3節 夜が明けるまでは側にいて。
第20話 うるさい心臓。
◆
わたしたちが家に帰り着く頃には、それまで抱いていた躊躇いや、怯えというものは、すっかりと箱に仕舞われていた。
飛鳥は引き摺らないというか、切り替えるのが上手で、呼吸の仕方をよく知っている人だと思う。
何を考えているのかわからないし、というか多分あまり何も考えてないんだろうけど。
わたしは今のあなたのそういうところが、好き、かもしれない。
好意、それはもちろん適切な友愛の範疇で。
ただし例の一件で、お互い目が冴えきってしまっていることには変わりなかった。
それがいつのまにか、「どうせ眠れないんだから、遊ぶか」という空気に変わっていたのだけど。
その気になった後で二人とも、明日の課題が終わっていなかったことに気が付いた。
身分を明確に思い出す。
遊んでばかりいられないのが学生のつらいところだ。
終わるまで平日深夜の宴はお預けだった。
悲しい。
そして今。
そろそろ日付も変わろうという頃。
ところはわたしの家の、リビング。
テーブルで、向かい合って課題をやっていたわけだけど。
きりよく終わったところで、わたしはペンを置き、顔を上げる。
先に課題を終えていた飛鳥が、目の前で寝落ちしていた。
目、冴えてるんじゃなかったの。
彼はわたしの部屋に来る前に、一旦自室に戻ってから来ているので、私服に着替えてるし、多分もうシャワーも浴びている。
静かな部屋、響く寝息に耳を澄ませる。
眠れそうになくても寝てしまうほど疲れてるのかしら、とか。
考えて。
いやそもそもこいつ、隙あらば寝る癖があるだけだった、と思い出した。
休み時間、大体寝ている。
友達ができないのも当然だ。
物音を立てないように、そっと椅子を引いて立ち上がる。
わたしの身体能力はほとんど人間並みだけど、足音を立てないくらいのことはできる。
毛布をかけたいけれど、少しでも触れると起こしてしまうだろう。
そうっと彼に近付き、顔を覗き込む。
お行儀が悪い振る舞いだけど、これについては、わたしの
ので『寝顔を覗き見る』なんてはしたない行為も。
今夜に限っては許される、と思う。
けれど。やはりというか。
寝顔は、あまり穏やかではなかった。
うっすらと気が重くなる。
飛鳥は夜が遅くて朝が早い。
長時間眠るということに、身体がまだ慣れていないのだろう。
食事を取るのも下手なら眠るのも下手なんて、人間としてどうかしている。
……眠らなくても平気なはずなのに、一度眠ってしまうと朝に弱すぎるわたしも、大概だけど。
ちらりと彼の腕を見やる。
五月も終わりの部屋の中だというのに、上着を着たままだった。
その不自然は、わたしに腕のことを意識させまいとしているような気がして、逆に少し腹が立った。
お互いが向こうで経験したことについては「知らないままでいよう」と合意が取れている。
軽口以上には触れないし、探らない。
あいつは笑えない話に価値はないと思っているし。
わたしも、すべてを知ることが正しいとは思わない。
見て見ぬ振りと素知らぬ顔と鈍感さ。
それは、上手に生きるための最低限のスキルだ。
特にわたしのような、面倒な女にとっては。
自分が面倒くさいことをわかっていて直せないのが心底面倒くさいと思う。
自己嫌悪で夜が明けそう。
それに──本当にすべてを知ってしまえば。
わたしは、何をしでかすかわからなかった。
だから聞かない。
絶対に。
記憶の中、差し出された彼の手のひらに残る、細やかな傷の数を思い出す。
──本当はあなたを脅かすものすべてを許したくはないのだ。
わたしはなにせ、あなたにそれほどの恩がある。
たとえばの話。
もしも、あなたの家がなくなっていた原因が、理不尽な悪意による放火だったとしたら。
わたしは迷いなく、それを行った人間に火を放ちに行っただろう。
わたしの倫理は、所詮その程度でしかない。
もちろん、これはただのたとえ話。
更地の真相はごくありふれた金銭事情だと聞いている。
現実はうっすらと世知辛いだけで、明確な悪意や敵意が突き刺さる、なんてことはない。
なんだかんだで現世は治安が良すぎるのだ。
目の前の敵を倒して全部終わりだったら話は簡単で、わたし好みなのに──という、一連の物騒な考えを振り払う。
わたしは、わたしの自制心や理性というものが弱いことを重々承知しているし、自分の陰湿さや浅はかさに身を委ねたくはなかった。
飛鳥は、こんなわたしに『性格がいい』と言ってくれたけれど。
……絶対に節穴だわ。
魔女の性格がいいわけがないでしょう。
何言ってるの、と正直思う。
でも折角褒めてくれたなら。
それを裏切りたくはない。
……たとえ。
わたしの性質がどうしようもなく〝悪いもの〟だとしても。
わたしが本当に、
何もかもを、今すぐに。
解決できるとしても。
それをしないことが、恩と友誼に報いるということだと、思うから。
そしてわたしは、普段ならば絶対にしないことをする。
その結果、何が起こるかを、自分自身に突きつけるように。
自らの立ち位置と、自分が何者であるのかを確かめるように。
それは、〝わざと彼の右腕側に立つ〟ということ。
その意味は、効果は、すぐに現れた。
じわりと肌が粟立つ。
背に寒気が走る。
喉元に刃物を突きつけられているような、ひりついた錯覚。
つい先程、中の剣が起動したせいか。
いつもなら、うっすらとした威圧感のみで耐えられるのに。
今夜はずっと強くそれらを感じる。
憎悪と、恐怖と、嫌悪感。
その理由は、単純なことだ。
──わたしが、彼を嫌悪してしまう理由だ。
これ以上は近寄れない、と頭の中で警笛が鳴る。
〝殺される〟と血が騒ぐ。
心臓が、うるさい。
今のあなたは、どうしたって
唇を噛む。
心臓を握り潰すように、胸を押さえる。
天敵、相性──だから、なんだというの。
それでも引き留めた。
今はまだ、側にいてと。
選んだのだ。
──わたしの選択が、
あってたまるものか。
わたしは。
一歩を詰める。
触れそうなほどに彼に近付く。
うるさく鳴る心臓に『黙れ』と。
唇だけを動かして、呪詛を吐く。
そうすれば。
わたしの心臓は、ぴたりと。
鳴るのを止め。
これでもう、わたしの心音が、あなたを起こす心配はなく。
恐れることなど、何もないのだ。
もぞり、と飛鳥が微動したのを見て。
ふと我に帰る。
──いや、何をやっているんだ、わたしは。
自分が無意識に大きく笑みを浮かべていたことに気が付いて。
わたしは苦々しく唇を引き結んだ。
……今のは、ない。
いくらうるさいからって、心臓を止めるのは正気じゃない。
そのことに気付ける程度には正気で、やらかした後で気付く程度には、危うかった。
溜息を深々と吐きたいのを堪える。
頭を押さえる。頭蓋に突き刺さるような
ああ、これは。
どうやら、今夜のわたしは相当に。
◆
いまだ起きない彼を横目に、リビングを出て、少し重い扉をゆっくりと閉める。
「……お風呂入ってこよ」
そう、実のところわたしは入りそびれてたのだ。
自分で呼んだくせに、部屋の片付けが終わっていなかったものだから。
ぎりぎりまで部屋を綺麗にしていたら、そんな時間はなかった。
いや、わたしは魔女なので、普通の人間と同じくらいに、汗をかいたりとか、化粧が崩れたり、とかはない、ないはずだけど。
……飛鳥に近づいた時に石鹸の匂いがして、わたしだけまだだったのが急に恥ずかしくなってしまった。
顔を覆う。
心臓、うるさかった理由の半分は、そっちだと思う。
あ、なんか。
懐かしいようないい匂いがするな……って無意識に、必要以上に吸い込んでしまった。
いや、その、か、嗅いでない。嗅いでないから、それは、踏み止まったから。
でも、危機感の方を消しとばした途端に、鮮明に蘇ってくる、石鹸の匂いが、なんかもう、なんか!
うわ、うわー……って……!
いや別に、それが何ってわけじゃないのだけど!
何ってなに!?
廊下の冷たい空気を吸って吐いて吐いて、さっきまでの何かを振り払う。
大丈夫、全然、別に動揺なんてしていない。
あくまで石鹸が好ましいものだっただけで、彼がどうとかは、その、小指の爪の端っこのささくれほども関係がないのだから。
……ないのだから!
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