第131話 ジャブとステップ

『違う、そうじゃない』


『えっ?』


『そんなふうに、ただ腕を持ち上げてるだけじゃ駄目だよ。左拳を前に、右拳は顎に寄せるようにして』


『こう?』


『うん。そうすると、自然と体が半身になるから、相手から見て攻撃のまとも小さくなるし、ジャブも打ちやすいはずだよ。それに、ストレートを打つ時に、体重が乗り……』


『ごめん、いきなり専門用語連発するのやめて。一度に色々言われても、覚えられないよ』


『専門用語って……ボクシング知ってるなら、ジャブとストレートくらいわかるでしょ?』


『実を言うと、そんなに詳しくは知らないのです。生で試合見たこともないし』


『あー、そうなんだ。じゃあいいよ。用語は覚えなくていい。とにかく、左拳を前に、右拳は顎に寄せるようにして構えて、ステップ踏んで。きみ、足さばきや身のこなしは最初から凄く良いから、構えを保ったまま、相手の攻撃をかわすように集中してみて』


 アーニャの指示通りに構え、俺は、ステップを刻む。

 おっ、なんとなく、ボクサーっぽいぞ。


 来た。

 またピジャンが、無造作にタタタタッと走って来る。

 先程の凄まじいパンチの威力を思い出し、自然と身が竦んでしまう。

 すぐに、アーニャの叱咤の声が響く。


『怖がらないで。ステップを止めちゃ駄目』

『わ、分かってるよ』

『見て。あの子、大きく腕を振りかぶって、パンチの準備動作に入った。今だよ、体ごと、回り込むように、右に動いて』


 俺は、素直にアーニャの指示に従う。

 ボクシングはど素人だが、シルバーメタルゼリー生来の身のこなしは、自分で言うのもなんだが、人間離れしたレベルだと思っている(決闘したとき、イングリッドにも褒められたし)。


 なので、行動を起こすタイミングさえ教えてもらえば、比較的簡単に、アーニャの指示通りの動きが可能だ。


 よし、上手くいったぞ。

 ピジャンの大ぶりのパンチをかわし、ちょうど、彼女の右側面に回り込むことができた。


『休まないで。前に出した左拳を、そのまま突き出して、あの子の頭に当てて。力は入れなくていい。リラックスして、とにかく、素早く当てることだけ、意識して』

『こ、こうか?』


 言われた通り、俺はなるべく力を込めず、飛んでる蚊でもはたくつもりで、左拳を打ち出した。


「ぅぎっ」


 当たった。

 ピジャンが、小さく呻くが、本当に拳を軽く突き出しただけなので、大したダメージはなさそうである。


 これなら、さっきの俺の素人パンチの方が、よっぽど威力があるぞ。

 こんなんで、いいのかよ。


『いいの。まだまだ未完成だけど、それがジャブだよ。理想を言えば、当たる瞬間に、もう少し拳を握り込んだ方がいいんだけどね。まあ、今はそこまでは望まないよ。さあ、反撃が来る前に、すぐにステップを踏んで離れて』


 ふぅん、これがジャブか。

 それにしても、ステップステップって、こんなにチョロチョロ動きながら戦わなきゃいけないもんなのかね。


 しかし、こちとら素人なのだ。余計なことは考えずに、アーニャの言うことに従うとしよう。俺は、構えを崩さず、ステップを踏んでピジャンから離れた。


 ブォンッ!

 凄い風切り音がした。

 先程まで俺がいた場所を、ピジャンの豪快なパンチが空振りしたのだ。

 あ、あぶねー。

 いつまでもぼーっとあそこにいたら、今頃死んでたぞ。


『今ので、ステップを使って戦う重要性が理解できた?』

『は、はい……』

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