第六話:今を見て、未来を考え

 その後も二人で時に真剣に。時に雑談をしながら勉強を進めていると、部屋のドアがコンコンとノックする音がした。


「萌絵~。そろそろ時間だけど、どうするの?」


 扉越しに聞こえる萌奈美もなみの声に、はっとした萌絵はちらりと壁の時計を見ると、気づけば時間は十一時半を回っていた。


「あ、うん。そっちに行くから。お母さんは手伝わなくていいからね」

「はいはい」


 真剣な顔で母に答えた萌絵を見て、諒が思わず首を傾げる。


「どうかしたの?」

「え、あ、あのね」


 彼の問い掛けにこれまたはっとした萌絵は、少しだけ自信なさげな顔で視線を落とす。。


「今日のお昼ね。私が作ろうと思ってるんだけど、いいかな?」


  ──あ、この顔……。


 上目遣いに見つめてくる彼女を見て、諒の脳裏にふっとある日の想い出が重なる。


 春休み。

 一緒に鏡桜を見ながら彼女のお弁当をご馳走になる前。あの時と全く同じ顔。


  ──……もっと、自信持っていいのに。


 あの日食べた美味しいお弁当の味を思い出した諒は、優しく微笑んだ。


「いいけど、手間じゃない? 勉強した後で頭も疲れてるだろうし」

「ううん。大丈夫。じゃ、一旦諒君はお母さんと居間で待っててくれる?」

「うん。分かったよ」


 互いにテーブルの上の教科書やノートを閉じると、その場で立ち上がったのだが。

 はっとした萌絵は、少しだけ真面目な顔で彼を見ると、こんな事を言った。


「あの、お母さんに伝えておいて。変なことは絶対話さないでって」


* * * * *


「あの子ったら、そんな事言っていたの?」

「はい」


 居間のソファに諒と並んで座る萌奈美もなみは、伝言を聞いて呆れた笑みを浮かべてしまう。


「まったく。家族だっていうのに信用ないのね。それとも、もしかしてこれは振りなのかしら? 諒君はどう思う?」

「えっと……きっと、本当に恥ずかしいんだと思います。どこまで話していいのかは萌奈美もなみさん次第だと思いますけど、できれば上手く避けてあげて貰えたらと」

「あら? 諒君は萌絵の昔の話とか聞きたくない?」

「そ、そういう訳じゃないです。でも、きっと本人がいない所で、許可なく話されたら嫌な話もあるかなと思って」


  ──……本当に、年甲斐もなくしっかりしているのね。


 慎重に言葉を選びながら、娘に対し気を遣う彼の姿に、萌奈美もなみは少し目を細める。

 以前の電話でも、今朝顔を合わせてからも。それこそこの十年、何かと萌絵から聞かされてきた彼をイメージしても、諒は真面目で誠実なイメージから変わっていない。

 だからこそ母としては、改めて安心して娘と一緒にいさせられたのだが。


「じゃあ、一旦萌絵の話は止めて、私からあなたにお願い事でもさせてもらおうかしら」

「お願い、ですか?」

「ええ」


 意外な申し出に、諒が少し驚きを見せると、彼女は柔らかい笑みを返してきた。


「諒君はね。私から見ても、娘の話を聞いても、とても優しく真面目な子だってよく分かるの。だからこそ、ひとつお願いがあるの」

「はい」


 表情とは裏腹に、何処か真剣さを宿す言葉に、諒は背筋を伸ばすと、座ったまま萌奈美もなみに向き直る。


「あなたが娘の告白に、友達からって言ってくださったのには感謝しているわ。でも、こんな事を思って妥協してないかしら? 『十年見続けてきてくれたから』って」


  ──……そういえば……。


 諒には少し心当たりがあった。


 萌絵に告白された翌日。

 彼女と話をして、自分から友達にならないかと持ちかけた時。


  ──「本当に……友だちになっても、いいの?」


 そう不安そうに問い掛けられた時。

 自分はふっと、そう思って己の不安を隠し、頷いたのを。


「どうかしら?」

「……すいません。まったくないとは、言い切れないかもしれません」


 ふっと目を伏せる諒。

 そこに浮かぶ迷いある顔に、


「ごめんなさいね。別にあなたを責めている訳じゃないの」


 相変わらず優しい顔をした彼女は、ふっと視線を正面に向ける。


「あの子にとっては、確かに十年越しにやっと初恋の人に告白できて友達になれた。この十年。憧れて。思い焦がれて。悩んで。それでもやっと立てたスタート地点ではあると思うの」


 そこまで口にして、再び彼女は諒を見た。

 真剣な眼差しで。


「でもね。あなたにとっては萌絵に告白されたその時が始まり。十年の間の萌絵の想いは確かに知ったかもしれないけれど、できれば付き合うかどうかは過去じゃなく、今を見て、未来を考えて決めて欲しいの」

「今と未来、ですか?」

「ええ。過去の十年への同情なんて、今のあの子には必要ないのよ。諒君がその十年をずっと共に過ごしていたなら別だけれど。あなたは萌絵という子を知らず、今一緒にいて下さってるのよね?」

「はい」

「だからあなたは過去への同情ではなく、今の萌絵を見て、知って、考え、決断してしてあげて欲しいの。二人が付き合うにしても、友達止まりにしても。それこそ喧嘩別れするかもしれなくても。それはあなたが萌絵を知り、萌絵を見て、萌絵を感じて選べばいいだけ。未来にどうありたいかも含めてね。過去に同情して惰性でした選択は、きっとあなたも、萌絵も苦しむわ」


  ──今を見て、未来を決める、か……。


 彼はその言葉に衝撃を覚えた。

 確かに萌絵の過去を殆ど知らない自分は、今の彼女しか知らない。

 僅かな記憶も、結局は殆ど関わったとは言えない事ばかり。

 ただ、十年間想い続けていたと聞いて、だからこそ何処か特別視していたような気もする。


 だが、同時に心に思う。

 それを理由に萌絵の過去を見なくて良いのか。

 今の彼女だけを見れば良いのかを。


  ──……うん。そうだよな。


 諒は少しだけ俯いたまま自分の心を整理すると、姿勢を正し、凛とした表情で萌奈美もなみを見つめた。


萌奈美もなみさん。ありがとうございます。あの……俺、確かに萌絵さんの過去を気にしてると思います。ただ、俺が萌絵さんといて楽しいって思えているのは、今萌絵さんに色々と経験させてもらって、元気を貰っているからだし。俺の過去を知りながらも、今それを受け入れてくれている萌絵さんのお陰だと思うんです。だから、萌奈美もなみさんの仰るとおり、同情はしません。だけど、萌絵さんの過去も。今も。どちらも見て、受け入れて、未来を考えようと思います」

「……本当に、萌絵には勿体ないわね」


 萌奈美もなみはその答えに、思わず嬉しそうに目を細めた。


  ──本当に、真面目なのね。


 大人の言葉を聞き入れ、吟味し、鵜呑みにせず答えにする。

 中々この歳でそこまで考えられる子は少ない。

 だからこそ、その素直さと真摯さに彼女もまた感心させられる。


「ありがとう。あなたがそうやって考えて出してくださった答えなら、私はそれ以上何も言う事はないわ」

「いえ。こちらこそ。良い言葉をありがとうございました」

「どういたしまして」


 ふっと互いに笑みを交わした二人だったが。


「あっ!」


 キッチンの方から聞こえた驚き声に、きょとんとし思わず顔を見合わせる。


「何か、あったんですかね?」

「ああ……。多分、大丈夫だけど。ごめんなさい、ちょっと見てくるわね」


 今日の昼食のメニューを知る萌奈美もなみは、今何が起きたかを何となく想像し苦笑を浮かべると、そう言い残してキッチンへと向かうのだった。

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