6-1 水族館デート

 おかしな夢を見ていた。

 いつかのパーティーの夢だったと思うのだが、起きてしばらくしたらほとんど内容を忘れてしまった。

 だけど、とても大事な記憶だったような気がする。


 ベッドから起き上がった俺は、洗濯機の方へと足を向ける。

 溜まっていた衣服をすべて洗濯機に入れ、一時間ほど。

 朝のコーヒーを飲みながら時間を潰し、洗濯が終わればそれをベランダに干す。

 この家に来て初めての洗濯だったが、もう何年も繰り返した作業に淀みはなかった。


 今日は日曜日だというのに、玲たちは三人揃って家にはいない。

 どうやらライブ告知用の番組収録があるらしく、夕方辺りまでは帰ってこないそうだ。

 楽屋に弁当が出るらしく、ひとまず帰ってくるまでは俺の仕事はない。

 しかしそれは家の中での話。

 俺は俺で、突発で入った優月先生のアシスタントの仕事がある。


「うっし……」


 最後のTシャツを干し、俺は家を出た。

 前まではあまり使う機会のなかった自転車にまたがり、優月先生の仕事場へと向かう。

 やはり引っ越して一番便利になった点は、こうして電車に乗らずに仕事場へ向かえることだ。

 マンションの下に自転車を止め、仕事場へと入る。

 玄関に優月先生の靴しかないことから、他のアシスタントさんはまだ来ていないようだ。

 

 言い忘れていたが、優月先生はこの部屋に住んでいるわけではない。

 日々の運動不足を解消するため、家から歩いて通える範囲に仕事部屋を借りているというスタイルだ。

 さらに付け加えるとしたら、彼女はあまりにも家事をおろそかにするため、たまに俺が部屋の片付けを担当することがある。

 大体ひと月に一回程度だろうか。

 汚部屋・・・レベルは、毎回よくもまあここまで散らかせるものだと感心したくなる程度だと言っておこう。


「おはようございます、優月先生」

「あ、凛太郎! ごめんねぇ、高校生の貴重な休日なのに」

「玲も仕事に行っていて今日は暇だったんで、ちょうどよかったですよ。何からやればいいですか?」

「ベタ塗りをお願いしたいんだよね。今月はコミックの作業もあるんだけどさ、そこで限定の短編を一話描くんだ」

「ああ、そいつはスケジュールもカツカツになりますね」

「そうなのよぉ……ページ数は少なくていいって言ってもらったんだけどね、それでも結構ペースを上げないと間に合わないのよ」


 そもそも今月分の原稿も終わっていないのだ。

 それにも取り掛かりつつ実質もう一話となると、五月の時と同じ程度の修羅場は覚悟すべきかもしれない。


「頑張りましょう。俺も微力ながら全力で手伝いますから」

「ううっ……凛太郎優しい……バイト代いっぱい出すからねぇ」

「期待してますよ」


 時刻はまだ九時前。

 九時になれば、他のアシスタントさんたちも揃うことだろう。

 それまでに仕事の遅い俺は少しでも作業を進めておかなければならない。

 アシスタントの人たちは俺と違って全員漫画で食べていこうとしているが故に、技術面で追いつけるはずもないのだから。


「あ、そうだ。凛太郎、これ行ってきなよ」

「え?」


 突然、優月先生が俺のデスクの上に二枚のチケットを置く。

 どうやら水族館の無料券のようだ。

 

「どうして先生が水族館のチケットを?」

「アシスタントの子が彼女に振られたらしくてね……本当は二人で行く予定だったんだけど、一人で行くのは辛いからって私に渡してきてさ。私だって一緒に行く相手なんていないから、ちょうど持て余してたの。でも凛太郎なら乙咲さんと一緒に行けるじゃない?」

「まあそう言われればそうかもしれないっスけど……俺はともかくあいつの忙しさは半端ないですよ? 多分無駄になると思うけど」

「聞いてみるくらいならいいんじゃない? 駄目なら学校の誰かにでもあげてよ」

「あー、そういうことなら」


 とりあえず、俺はそのチケットを財布の中へとしまう。

 一応言われた通りに玲を最初に誘ってみるが、駄目なら雪緒にでも渡してしまおう。

 俺自身が雪緒を誘えばいいじゃないかと思われるかもしれないが————個人的に、あの人がダメだったから代わりに誘うという考え方が苦手なのだ。

 相手に対してお前は二番目ですよと言っているような気持ちになる。

 そんな嫌な気分になるくらいなら、もはや誘わない方がマシだ。


「初めてのデートだね、凛太郎。うふふふふ。ちゃんと感想も聞かせてね?」

「自分はしたことない癖に他人をからかおうとするなんて、若干ダサいっスね。優月先生」

「あんたは今言っちゃいけないことを口にした!」


 彼氏いない歴=年齢の漫画家の叫びが、部屋の中に響き渡った。


◇◆◇

 臨時アシスタントの仕事を終えた日の夜、俺は和風カレーを焦げないようにかき混ぜながら、優月先生からもらった水族館のチケットについて考えていた。

 

「うーん……誰が何と言おうとデートの誘いにしか見えないよな」


 男が女を水族館に誘う。しかも二人っきりで。

 昨日ミアに変なことを聞かれたせいで、妙に意識してしまっていた。

 俺自身にそういうつもりはないのだが……さっきから何だか嫌な緊張感がある。


「ただいま」


 玄関が開き、リビングに玲が入ってくる。

 厳密にはここも玲の家ではないのだが、もはやただいまとおかえりを言う関係に慣れすぎて違和感として受け入れられない。


「おう、おかえり」

「っ! 今日はカレー?」

「ああ。出汁を入れた和風カレーってのを作ってみた。具も少し変えてみたから、よければ感想を聞かせてくれ」

「うん」


 少しはしゃいだ様子の声を上げた玲は、手洗いをして戻ってくる。

 その間に白米を器に盛り、ルーをかけてテーブルへと置いておいた。スパイスと出汁の香りが混じり合い、普段のカレーとは違う食欲をそそる匂いが部屋に充満する。

 

「「いただきます」」


 スプーンですくい、カレーを口に含む。

 部屋に漂っていたものよりもさらに強い香りが鼻に抜けた。

 

 うん――――いい出来だ。


 激務で腹が減っていたという要素もあると思うが、それを抜きにしてもかなり美味い。

 これはお気に入りメニュー行きだな。


「美味しい……! いつものカレーとは一味違う」

「よかった。一応ネットで少し調べてから作ったんだけど、大体は何となくだったからさ」


 結局玲はそれから二回おかわりをし、かなり多めに作ったはずのカレーを残り一皿分程度まで減らして、夕食の時間は終わった。

 いつも通り食後のコーヒーを飲みながら、俺と玲はぼーっとテレビを眺めている。


「今日収録した番組って、いつ放送されるんだ?」

「二週間後くらい」

「へぇ……」


 他愛もない会話をしつつ、俺はちらりと時間を確認する。

 

 ――――そろそろ頃合いか。

 

 ポケットに入れていたチケットを取り出し、一枚を玲の前に置いた。


「凛太郎、これ何?」

「水族館のチケット。優月先生がくれたんだ。俺と玲で行ってくればって」


 玲は呆気に取られた表情で、俺とチケットを見比べている。

 ううむ、感触としては若干悪いな。


「……ま、アイドルが男と二人で水族館ってのも結構危ねぇよな。ダメ元だったから、無理なら断ってくれよ」

「――――く」

「え?」

「行く……! 絶対に一緒に行くっ」


 玲は突然前のめりになり、いつになく大きな声でそう言った。

 その勢いに押され、俺は思わずのけぞる。


「お、おう……そうか」

「ちゃんと変装して、ばれないようにする。次の土曜日もオフだから、そこがいい」

「わ、分かった分かった! その日でいいから!」


 こうして、俺たちの水族館デートはすんなりと確約された。

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