第66話遠のく意識
「ガァァァァァァァァァ」
空気が震えるほどに憤怒と憎悪の満ち満ちた咆哮の主は考えるまでもない。
ウルズだ。出てきやがった。
認めよう。怖かった。恐ろしかった。自分より遥かに強大な生命体に殺意を向けられるのはいくら経験しても慣れることはない。
ただ、恐るわけにはいかないのだ。恐怖に震えそうになる自分を意識の力で抑える。
「狼狽えるな!所詮放り出された雑魚だ!」
腹から声を出して部下たちを鼓舞する。土壇場で噴き出した人生で一番の大声に硬直していた部下たちが動き出した。
そうだ。動かなければ死ぬ。動いても死ぬかもしれない所が救えないのだが。
「来るぞ。問題ないな」
「あんたがないなら大丈夫だ」
ゴブリンリーダーの軽口に口の端を釣り上げてから深く息を吸い込み自分の中の負の感情に集中する。
いける。殺せる。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。
奈落から湧き上がる瘴気が歓喜の声を上げているようだった。
深く暗い場所。奈落の底。魂をその場所に移す。邪神の寵愛などと言う不愉快極まりないもののせいで僕のゴブ生は取り返しのつかないほど狂わされた。
だからこそ。少しでも利用してやる。
ずっしりとした重い足音が近づいてきた。隣のゴブリンリーダーの流した汗が地面につく音すら聞こえそうなほど僕の心は無音だ。
視界は色を失い黒々とした瘴気のみが僕の体に纏わりつく。抱擁するように絡みつく瘴気が僕に昏い生命力を与えてくれた。
来る。
崩れた家の影から姿を現した存在に僕は改めて唾を飲み込んだ。
憤怒に燃える瞳に禍々しく伸びる二本の角。筋肉の隆起した肉体は重戦車を思わせる。以前倒した鬼が可愛く思えるほどの体躯。
武具も立派なものだ。握り締められた大剣は西日を反射して不気味に輝き、金属の使われた野蛮な鎧は消えない返り血の跡が残っている。
文句なしに最上位の怪物。かつ取り巻きもいるときた。逃走推奨の鬼畜なボスだ。ゲームなら回線遮断して諦めること受け合い。ただゴブ生というクソゲーを諦めるには多くを背負いすぎた。
「下がっていろ」
尻尾を丸め、今にもちびりそうな子狼を背中に僕は前に出た。
心臓の鼓動がうるさい。出来れば全てを忘れて逃げてしまいたかった。僕は弱いのだ。体も心も。逃げてしまいたくなることばかりだ。ただ、ただ。僕が僕であるために忘れてはいけないこともある。
「弱さを認められない弱者に価値はない。お前の言葉だったな。忘れたのか?」
ウルズは腹の底まで沈み込むような物理的圧力すら感じる太く重い声を発した。
あの聖女の不気味で自己完結的な言動とは違うある種理性的な言葉。
「忘れてはいないさ」
口を動かせた自分に心の中で賛辞を送る。自らを包むローブのフードを外し顔と顔で睨み合った。
「だが、ウルズ。お前に負ける気はしない」
「愚かな」
剥き出しにした牙の間から息を吹き出してウルズは僕を威圧する。
もう、言葉は必要なかった。
「
「ォォォォォォォォ」
瘴気と共に放たれた魔術をウルズは大剣を盾のように持つことで受け止めた。
瘴気を放ちながらその威力を発揮するがウルズは小さく体を逸らしたくらいで足を止めることはできても殺すまでには至らない。
僕の魔術を合図に双方の軍が激突。
剣戟の音や悲鳴がすぐさま戦場を支配した。
が、僕の心は騒がしい戦場とは裏腹に凪いだように静かだ。
目を逸らしたら死ぬ。僕の勘が柄にもなくそう囁いている。
じり、じりと歩み寄るウルズの前にゴブリンリーダーが立ちはだかった。
「お前もか」
どこぞのカエサルさんのようなことを言ってウルズは一瞬悲しげな色を浮かべた。
僕はゴブリンリーダーの過去、出会う前のことをよく知らない。ウルズとのことも。あまり戦いたがっていないことから過去に関係があったのかと推測はできるが詳しく聞くこともしなかった。
聞く必要がなかったのだ。どれほど悩んでも僕と共に戦うと分かっていた。これが信頼と呼ぶものなのかは僕にはわからない。確かなのはゴブリンリーダーが僕の下を離れる時は今ではないと言うこと。
果たして、ウルズに相対するゴブリンリーダーは黙って剣を突きつける。その態度がなによりも雄弁に語っていた。俺はお前の敵だと。
瞬間、ゴブリンリーダーが大地を蹴って距離を詰めた。
遅れて僕も詠唱を始める。
「
攻撃圏内に入ったゴブリンリーダーにウルズが容赦なく薙ぎ払う。ゴブリンリーダーは咄嗟に剣を縦に構えて防ぐが剛腕から放たれた剣戟の衝撃を殺しきれずに吹き飛んだ。
ゴブリンリーダーではウルズ敵わない。
「
だが、そこに僅かな隙ができる。
ゴブリンリーダーが命懸けで作った隙に乗じて僕は再び全力の魔法の矢を放つ。
大気を穿ちながら進む魔法の矢は攻撃範囲は狭いものの速さと燃費は折り紙付きだ。
今から大剣を戻すことは不可能。当たる——。僕の期待はウルズが身を捻って体に掠らせながらも直撃を回避したことで裏切られる。
「馬鹿な!」
ゴブリンリーダーが無駄口を叩いている間に僕は再び詠唱を始めた。
「
毒を生成した僕に気づいたのか、ウルズは僕を睨み据えて歩を進めた。
「させるかぁぁ」
怒声を上げてゴブリンリーダーが走り出した。ウルズの薙ぎ払いを今度は紙一重で躱し剣を持つ右手に斬撃を放った。
またしてもウルズの見た目に似合わない滑らかな動きで手首は外したものの、二の腕のあたりの筋肉にダメージを与える。
手傷を負いながらも未だ余裕を保ったウルズは冷静にゴブリンリーダーに蹴りを放つが、僕の魔術の方が速い。
「
直接毒の槍を作ることは今の僕の存在の格では不可能だと、森神官は看破していた。
無駄な努力をするくらいなら威力に劣っても確実な道を選ぶべきだと勧められた時の無力感は忘れもしない。
今も僕は無力だ。だが、それでも生きる道を進む。進まねばならない。
この道を信じて進んで来た自分のために、道半ばで倒れた者のために、僕の後ろを進む者ために。
放たれた水槍をウルズは大剣で防ぐ。放たれた勢いのまま水槍は毒を散らした。
「なっっ!」
人間の魔術師に放った時と違い明らかに体に悪そうな瘴気を含んだ毒を吸い込んだウルズは初めて後ろに下がる。
倒れこそしないものの、苦しそうに喉を押さえていた。
ここで畳みかける。
刹那の間にゴブリンリーダーと目を見交わし僕たちは同時に行動を開始する——直後のことだ。
「アォォォォォォォォン」「アォォォォォォォォン」「アォォォォォォォォ」
「チッ、今か」
各所から響く撤退の合図に思わず歯噛みした。今はチャンスなのだ。それも千載一遇の。
だが、例えウルズを倒しても満身創痍のゴブリンリーダーと僕の二人が取り残されることとなる。
さらに、だ。この戦場で優位に進められそうなのは僕たちだけなのだ。他は戦力差によって押し潰されつつある。
「撤退だ。撤退しろ!」
苛立ちとともに部下に怒鳴り声を上げ、弓持ちの部下に命じ部下の相対していた敵に矢を浴びせる。
「
僕自身もウルズに魔術を飛ばし撤退の時間を稼いだ。殿軍はコボルト側が務めることになっていた。
「ここで逃したのは惜しいな」
「無理に居残ってもウルズを仕留めることはできなかった」
ゴブリンリーダーが悔しげな顔に首を振っておいた。真実が悪魔のようなものだと言うのなら時に嘘も方便となる。
「それに」
今度は確信を込めて口を開く。
「大変なのはここからだ」
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