182話 供儀婚儀その5

「───フン。折れたか」


 膝をつくヒウィラを見下ろすマイゼスの瞳には何の感情もない。彼女が何かに賭けていたのは勘付いていたが、まさか《真なる異端》とは。何と取り違えたかは定かではないが、おおかた自らを生贄に状況を打開できるとでも考えていたのだろう。


 滑稽な。


 彼女がその身を捧げるべきはおれ一柱であり、結婚などという方便で呼びつけたのはこの時のため。


「ならば話は早い。その身、その魂まで、一欠けらも遺すことなく全てをおれに捧げよ」


 手掌を天に翳す。《澱の天道》に翳す。と示す合図。感応を済ませている《真なる遺物》は呼応し、と淀んだ黒を流出させる。それはあたかも、幾色もの絵具を混ぜ合わせた混沌が決壊したかのような光景だ。


 淀んだ黒の奔流がゆっくりと───否、距離があるからそう見えるだけで尋常ならざる速度で降り注ぐ。マイゼスは翳していた手で標的を指し示す。───蹲るヒウィラを貪り喰らえと指令を出す。


 怒涛、まさに彼女を呑み込まんとする刹那、その勢いが急角度で曲がる。


 マイゼスを取り巻くように渦を描く黒。それを断ち切るロジェス!


「───意外だな。を守るか?」


「いいや最初から狙いはお前マイゼスだよ。今なられるかと思ったが甘くはないようだ!」


「当然だッ!」


 マイゼスが虚空に手を伸ばすと、どこからともなくその手に片手剣と手斧が出現する。彼の戦闘スタイル、二本の腕で二種類の武器。振り下ろされた手斧、逸らして受け流したところに《澱の天道》の奔流が襲い掛かる。空いた最後の腕は《遺物》を操るものか───!


 間一髪、グオノージェンの形成した盾が一撃だけは防いだ。


「無茶ですよロジェスさん、!」


「はは、悪い。先走った」


 手刀では切れ味が悪い、これで大魔王とやり合うのは厳しいかと反省する。飛びのいてカーウィンの隠し持っていたバスタードソードを受け取りついでに、ロジェスは傍らの彼女に声をかける。


髑髏城ここまで来れた以上、お前にもう用はない。死にたくなければ自分で立て」


 ヒウィラはうんともすんとも言わない。


 その様子を見てこれはダメかなとあっさり諦めたロジェスは、その後の言葉を彼女に向けてではなく、ただ自分の驚きを整理するためだけに発した。つまり、


「───それにしても、《真なる異端》を大魔王暗殺の手段とするとは。あのバカみたいになりたかったのか、お前は」


 ヒウィラの肩がびくりと震えて、しかし、顔を上げることはない。聡い彼女はロジェスが示唆しているのが姿を消してしまったユヴォーシュだと勘付いてしまう。渦巻いてただでさえまとまりの付かない脳内に、新しい情報が加わればもうどうにもならない。


 《割断》のロジェスが疾駆する。宣言した通り、彼の一挙一動は大魔王マイゼスの命を奪うための行動であって、ヒウィラを守るためでは断じてない。余波や、あるいは《澱の天道》の奔流の流れ弾なんかが彼女に直撃する軌道を描いても、彼はそちらを一瞥もしないのだ。


 やっと、やっと、やっと待ち焦がれた瞬間が訪れているのだから。余分に気を回している余裕なんかありようはずもない。


「ヒウィラ様ッ……!」


 タンタヴィーがその機動力を全力にして何とか、一撃だけは身を挺して避けられた。もう一度の幸運はあるまい。すぐ脇で《魔界》インスラの頂点と《人界》の頂点が繰り広げる死闘、ただの《信業遣い》たるタンタヴィーでは到底飛び込めない。地上に具現した世界の終わりそのもの、選ばれし者のみの決戦だ。


「ヒウィラ様、しっかりなさって下さい! ヒウィラ様!」


 即ち離れるしかなく、そのためには護衛対象の彼女に正気に戻ってもらうのが最優先だ。婚姻についてもその後の行動についても彼らはヒウィラの命令に従えとだけ指示されているから、どう行動するか指針を受けなければ。


「ヒウィラ様!」


「しっかり、って……だって、を消して、そのあとなんて、私は、し、知らな───」


 彼女の譫言のような呟きがやっと聞こえてきて、しかしタンタヴィーは毛が逆立つのを感じた。あれが全てで、全てが終わって、指針はないのか? 俺たちはどうすればいいんだ? こんな、生まれ育った《魔界》アディケードではない彼方で───死ぬしかないのか?


 状況は、最悪だった。

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