第240話 知らぬが仏か、それとも鬼か
「私たち、付き合ってたんですか?」
誤魔化したかったわけじゃない。いずれ知られることになるだろうとは予想していたし、伝える覚悟はしていたつもりだったから。でも。
「……そうだよ」
首を縦に振る動きはぎこちなく、ようやく発せた声も少し掠れた。彼はつい想像してしまったのだ、現実を知って落胆する彼女の姿を。
何せ、今の自分は過去に好きになってくれた自分とは違う。他人と関わる努力をやめて、ぼっち生活というぬるま湯の中で怠けている。
そんな変わり果てた姿を見てもなお、『こんな奴が』と思われない自信がどこにもなかったのだ。
「そうだったんですね」
けれど、そう口にした晴香の表情は明るく、出迎えた時の焦りはもう消えているらしい。
抱えていたアルバムの中から不安だけを取り除いたような、そんなキラキラとした笑顔をしていた。
「これでようやく違和感の正体がわかりました」
「違和感?」
「はい。文化祭の日に初めてゆーくんを見た時から、ずっと何かを伝えなきゃと思ってたんです」
「そんなこと言ってたね」
「付き合っていたなら、きっとこの手紙のように想いを伝えようとしてたんですよ!」
「……そう、なのかな」
絶対に違うと言い切れるだけの確信が唯斗にはあった。だって、彼女自身が『謝らなきゃいけないことがあるような気がする』と言っていたから。
今の晴香はそんなことを忘れて、目の前の情報から勘違いしてしまっているのだ。……いや、勘違いしようとしていると言うべきかもしれない。
「ハルちゃん。そのアルバムを開いた時は、気絶したりしなかった?」
「そこまでの症状はなかったですね。でも、頭痛が10分ほど続きました」
「そっか、大丈夫?」
「もう平気です♪」
元気さをアピールするために、軽くマッスルポーズをして見せてくれる彼女。
そんな姿を眺めつつ、彼は心の中で深いため息をついた。晴香の中で、記憶の強制的な美化が行われていることに気付いてしまったのである。
「ハルちゃん、少しベッドに横になろうか」
「疲れてませんよ?」
「いいから。休んだ方がいい」
彼女の記憶喪失は、唯斗と関わった期間分の記憶を丸ごと失っている。それは、自身の心を守るために無意識下で行われたもの。
そして思い出したいと願う今の晴香は、過去に触れる度激しい痛みに襲われている。それは少なからず彼女の精神にダメージを与えていたのだ。
「こんな時間に眠れませんよ」
「なら、僕が本を読んであげる」
「もう、子供じゃないんですよ?」
「ハルちゃんが好きだって言ってた絵本だから」
「……それなら聞きます」
過去を知りすぎないように抑えるための手段であった痛みがずっと蓄積し続けたことで、彼女の真実を受け入れる袋に穴が空いてしまったのである。
細かな真実は開いた穴からこぼれ落ち、大雑把な事実だけを受け止めてそれを繋ぎ合わせる。すると、自然と自分に都合のいい解釈になるのだ。
だから、今の晴香に真実を伝えることは出来ない。心を少しばかり修理する時間が必要だから。
「とある裏路地に1匹のオス猫がいました。彼は捨て猫で、もう名前も家の場所も覚えていません」
「あ、この話は覚えてます。裏路地の猫と鼠神様ってタイトルでしたよね」
「そう。最後まで覚えてるかな?」
「えっと、どうなるんでしたっけ……」
まず、猫は裏路地で死んだネズミを見つける。お腹が空いていたものの、彼は何故かその死骸を近くの公園に埋めて供養した。
すると翌日、神を名乗る1匹のネズミが現れて話しかけてくる。『優しい心の持ち主のために、願いを3つ叶えてあげよう』と。
「1つ目の願いは、お腹いっぱいになることでした。猫は美味しいものをたらふく食べました」
「……」
「2つ目の願いは、温かい寝床でした。猫は綺麗な毛布に包まれてぐっすりと眠りました」
「すぅ……すぅ……」
絵本が終盤に差し掛かったところで、晴香の寝息が聞こえてきた。これ以上続けても声は届かないだろう。
しかし、途中でやめてしまうのも納得出来なくて、唯斗は独り言だと分かっていながら次のページをめくった。
「最後の願いは、願いを叶えてもらった記憶を消してもらうことでした。ネズミは何度も確認しましたが、猫はその度に忘れたいと答えました」
「すぅ……すぅ……」
「猫は幸せな時間を知った自分を捨てたかったのです。それでは野良猫として生きていくことが出来ないから」
最後のページを開くと、ボロボロの猫がゴミ箱から漁ったご飯を食べ、汚い雑巾の上で眠る様子が描かれている。
ただ、その表情に不満げはなく、それが彼の本来の幸せな時間であることを物語っていた。
「知りすぎることが幸福かどうか。よく考えていかないといけないね、ハルちゃん」
唯斗は幸せそうに眠る晴香の頭をそっと撫でると、読み終えた絵本を本棚の隅へと戻しに行くのであった。
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