112話:あなただからしたくなること

 AO入試の出願、面接を終えて期末テストが近づいてきた夏休み直前のある日のこと。その日は勉強会とは名ばかりのお泊まりの日だった。お茶を飲もうと冷蔵庫を開けると、以前はなかった小さな缶ビールがケースで入っていた。


「えっ、ちっさ。なんだこれ」


 手のひらよりも小さい小ぶりなサイズ。内容量を見ると、135ml。自販機で売っている小さいペットボトルよりさらに小さい。アイスクリームのカップ2個分くらいの高さしかない。こんな可愛いサイズのビール初めて見た。いや、しかし、小さいとはいえビールだ。お酒だ。彼女はお菓子で酔うくらい弱い。この量とはいえ、飲んで良いのだろうか。

 そういえば、ビールで肉を煮込むと柔らかくなって美味しいと聞いたことがある。そのためのビールなのかもしれない。しかし、それにしたってお菓子で酔う人だ。火を通してちゃんと飛ばせば大丈夫なのだろうか。


「咲ちゃん? どうしたの? 冷蔵庫開けたまま固まって。


 彼女の声でハッとして、早く閉めてくれと言わんばかりにピーピー叫びだす冷蔵庫を慌てて閉める。振り返ると、彼女が首を傾げた。お風呂上がりで、まだ少し濡れている髪が色っぽい。付き合って二年になるけれど、未だにドキドキしてしまう。


「何か気になるものでもあった?」


「い、いや、冷蔵庫にビールがいっぱい入ってたからちょっとびっくりしちゃって……」


「あぁ、あれ? 可愛いでしょ。小さいの探してたらスーパーで見つけたんだ」


「そうなんだ……料理に使うの?」


「ううん。飲む」


「飲むの!?」


「えっ、う、うん……」


「だ、大丈夫ですか? 未来さん、お酒めちゃくちゃ弱いのに」


「あぁ、うん。大丈夫。この間、湊さんにビールベースのカクテルなら度数が低いよーって教えてもらってね。ちょっとくらいなら飲んでも平気だったから、あれ使ってカクテル作ってるんだ」


「ミナトさん?」


「鈴木さんのお兄さんだよ」


「……鈴木くんのお兄さんと飲みに行ったの?」


「あ、二人きりじゃないよ? もちろん。桜ちゃんと、和希さんと、杏介さんと、麗人さんも居たよ」


 男ばかりだ。昔はあんなに男性が苦手だったのに。そもそも、人と関わること自体苦手だったのに。

 しかし、和希さんは恋人がいる。美麗さんのお兄さんは紳士的な人だ。実さんのお兄さんはそもそも恋愛に興味がなさそうだ。

 鈴木くんのお兄さんは……会ったことはないが、なんとなく遊んでいるイメージがある。以前、未来さんが鈴木くんの母親に『恋人が居る女は口説かない』と言われたと言っていたからかもしれない。柚樹さんと同じタイプだ。まぁ、柚樹さんと同じタイプということは、恋人が居る限りは手を出してこないということでもあるのだけど。


「咲ちゃん?」


「……鈴木くんのお兄さんって、どんな人でしたか」


「えっ。うーんと……良い人だったよ?」


「口説かれたり、してない?」


「ふふ。大丈夫。そういう感じの人じゃなかったよ。結婚を前提に付き合ってる恋人が居るって言ってたし」


「……なら良いですけど。にしても未来さん、男性苦手だったくせに、大学では男ばかりと連んでるんですね」


「大丈夫だよ。私、学校ではレズビアンってことになってるから。噂にもならないよ」


「……けど、本当は違うじゃん。未来さん、女じゃなきゃいけないわけじゃないじゃん。男に惚れる可能性なく無いでしょ」


 めんどくさいなと思いつつも、つい妬いてしまう。すると未来さんは嫌な顔一つせず、むしろ嬉しそうに「妬いてるんだ?」と笑うする。素直に認めると「大丈夫だよ」と距離を詰めてきた。少し湿った髪からシャンプーの匂いが鼻をくすぐる。壁ドンならぬ冷蔵庫ドンの状態のまま、彼女は私の胸に頭を寄せて語る。


「私は女の子じゃなきゃいけないわけじゃない。けど、咲ちゃんが好きだから、私は咲ちゃんと付き合ってるんだよ。分かってると思うけど」


「……分かってます。重々承知です。いつも言われてることだし」


「ふふ。良かった」


「……分かってても、妬いちゃうんですよ」


「うん。分かってる。良いよ。たくさんやきもちやいて。咲ちゃんにやきもちやかれるの嫌いじゃないよ。可愛いねー。よしよし」


 抱きしめられたまま後頭部を撫でられる。なんだか子供扱いされているみたいで恥ずかしい。


「……もしかして、わざと妬かせようとしてる?」


「そんなことしないよ。……湊さんや和希さん達は良い人だし、正直、素敵な人だなぁって思うことはあるよ。けどそれは人としてだから」


 彼女の可愛い顔が私の顔に近づく。唇に柔らかいものが触れて、離れると彼女のしたり顔が視界一杯に映る。彼女はその顔で私を見上げて、言った。「こういうことしたくなるのは、咲ちゃんだけだよ」と。


「っ……どこで覚えたんですかそんなあざとい技……」


「えへへー。咲ちゃんが赤くなってるー」


 楽しそうに笑う彼女と位置を入れ替わって冷蔵庫に押し付ける。


「あ、えっ、えっと、咲ちゃんさん……お、怒っちゃった?」


「……怒っては無いけど、仕返しはさせてもらいます」


 危険を察したのか逃げようとする身体を押さえつけて、唇を奪う。

 一旦離してもう一度口付けると、彼女はじたばたと抵抗する。


「わ、私、一回しかしてな——んっ」


「倍返しです。逃げないで」


「ば、倍どころじゃ——んっ、ふっ……」


 彼女の唇と舌を心ゆくまで堪能して、解放する。彼女ははぁはぁと熱い吐息を吐きながら、すっかり蕩けた瞳で私を見据える。


「私だって、こういうことしたくなるの未来さんだけですからね」


 耳元で囁いてやると、彼女は真っ赤になった顔を隠しながらこくこくと頷いた。


「仕掛けたのはそっちのくせに。ほんと可愛い人ですね」


「ぐぬぬ……悔しい……」


 本当に可愛い。もう少しいじめたくなる。


「ねぇ、他には?」


「ほ、他?」


「私にだけしたくなること。私にだけしてほしくなること。キスの他に何かあります?」


「えっ、えっと……」


 困惑する彼女の唇を指でなぞる。


「キスだけですか? 他のことは、私以外ともしたくなるんですか?」


「え、えぇ? そ、そんなわけないじゃないかぁ……」


「じゃあ、教えてください。私とだけしたくなること、他の人とはしたくならないこと、教えてよ。全部」


「うぅ……」


 恥ずかしそうに唸りながら、彼女は私の背中に腕を回した。そして消え入りそうな声で「頭撫でてください」と呟く。撫でながら「これも私とだけしたくなること?」と問うと、彼女はこくりと頷き「咲ちゃんになでなでされるの好きなの」と恥ずかしそう返す。

 彼女が困るところを見たくて揶揄ったつもりだったが、思った以上に破壊力が高かった。しかもこれ、多分狙ってないやつ。たまらなくなり、抱きしめると「ハグされるのもするのも好き。君にハグされると幸せな気持ちになるの。他の人とは違う」と言って私を抱きしめ返す。


「あと——「や、やっぱり、全部言う前に私が死にそうなので、あと一個だけで大丈夫です」え、えっと、じゃあ……えっと……えっと……あ、お、お酒を一緒に——は、この間言ったから……えっと……」


 しばらく悩んだ末に彼女は「沢山あって選べないや……」と少し照れ臭そうに言う。なんだその可愛い答えは。ずるい。


「逆に、咲ちゃんは何があるんですか? 私とだけ、したいこと。私だからしたくなること」


 仕返しと言わんばかりに悪戯っぽく笑いながら同じ問いを返す彼女。


「……いいんですか。そんなこと聞いて。えっちなこと要求されますよ」


「……してもいいよ。咲ちゃんになら何されても良い」


「……全くあなたって人は。……それ、誘ってるって解釈で良いんだよね?」


「……うん。あ、で、でも、痛いのはやだよ」


「大丈夫。痛いことは私もしたくないから」


 彼女をベッドに連れて行き、寝かせて上に乗る。唇を重ねて離すと、彼女は幸せそうに笑った。


「こういうこと、私以外にしちゃ駄目だよ」


「言われなくてもしませんよ。キスしたいって思うのも、触れたいって思うのも、縛りたいって思うのも、未来さんだけです」


「ふふ。私も。咲ちゃんだけだよ。——って、えっ? 縛りたいって言った?」


「何されても良いって言ったよね?」


「う、あ、あの……」


「言ったよね?」


「……うぅ。あの……い、痛くしないでね……」


「ふふ。大丈夫。キツく縛ったりしないから。そのまま待ってて」


 洗濯カゴの中から制服のリボンをもってきて、彼女の手首を縛る。


「きつくない?」


「うん……大丈夫」


「よし」


「ん……」


 身動き出来ない彼女の身体を指先でじっくりと味わいながら考える。彼女の交友関係はきっと、この先どんどん広がっていく。私の知らないところで、私の知らない人達と関わっていく。その中には男性も居るだろうし、彼女に恋心を抱く人も出てくるだろう。想像しただけでもやもやする。そのもやもやを誤魔化すように、彼女に触れる。「大丈夫。君だけだよ」と彼女は何度も繰り返す。分かっている。分かっているから、繰り返さないでほしい。


「いちいち言わなくても、ちゃんと分かってるから。繰り返し言われるとなんか、言い聞かされてるみたいで余計に……」


「あ……ごめん」


「……ううん。良いの。気持ちはちゃんと伝わってるから。疑ったこともない。それでも妬いてしまう私の心の狭さの問題だから。未来さんは何も悪くないよ。ありがとう。こんな私を好きでいてくれて」


「……うん。大好きだよ。どんな君も」


「私も、大好きです。だから……今はただ、黙って抱かれてください」


「……うん。良いよ。咲ちゃんの気が済むまでして」


「……気が済むまでしたら未来さんの体力持たないでしょ」


「……ガンバリマス」


「ふぅん? じゃあ、頑張ってもらおうかなぁー」


 そこからは言葉は交わさず、指先と唇で愛を確かめ合う。余計な言葉が無い分、いつも以上に彼女の息遣いを感じる。甘い声で名前を呼ばれるたびに、もやもやした気持ちが少しずつ晴れていく。だけど、終わった後ももやもやが完全には晴れることはなかった。

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