第142話 主従の楔
それよりも、今はめそめそとべそをかいているイングリッドをなんとかしないと。
彼女はいつの間にか甲冑を脱ぎ、肌着だけになると、魔装コユリエを鞘から抜いて、その場に正座した。
短い付き合いだが、それだけで、イングリッドが何をやろうとしているか理解した俺は、深い溜息を吐いて、一応尋ねる。
「……なぁ、何してんの?」
「今回の失態はあまりにも重大。この恥、もはや剣士として生きてはいられない。私は腹を切る」
ああ、やっぱり。
言うと思ったよ。
ばかなの?
酔いつぶれて戦いに参加できなかったくらいで腹切ってどうすんのよ。
あきれ顔で、先程よりさらに大きい溜息を漏らす俺には構わず、イングリッドは言葉を続ける。
「つきましては、武士の情けとして、あなたに介錯をお願いしたい」
「いやだよ! そもそも俺、剣持ってねーよ!」
切腹の介錯――腹を切った武士の首を切り落とすのは、なかなかの剣士じゃないと、上手にできないと聞いたことがある。
いや、たとえ俺が『なかなかの剣士』でも、このままイングリッドに切腹をさせ、介錯したりはしないが。
はぁー……
しょうがない。
このお馬鹿ちゃんの目を、覚まさせてやるか。
俺は、三度目の溜息を吐き、イングリッドの前にしゃがみ込むと、彼女の頬を平手で叩いた。
ぱぁんっ。
小気味の良い、乾いた音が響き渡る。
俺の平手打ちなど、イングリッドにとっては蚊に刺されたようなものだろうが、それでも彼女は、うるうると目を潤ませて、叩かれた頬を押さえた。
「いたい……」
えっ、そんなに痛かった?
ちょっとやりすぎだったかな。
いやいや、ここは、心を鬼にしないと。
俺は大きく息を吸い、吐く息と共に、情けを心の奥に追いやった。
ジガルガ、お前がイングリッドの心に打ち込んだ『
俺は、なるべく低い声で、凄味が出るように言う。
「おい」
短くそう呼びかけただけで、イングリッドの肩がびくりとなった。
よしよし、いい感じだ。
俺は、言葉を続ける。
「お前、俺が前に言ったこと、もう忘れたのか」
「前に言ったこと?」
「俺はお前の主人で、お前は俺の所有物だ。お前の命、体、心。その全ては、俺の支配下にある」
確か、こんなことを、ジガルガの奴が言っていた。
ちょっと、言い回しが違ったかな?
だが、多少の言葉の違いなど些細なことのようで、イングリッドの顔が、目に見えて緊張した。ジガルガが与えた『主従の楔』の効力は絶大のようである。
ご主人様に、お仕置きをされるとでも思っているのだろうか。
あまり不安な思いをさせるのはかわいそうだ。
俺は、最後のとどめという感じで、きっぱりと言う。
「だから、主人の許しなく、勝手に死ぬな。いいな」
「は、はいっ……」
「分かったら剣をしまえ、それから、ちゃんと水飲め。飲んだら出発するぞ」
「はいぃ……ご主人様ぁ……私はご主人様の犬です……ご主人様の言いつけは、全部守りますぅ……」
イングリッドは、感極まったように喜びの涙を流すと、俺の足に縋り付き、スカートからむき出しになっている
……ひとまず、切腹はやめてくれたようだが、大丈夫か、こいつ?
『主従の楔』が強力すぎて、なんか変な趣味に目覚めてないか?
まあ、もともとちょっと変だし、別にいいか。
その後、俺はくねくねすりすりと纏わりついてくるイングリッドに、多少鬱陶しい思いをしながら、無事アルモットへと帰還することができたのだった。
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