第76話『僕』の決定
俄には信じられない光景だった。神代の怪異のごとき魔性を操る存在がいるなど。それが自分の主で恩師と殺し合っているとくればもう理解が及ばない。
族長の影は伸びるたびにウルズの皮膚を抉り、血を撒き散らす。感情の一切を捨て去った表情でただ指令を下す族長に彼は久しく忘れていた感情——恐怖を覚えた。
ウルズは必死に戦っていた。次々と機械的なまでに無感動に迫り来る影の群れを唸る大剣で切り裂き少しでも近づこうと歩を進めている。
「やめろ……」
呟いたのは誰だろうか。自分かもしれないし、今まさに殺し合おうとしていたゴブリンだったかもしれない。
圧倒的な物量の前でウルズの劣勢は明白だった。誰もがその戦いを見つめていた。大将同士の一騎討ちとしてではない。生贄に近いもっと邪悪で救いようのないないなにかだ。
族長が一歩前に出た。押されるようにウルズが一歩下がる。さらに一歩、一歩。徐々に森へと押しやられたウルズの背がついに木にぶつかりそうになったところで勝負に出た。
飛び上がるウルズ。当たれば肉体が砕ける死の抱擁をすんでのところで回避した。長い牙を食いしばり万力のような力で大剣を振り上げる。
極限の集中が彼に大剣から飛び散る水滴を見せる。
ウルズの咆哮と共に振り下ろされる大剣によって邪悪なゴブリンの魔術師はその命の灯火を吹き消された——かに見えた。
ウルズが剣を振り下ろす前に何かに縛られたかのように体のバランスを崩す。
水だ。最悪と言える視界の中で直感的に悟った。雨となり天から降り落ちる水を族長は操作していた。
空中という体の制御が困難な場所で致命的な一瞬を作った代価は直ちに執行された。
族長の影が蠢き、吸い込まれるようにウルズの胸に向かう。
叫んだのは彼だったか、それとも他のゴブリンか。判別が付かなかったが今の彼にそんなことを気にする余裕がない。
「ガハッ」
鎧を避けた影の触手に心臓を貫かれウルズが苦しそうに吐血する。しかしその瞳には未だ力があり、今にも武器を振るわんと殺意を込めていた。
それも意味を持たない。族長はウルズが考えているより臆病で頭が切れる。宿敵の死を前に感傷に浸る愚かさは悟っていた。
「終わりだ」
憎悪でもなく、悲哀でもなく無感情に族長は最後の一撃を放つ。影の触手がその黒々とした体を閃かせ情け容赦ないとどめを放つ。
「く、ば、かな」
もう一度心臓を貫かれたウルズの口からごぼりと血が溢れる。影を引き抜けばウルズは重力のまま地面に落ち、受け身を取れずに膝をつく。
影の触手はまだ何回でも攻撃すると油断なく構えられている。
完全に生命維持機能を破壊されたウルズがなおも執念で口を動かす。その瞳に映っているのは目の前の相手ではなかった。
「あやつを」
言い終える前に、ガクリと力が抜け崩れ落ちる。ウルズはその生涯を閉じた。死んだ。そう死んだ。
森にその名を轟かせたゴブリンの武人は無慈悲な魔術師に殺された。
「ウルズ……」
自制を効かせようとしていた彼の口から思わず恩師の名がもれる。胸にあるのは悲しみか、それとも自らの過去に決着をつけられなかった悔しさか。
族長を恨んではならないとわかっていた。族長は彼にチャンスを与え、そして彼はチャンスをものにできなかった。だが心の中に湧く信用されていないことへの諦観と失望を抑えるのは難しい。
「さてと」
雨音すらも遠慮したような静寂の中、族長が平らな口調で言葉を発した。無感動な声でありながら裏にある漆黒の殺意を伺わせる。嗅ぎ過ぎでわからなくなったはずの血の臭いがムワリと漂う
「次は誰だ?」
ゴブリンたちが2、3歩後ずさる。顔に刻みつけられたのは紛うことなき恐怖。味方であるはずのコボルトすらちびりそうなほど怯えているのだ。ゴブリンの恐怖は言うのも馬鹿らしいほどだろう。
「お前か?」
杖で指されたゴブリンへと影が振るわれ、ゴブリンは見るも無残な肉片になる。
「それともお前か?」
杖で指されたゴブリンは意味をなさない叫び声を上げながら走り出す。
勝てないなら逃げるしかない。発想自体は正しいがこの場合は全く役に立たなかった。
影の触手は即座に後ろからゴブリンの腹を貫く。串刺しにされたゴブリンの死体を乱暴に振り払う。
足元にゴブリンの死体が飛んできた運の悪いコボルトは悲鳴を上げていた。
「次は誰の番だ?」
族長がグルリと戦場を見渡す。ゴブリンたちがお互いの顔を見合わせる。彼らの指揮官はすでにいない。残されたのは本能のままに生きる下位種だけだ。
結果は火を見るよりも明らか。先ほどまで必死に戦っていたゴブリンたちが武器を投げ捨てて走り去る。
後ろから洪水でも迫ってきているように逃げ始めたゴブリンたちの背めがけて影の触手が振るわれる。
「ギャガギィィィィ!」
タガが外れたゴブリンたちの喉は鶏の断末魔のような甲高い声を奏でる。平時であれば冗談のような声音だ。黒い靄のような触手に叩き潰されている様を見ると哀れみと恐怖しか感じられない。敵とはいえ同族なのだ。
圧倒的な力の差による殺戮はゴブリンたちの姿が完全に見えなくなるまで続いた。
グルリと族長が触手で開拓された広場を見渡す。棒立ちで惨劇を眺めていたコボルトたちがビクリと体を動かした。
次は自分たちの番か。誰もがそう考え身を震わせる。
「ギガギ」
最初に跪いたのは族長の側に控えていたゴブリンだった。慌ててその隣のコボルトが跪く。
一度できた場の流れを変えることはできない。族長の怒りの矛先が自らに向くことを恐れ誰もが我先に跪く。
すぐに立っているのは族長と、彼だけになった。
唯一立っている彼に視線を飛ばしてから族長はクルリと背を向けて歩き出す。金縛りの解けた彼は続いて動き出した。
「くそっ」
身を苛む頭痛と吐き気に僕は思わず低く悪態をついた。影を使ってから少し経つと揺り戻しのように苦痛が襲ってきた。邪神は一言も言及していなかったが、これが力の代償なのだろう。
考えなければならないことがいくらでもあるというのに頭が割れそうなほど激しい痛みが僕の思考を妨げる。
「でも……」
むしろ良いのかもしれない。苦痛の中にあれば考えなくてすむ。頭に浮かんだ退廃的な考えを首を振って打ち消す。
邪神の力なんて使うべきじゃなかった。お陰でくだらない思考が次々と湧いてくる。
フラつく足取りでなんとか与えられた部屋まで戻った僕は椅子に座る前に力尽きて倒れ込んだ。壁に背をもたれかけ目を閉じる。
冷たい岩壁が今ばかりは心地よい。雨水が滲み出たのか滴り落ちてくる水滴を浴びながら深呼吸する。
心の中に渦巻く怒りと憎しみを抑えるのに必死だった。たかが感情。されど邪神から湧いてきた憤怒と憎悪は僕という器を破壊しそうなほど強力だ。
逃げるゴブリンを殺す気はなかった。投降させて使い潰すことはしても無駄に殺す気はない。
ズキリ。脳を毒蟲に噛まれたような苦痛が走り思わずうめいた。
「くそっ」
二度目の罵声を虚空に飛ばす。振り上げた拳は心中に生まれた諦観により弱々しく地面へと垂れた。
「族長……」
後ろからとぼとぼと着いてきていたゴブリンリーダーの顔を一瞥する。
「水を持ってきてくれないか」
物言いたげなゴブリンリーダーが口を開く前に言い放った。黙ったまま頷いてゴブリンリーダーは皮の水筒を持ってくる。
差し出された水筒を受け取り勢いよく飲み下す。身に残っていた不快感に流されるまま残りの水を体にかけた。
「ありがとう。それで何か用か?」
「……ああ」
それだけ言ってゴブリンリーダーは口を閉ざす。要件など互いにわかっている。切り出していないのは言及すべきでないと知っているからか。
「副官、お前の言葉を思い出せ。お前は私を信じると言った」
「確かにそうだ」
言葉少なに肯定するゴブリンリーダー。違うと僕は心の中で叫んだ。言い方を間違えた。責めたいわけじゃなかった。
「だけどよ。あんたは俺を信じちゃいなかった」
僕が反論を口にする前にゴブリンリーダーが手を突き出して話を遮る。
「わかってるさ。あんたは賢い。俺がウルズに勝てないことくらい想像できただろうし実際に俺は勝てなかった」
なら何が問題なんだ。瞳で問いかけた僕にゴブリンリーダーは怯えた犬のように牙を剥き出して答える。
「あんたは俺に任せると言った。俺にケジメをつけさせて欲しかった!」
「私がほんの少し遅れていたら死んでもおかしくなかった!」
荒々しいゴブリンリーダーに応えるように僕の語気にも棘が増す。
「死なせればよかった!」
負けずに吠えるゴブリンリーダーに思わず怒鳴り返す。
「勝手なことを言うな!お前の死はお前だけの不利益じゃないんだぞ」
ゴブリンリーダーと目が合った。その見慣れた黄色い瞳に理解し難い色が浮かんだ。馴染みのないその感情の名前を僕は知らない。
「…不利益。そうか。不利益か。族長、俺はあんたに着いていけないよ」
「なんだと?」
急に声のトーンを落としたゴブリンリーダーに困惑しながら聞き返す。こいつは何を言っているんだ?
「俺は嘘を吐いた。もうあんたの部下じゃいられない。あんたにとって部下は駒でしかなかったんだ」
「お前はそれで構わないと言った」
あの日の会話を思い出す。僕が本当の意味で再起を決意したあの日を。
「だからそれが間違いだったんだ」
ようやく僕はゴブリンリーダーの瞳に宿っているのが悲しみと呼ばれるのもだと気付いた。自分から遠い感情に思わず動揺する。
「結論を急ぐな」
「考えた上だ。あなたは強くなる。多分俺が想像するより遥かに。でも俺はあなたに従えない」
決然としたゴブリンリーダーの言葉。
良いじゃないか。そう頭の片隅で何かが囁いた。どうせもうこのゴブリンは役に立たない。この後どうなろうと知ったことじゃない。
散り散りになった思考のまま僕は必死に反論を構築する。副官はいつでも必要だ。戦士としても優秀なゴブリンは絶対に必要だ。
嘘だ。何かが意地の悪い笑みを浮かべる。
お前は、俺たちは力を示した。部下ならいくらでも手に入る。
それとも——何か止めたい理由でもあるのか?
とっさに言葉が浮かばなかった。いつも避けていた考えだった。
部下は駒だ。部下以外もこの世のすべては僕にとっての利用価値で測るべきなのだ。今までそうしてきたじゃないか。やる気をなくした部下など全く役に立たない。バックアップも用意できるはずだ。何の問題がある?
黙り込んだ僕に一度だけ笑みを見せてゴブリンリーダーは立ち上がった。
「待ってくれ」
掠れた弱々しい言葉が僕の口から洩れた。自分でも耳も疑うようなあまりに自分らしくない声。『私』が固く封じていたはずのカケラがまろびでた。
ゴブリンリーダーが足を止める。顔はこちらに向いていないが確かに聞いているのを感じる。自らを突き動かすものを表現しよう口を開いてみるが続く言葉は出てこない。
「もう耐えられないんだ」
結局口をついて出たのは誰にも告げたことのない弱音であり本心だった。決壊した僕の心から溜まりにたまった感情の奔流が流れ出す。
「飢えるのも、痛いのも、苦しいのも、殺すことも、疑い続けるのも。疲れたんだ」
思案していた論理も話術も一切合切吹き飛んだ。ゴブリンリーダーの背に思う全てを叩きつける。
「だから…!」
理由になってないことだってわかっている。でもそれが僕にできる感情表現のすべてだった。
「僕を信じてほしい」
過去の自分が聞けば頭を抱えるであろう馬鹿げた言葉だった。もしかしたら未来の僕も何を世迷いごとをと罵声を飛ばすかもしれない。かまわない。そう言い切れるだけの余裕はない。
だがそれは今の僕が心から望んでいることだ。
「俺は…」
ゴブリンリーダーが口を開く。先程までの決然とした声とは打って変わった揺らいだ声。誤魔化すように言い直した。
「俺はわからない。わからないんだ。考える時間が欲しい」
それだけ言い放ってゴブリンリーダーは駆け出した。
「まっ——くっ」
立ち上がろうとした僕を激痛が妨げる。最悪のタイミングで『代償』に襲われた僕は走るゴブリンリーダーの背を見送るしかなかった。
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