番外編6 もうここにいなくても(カガリ視点)

 かおるの祖母、万智子まちこが病に倒れたころのこと。




 カガリはいつもの様に人間さまの世界に行き、万智子お婆ちゃまの家に向かう。猫又の世界でなら鼻歌でも出てしまいそうだ。とてもご機嫌である。


 カガリは毎日万智子お婆ちゃまの家に行っていた。万智子お婆ちゃまはいつもご飯を出してくれるが、カガリとしては大切なのは万智子お婆ちゃまに会うことである。


 ご飯なら猫又の世界のお食事処で猫まんまを食べさせてもらえるので、食には困っていない。カガリはただいつもにこにこと穏やかな笑みを浮かべ、優しく撫でてくれる万智子お婆ちゃまが大好きなのだった。


 林を抜けて開けた道に出て、はやる気持ちを抱えてとっとことっとこ走る。やがて万智子お婆ちゃまの家が見えて来た。カガリは嬉しくなって足を速めた。


 そこでカガリは異変に気付き、足の運びを鈍くする。


 いつもは開け放たれている縁側が閉じられていたのだ。雨戸がきっちりと閉められ、人の気配が無い。


 こんなことは初めてだった。急用でもできてお出掛けしたのだろうか。


 カガリは庭に入って静かな家を見上げる。しばらくそのまま待ってみた。だが万智子お婆ちゃまが帰って来る気配も誰かが訪ねて来る様子も無い。


 たまにはこういう日もあるだろう。カガリはあまり深く考えずに、万智子お婆ちゃまの家を後にした。猫又の世界に戻って、お食事処で何か食べさせてもらうとしよう。




 翌日、カガリはまた万智子お婆ちゃまの家に向かう。今日は会えるだろうか。昨日いなかった理由を教えてもらえるだろうか。カガリは少しでも早く万智子お婆ちゃまに会いたくて駆けた。


 しかし今日もまた縁側の雨戸は閉じられているのだった。もしかしたら旅行にでも行ったのだろうかと思い付く。でもそれなら事前に言ってくれそうなものだが。


 カガリは首を傾げる。そしてまた少し待ってみる。だがやはり人の気配を感じることは無い。


 旅行なら数日後には戻って来るだろう。また明日来てみよう。カガリはきびすを返した。




 しかし翌日も、そのまた翌日も、数日もの間、雨戸が開かれることは無かった。さすがにカガリもうろたえる。


 もしかしたら万智子お婆ちゃまに何かあったのだろうか。それが良いことなのか悪いことなのかは判らないが、それで家にいないのでは無いだろうか。


 カガリは落ち着かなくなってしまう。しかしカガリにはどうすることもできない。手掛かりはカガリも何度か会った娘さんとお孫さんなのだが、どこにいるのか分からない。


「にゃあ〜ん……」


 カガリは誰もいないだろう家の中に呼び掛ける様に切ない鳴き声を上げる。だがやはり反応は無く、カガリの声は悲しげに響いて消えて行った。


 カガリの目からはらはらと涙がこぼれ落ちる。どうしよう。万智子お婆ちゃまに何かあったらどうしよう。


 万智子お婆ちゃまはいつでもお元気だった。だがもう高齢だった。寿命の迎え方が猫又とは違う人間さまは、老化でもこの世を去ってしまう。


 カガリは生前も今も、あまりお歳を召した人間さまと触れ合ったことが無く、万智子お婆ちゃまがほぼ初めてと言えた。なので人間が何歳ぐらいで天寿を全うするのかがよく分からない。


 そして歳を取れば取るほど病気にもなりやすいと聞いた。それでも人は逝ってしまうのだ。


 恐い想像ばかりしてしまう。万智子お婆ちゃまの数日の留守は、カガリを不安に陥れた。そうと決まったわけでは無いのに。


 悪い考えというものは、一度生み出されてしまうと本人の意思から離れてどんどん肥大して転がってしまう。それを払拭するためにカガリは乱暴に首を左右に振った。


 分からないからこうなるのだ。ならカガリができることは、毎日ここに来て動きを待つことだけだ。


 例え雨戸が開かなくても、万智子お婆ちゃまがいなくても、明日も来よう。万智子お婆ちゃまに会えるまで。




 そうして心が折れそうになりながら、万智子お婆ちゃまの家に通って数日。ある日、これまで拒む様に閉ざされていた雨戸が、そしてガラス戸が開いていた。


 カガリは驚きで目を見開く。目がじわりとうるむ。全身に血液が行き渡った様に熱くなる。カガリは精一杯駆けた。懸命に小さな身体を動かした。そうして辿り着いた万智子お婆ちゃまの家の庭。


 そこでカガリは足を緩めて息を整える。そしてひらりと縁側に上がったら。


 居間にいたのは万智子お婆ちゃまでは無く、お孫さんのお兄ちゃんだった。


 お兄ちゃんは立ち上がってカガリに近寄ると、優しい手付きで撫でてくれる。カガリはそれを気持ち良く受け入れた。


 ああ良かった。今は姿が見えないが、万智子お婆ちゃまもきっと帰って来ている。やはり旅行に行っていたのだろう。お兄ちゃんがいるということは、娘さんのご家族と一緒だったのかも知れない。


「留守にしてしもうてごめんなぁ。俺のこと覚えてるか? 祖母ちゃんの孫やで」


 お兄ちゃんの言葉に応えてカガリは「にゃん」と鳴く。もちろん覚えている。たまに万智子お婆ちゃまの家に遊びに来ていて、カガリのことを可愛がってくれるお兄ちゃん。


 お兄ちゃんは「そうかそうか」と嬉しそうにカガリの喉をくすぐってくれた。


「腹減ったか? 飯用意するからちょっと待っとってな」


 お兄ちゃんは立ち上がって部屋を出て行く。畳の部屋は無人になる。万智子お婆ちゃまはどこだろうか。


 家中を探しに行きたい気持ちになるが、勝手に上がり込んでしまうのはお行儀が悪い。カガリはきょろきょろしたり首を伸ばしたりしながら、万智子お婆ちゃまが姿を現すのを待った。


 しかし現れたのは戻って来たお兄ちゃんだった。万智子お婆ちゃまは別の部屋でお忙しくしているのかも知れない。慌てることは無い。ゆっくりここで、もしくは庭で待たせてもらおう。


「お待たせや」


 お兄ちゃんがカガリの前に置いてくれた皿には、いつものかりかりと、そしてたっぷりと乗せられたしらす。これはご馳走ちそうだ。久しぶりになってしまったから、もしかしたら万智子お婆ちゃま、奮発してくれたのかも知れない。


 ほっと安心したらやたらとお腹が空いてしまった。カガリは皿に顔を突っ込むと夢中になって食べてしまう。歯応えの良いかりかりとふっくらとした味わい良いしらす。これは美味しい。


「はは。旨いか?」


 お兄ちゃんの優しい声が降って来る。美味しいです〜。カガリは心の中で返事をしながら食べ進めて行った。


 その時、お兄ちゃんの少し悲しそうな声がカガリの耳に届いた。


「あのな、猫。祖母ちゃんな、病気で入院しとるんや」


 ああ、ああ。そうだったのか。カガリはふるりと身体を震わせた。嫌な考えが当たってしまった。そうでは無いと思いたかったのに。そうか。そうだったのか。


「せやからまだしばらくは帰ってこられへん。せやから飯も、母ちゃんとか俺とかが来る時にしかあげられへんねん。ごめんやで」


 カガリは一瞬口を止める。だが普通の猫として不自然にならない様にまた食べ始める。


 食欲なんて一気に失せた。美味しかったはずのご飯なのに味もろくにしなくなった。


 だが人間さまの世界ではカガリは普通の猫だ。万智子お婆ちゃまにとってカガリはご飯を食べに来るだけの野良猫だ。だからカガリもその立場を貫かなければならない。野良猫であるカガリは万智子お婆ちゃまの変事に心を揺らす立場では無い。


 カガリはどうにかご飯を飲み下した。


「綺麗に食うたな。旨かったか?」


 お兄ちゃんの優しい声。カガリは動揺する心を抑え、満足したと繕って「にゃあ」と鳴いた。


 演技とは難しいものなのだな。カガリはこれ以上平常心でいられる自信が無い。必死でこらえているが、今にも涙が込み上げて来そうなのだ。


 そんなところをお兄ちゃんに見られるわけにはいかない。カガリは慌てて庭に降りた。


「猫、俺ら次いつ来られるか判らへん。それでも良かったらまた来てな」


 お兄ちゃんのそんな言葉が追い掛けて来る。カガリはそれには応えられなかった。声が震えてしまいそうだったからだ。


 カガリは走った。あふれて来る涙を散らしながらもがく様に足を動かした。ただただ目の前にある道を駆け抜けた。


 そして気付けば猫又の世界の入り口に立っていた。無意識に向かっていたのだろう。


 こんな顔のまま向こうに帰りたく無い。皆に心配を掛けてしまう。カガリは腰を降ろしてうなだれる。涙がはたはたと地面に落ちて吸い込まれて行った。


 万智子お婆ちゃまはいつ帰って来てくれるのだろうか。もしかしたらもう会えないのだろうか。いや、お兄ちゃんはそんなことは言っていなかった。しばらく帰って来れない。そう言っていた。


 お兄ちゃんと娘さんはまた万智子お婆ちゃまの家に来ると言っていた。ならまた会えたら、万智子お婆ちゃまの話をしてくれるかも知れない。教えてくれるかも知れない。


 きっと希望はある。また万智子お婆ちゃまの優しい笑顔に会うことができる。そう信じよう。その日を待ちながらまた万智子お婆ちゃまの家に行こう。


 カガリはきゅっと目を閉じると前足で涙を拭う。鼻をずずっとすすりながら目をしばたかせてどうにか涙を止めた。


 さぁ帰ろう。そしてまた会いに来よう。万智子お婆ちゃまには元気になってもらわなければ。そうしたら勇気を出そう。万智子お婆ちゃまに猫又の世界に遊びに来てもらおう。




 そしてその夢は、叶わなかった。カガリは後悔して叫ぶ様に泣いた。

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