2-1 お金=パワー
翌日。学校に来た乙咲は、いつもと変わらない様子でクラスメイトたちと談笑していた。
あの後無事に家に帰ることができたらしい。それさえ確認できれば、もう気にする必要もない。俺は彼女から視線をそらし、前に座る雪緒と顔を合わせた。
「……珍しいね。凛太郎が乙咲さんを見つめてるなんて」
「そ、そうか? 昨日も見てたと思うけど」
「うーん、そうなんだけどさ……何かいつもの視線じゃないっていうか」
「そんなことねぇよ。気のせいだって」
「……ま、そうだよね」
いくら親友とは言え、鋭すぎないだろうか?
昨日のうちに乙咲との関係性をリセットしていてよかったと心底思う。もしあのまま彼女からの要求を呑んでいたら、こいつにだけは速攻でバレていたかもしれない。
「――ん?」
雪緒と話していると、突然俺のスマホが震える。
どうやら優月先生からラインが届いたようだ。
『緊急。原稿に不備が見つかり、本日も助太刀をお願い致す』
送られてきたその文章を読み、俺は眉をひそめた。
「今日締め切りだって言ってなかったか……? あの人」
「仕事場から?」
「ああ。昨日終わったはずの仕事に不備が見つかったってさ。アシスタントさんたちには休日を言い渡したみたいで、親戚の俺しか頼れなかったんだろ」
「それは仕方ないね」
「俺だけ呼ぶってことは大した仕事が残ってるわけじゃないだろうし、まあボーナスと思って行ってくるわ」
「有名漫画家のアシスタントかぁ……ちょっと羨ましいかも」
「あの集団ゾンビ化現象を見たらそうは言ってられないと思うぞ……」
優月先生に了承の意を込めたメッセージを送信し、スマホを制服のポケットにしまう。
授業が終わってすぐ、俺は学校を出て昨日と同じように職場へと向かった。平謝りしてくる優月先生に仕事の内容を聞き、二人ですぐに取り掛かる。
「ごめんねぇりんたろぉ」
「別にいいですって。ちゃんと時給は上げてくれるって話ですし」
「もちろん! たんまり払ってあげるからね!」
生活費を稼ぐ身としては、金さえもらえれば何だってやる所存だ。例え今日のように「え、これアシスタント俺一人でやるの?」って作業量の仕事だったとしても、時給が上がるなら関係ない。
ていうか、俺しか呼ばないなら大した作業はないだろうって予想は大きく外れていた。一人で作業しなければならない分、ぶっちゃけ昨日よりも少しキツイ。
「ごめんねぇ……ごめんねぇ……」
「っ……! ああもう! 謝ってる暇があったらとにかく手を動かしてください!」
「は、はい!」
大御所の大先生なのだから、あまり情けないところは見せないでほしい。いや、見せないために俺だけを呼んだところもあるんだろうけど、俺にもあまり見せないでほしい。
めちゃくちゃ尊敬はしてるんだから。
(ゆ、指の感覚がなくなってきた……)
十六時頃から作業に取り掛かり、苦戦すること七時間。昨日は二十一時に帰してくれたのに、今日はそれを二時間もオーバーした。
しかしその努力の甲斐もあって、原稿自体はいつも以上の物に仕上がったと思う。優月先生もげっそりしているものの、表情だけは満足げだ。
「終わった……終わったよ! 凛太郎!」
「よかったですね……じゃあ俺はこれで」
「本当にありがとね。タクシー代は出すから、今日はゆっくり休んで」
「ありがとうございます。先生も頼むから寝てください」
「もちろん。死んだように寝てやるわ」
頼もしいようでまったく頼もしくない彼女に背を向け、職場を後にする。
渡された金でタクシーに乗り、普段よりもだいぶ遅い時間に家の前へと到着した。
マンションの入口はオートロックであるためパスワードを入れる必要がある。いつも通り決まったパスワードを入力しようとした時、俺はあることに気づいた。
「……何してんだ、お前」
「志藤君を待ってた」
エントランスの端に、彼女は座っていた。昨日よりは変装を強化したようで、マスクと伊達眼鏡に加えてパーカーのフードで髪を隠している。
正直不審者感は増したが、相当近づかれなければ乙咲玲だとは気づかれないだろう。
「……来るなって言ったよな?」
「うん。でもどうしてもお願いしたいことがあって来た」
分からずやな女だ。
ここで突き返してしまうのは簡単かもしれないが、もしもそれで彼女から「志藤凛太郎は酷い奴」というレッテルを貼られるようなことがあれば俺はもう生きていけない。
ちくしょうアイドルめ。カーストが高すぎて無下に扱えないじゃないか。
「はぁ、分かった。とりあえず話は聞いてやる。中入れよ」
「ん、ありがとう」
どことなく嬉しそうな声色で、乙咲は俺の後ろにつく。
そのまま部屋に入れ、とりあえず昨日と同じようにソファーに座らせた。
「コーヒーくらいは淹れてやるけど、ブラックで行けるか?」
「できれば甘くしたやつがいい」
「あいよ。砂糖盛りね」
インスタントで淹れたコーヒーにミルクと砂糖を多めに混ぜ、彼女の前に置く。
普段はブラックで飲む俺も、今日はうんと甘くした。少しでも疲労を回復させるためにそうしてみたが、正解だったらしい。
彼女の訪問によって動揺していた心が落ち着いてきた頃、俺は目を合わせながら問いかける。
「それで、お願いしたいことってなんだよ」
「今日一日考えた。やっぱりまた志藤君のご飯が食べたい」
「昨日断ったよな……?」
「うん。でもどうしても忘れられない。昼に食べたお弁当も、レッスンの途中で食べた軽食も、あなたのご飯には敵わなかった」
――浮かれてんじゃねぇよ、俺。
押しかけるほどに自分の料理が気に入ってもらえたという事実で、自然と頬が緩みそうになる。そんな一時の喜びに浸って彼女の要求を受け入れれば、きっと後悔することだろう。
「そ、そうかよ……けどやっぱり無理だ。何度も言うように万が一にも俺とお前が一緒にいるところが見られようものなら、乙咲玲ってブランドに傷がつく。俺にはその責任が取れない。そもそも食費だって単純計算で倍になるんだぞ? ケチ臭いかもしれないが、貯金に回す金が少なくなるのはごめんだ」
俺は将来誰とも結ばれなかった時のことを考え、できるだけ稼ぎを貯金に回している。
人の人生を駄目にするどころか、己の貯金まですり減らすなんて百害あって一利なし。
いくらアイドルとお近づきになるチャンスだろうが、断るのが吉だ。
「だから諦めてくれ。大体芸能人なんだから、もっと美味い飲食店とか簡単に行けるだろ? わざわざ俺のところに来なくたって――」
「じゃあ毎月給料として三十万払う。それとは別に二人分の食費も出す。だから毎日食べさせて」
突然、乙咲は鞄から生の金を取り出し、目の前に置く。
確かにざっと三十万ほどに見えるが――。
「どう?」
「分かった。遠慮せずに来てくれ」
「……」
「……」
しまった。つい金に釣られた。
俺は咳ばらいを挟み、再び口を開く。
「きょ、今日はこうして払えるかもしれないけど、アイドルだからって毎月三十万以上払えるのか? できもしないことを言うもんじゃないぞ」
「今年は五本CMが決まっている。曲も売れてるし、コンサートだってある。何の問題もない」
「説得力があり過ぎる……!」
具体的な金額は分からないが、きっと俺のような庶民では決して手に入らない大金をもらっているに違いない。
「足りない? それなら五十万でもいい。そもそも私はあまりお金を使わないから……」
そう言いながら追加の金を取り出そうとする彼女を、慌てて止める。
「……いや、実際どこまで期待に応えられるかも分からないし、初めから上げる必要はねぇよ」
「でも……」
「……分かった。その話受けるよ」
「ほんと⁉」
目を輝かせた乙咲が、俺の手を握る。
思わずキョドリそうになる心を落ち着けつつ、俺は言葉の続きを話し出した。
「熱意に負けたよ。生きていく上で金は必要だし……俺の働きに三十万なんて価値をつけてくれたのも、素直に嬉しいし」
「本当はもっと払わせてほしい。でも志藤君が上げる必要ないって言うなら我慢する」
「ああ、そうしてくれ。今後ちゃんと期待に応えられたその時は、また検討してもらえると助かる」
「分かった。そうする」
彼女の手がするりと離れる。
元々どこか感覚がおかしい奴だとは思っていたが、乙咲はそのさらに上を行く変人だった。
同級生に飯を作ってもらうだけで五十万出すなんて、頭のネジが外れているとしか思えない。
それに甘える俺も大概である以上、もう指摘することはできないのだが。
「だけど約束してくれ。俺の部屋に来る時は絶対に正体がバレないように努めるって。一つも油断しないで、絶対に帽子とマスクは外すな。これは俺のためでもあるけど、一番は乙咲のためなんだからな?」
「分かってる。アイドルは続けたい」
「よし。なら契約だ。俺はお前のために飯を作る。お前は俺にその分の給料を払う」
「うん、契約する」
「……まあ口約束でしかないけどな。じゃあ早速今日の分を作るよ。何が食いたい? 物によっちゃ作れねぇけど」
「じゃあ、カレーが食べたい」
「割と時間かかるぞ? 大丈夫か?」
「大丈夫。今日は泊まる」
「――は?」
乙咲は至極当然とでも言いたげな顔をしている。
トップアイドルのミルスタのセンター、レイを家に泊める……?
脳の処理が追い付かず、混乱が広がった。
「毎日ご飯を作ってくれるって言った。私は朝もちゃんとご飯を食べる。だけど私の家からここに毎朝通うと、睡眠時間が確保できない。だから泊まる」
「お、おう……そうか。駄目だけどな?」
「どうして?」
「いくらお互いにその気がないからって、高校生が二人っきりで寝泊まりするのは色々とまずいだろ……一緒に飯食ってるだけならともかく、寝泊まりは言い訳できねぇぞ」
「じゃあやっぱり五十万払う。そしてもっと気を付ける」
「んもう。仕方ないなぁ」
ごめん、お金には勝てなかったよ。
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