を鳴らして、はっきりとした声で俺に言う。
「ねぇ、わかってる? なんかすっきりした顔してるけど。……問題は何も、解決してないのよ」
ばれたか。
そう結局、〝仲直り〟をしたというだけで、喧嘩の原因はすべてそのまま残っている。
俺の問題も、彼女の問題も、だ。
そのことから目を背けないのが咲耶の美徳だと思う。
やはり、彼女は真面目だ。
だから、俺は少しだけ不真面目でいるべきだと思うのだ。
バランスを取るように軽々しく言う。
「なんとかするさ」
「どうやって」
「知らね」
「適当な……!」
「でも、俺はおまえに勝てるから。そのくらいはできるんだよ」
大丈夫。
ここから先は長い。
死に急ぐ必要も、生き急ぐ必要ももうない。
世界の存亡を懸けるよりも難しいことなんて、この世にあるものか。
だから、人生なんざ楽勝に決まってる。
「忘れたのかよ。俺は、おまえと一緒に帰るって決めたから。最短で魔王を倒して、転移術式もパクって、生きて帰ってきたんだぜ。やり残したそのくらい、朝飯前に決まってるだろ?」
俺は自信をかき集めて精々不敵に笑ってみせる。
咲耶は、唖然として。
「実績がある分、たち悪いわ……!」
文句を言いたいのに言えない、そういう顔だった。
俺は、取り繕った表情を崩して、苦笑する。
自分で言っておいて、ちょっと気恥ずかしかった。
「でもま流石に、ひとりじゃきついから」
格好を付けるのも、ここで仕舞いだ。
「
ほら、約束通り。今度は、ちゃんと言った。
咲耶は目を丸くして、濡れたままの目尻を下げて。
「ばかじゃないの、もう」
まるで、いつかの教室でのように。
綻ぶように笑った。
「仕方ないから……死ぬまで、手伝ってあげる」
◇◆
静かな町の、真夜中の岐路で。
膝をつき、手を握ったまま、彼と彼女は話を続ける。
「ねぇ……わたしのこと、好きだったの?」
確かめるように、彼女は言って。
「好きだった」
彼は躊躇なく答える。
「今は?」
彼は、恋に連なる〝あの言葉〟を言おうとして。
喉から出かけた言葉を、飲み込んだ。
──頭の中で警笛が鳴る。
「……ごめん。まだ、言えない」
苦渋の表情。
彼女はすべてを理解して、頷いた。
「……そっか。
──かつて、あの異世界において。〝言葉はすべて呪い〟だった。
なんだかんだといって、彼と彼女の〝中身〟は異世界製になっている。
そのせいか。
〝自己暗示という名の呪い〟が、効きやすい身だった。
──他者からの呪いの耐性は備わっていても、自身の吐いた言葉が、そのまま自らに刺さる呪詛になることは、止められない。
それは、『思い込みこそを魔法にする』彼女にとっては、〝恩恵〟とも言えるけれど。
彼にとっては、
呪いとは、精神の隙間に入るものだ。
──だから異世界の人類は、かつて彼の精神を切り離した。
けれど今。彼の自我、精神は、かつての名残から再構成したばかりのもの。
急造のソレは、隙間だらけだった。
──だから、もし今。
恋心を核に成り立つ自我が、
それは
空白だらけの器の中身は、すべて
そうすれば。
それしか、彼女しか見えなくなる人間の出来上がりだ。
至るのは、溺愛を受け入れて、盲目になる〝
どれほど言葉を尽くしても、思いを伝えても。
──今は、肝心の告白すら許されない。
今、関係の名前を〝恋人〟にしてしまえば。
それは『甘え』になる。
甘えの先に待つのは、破滅だ。
お互いがそれをよく理解していた。
だから、たかが〝友人〟の関係にすら、定義を、堤防を、防壁を必要としたのだ。
──文月咲耶の愛は未だに狂気の一歩手前にあり。
──日南飛鳥の自我の証明はまだ確固たりえない。
ここが、彼らの立っている場所が〝踏み外せば終わりの崖〟であることに変わりはない。
落ちてしまえば、あとは、溺れるだけだ。
だから。
──彼は欠けた中身を埋めなければならなかった。
──彼女にかけられた呪いをすべて、解かねばならなかった。
今はまだ、彼女を抱き締めることすらまともにできない。
右腕はそこにあるだけで嫌悪を抱かせて、直に触れれば肌を焼いてしまう。
手を握ることだけにも、信じられないほどの葛藤があった。
それでも、彼は。
「言うよ。
ちゃんと人間に戻れた時に。
普通に生きていけるようになったその時に」
彼女の、手を引いた。
立ち上がるために。
「誓うよ。必ず……伝えるって。近い未来のうちに。そう、待たせはしないさ」
それで十分、伝わるだろうか。
「……っ」
暗がりでもわかるほどに、彼女は顔を真っ赤にした。
「ばか、ばかっ、格好つけ!」
「うるせぇ嘘吐き。ちょっとは素直になれ」
「……ありがと」
「…………素直すぎると、心臓に悪いからやっぱりいいや」
「死ぬほどむかついた」
立ち上がった彼女は手を振り解き、彼の胸元に小さく頭突きをする。
「あんたのそういうところが。わたしの、思い通りになってくれないところが……嫌いよ」
彼は、少しだけ迷って。
左手を彼女の背に回す。
抱きしめる、というにはあまりに弱すぎる、壊れ物を触る手で。
『嫌い』というにはあまりにも甘すぎた声に、返事をする。
「知ってる」
これが精一杯だ。
今は、まだ。
けれど、「いつかは」と思う。
それは祈りではなく、願いでもなく、ただの決意で。
──それを果たせなかったことなど、一度足りともない。
だから。
〝いつか〟の意味は、〝必ず〟だ。
空は、黒くて。
月が、綺麗だった。
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