第11話 匹夫の勇


 見下ろす双眼に、朱音は固唾をのんだ。

 自身を覆う影に、四方から挟まれたような重圧を感じる。


(……大きいッ)


 三メートルを超すであろう怪物。朱音の額には、冷や汗が滲んでいる。

 ただのクマになら、遭遇した事も幾度かあった。しかし、これ程の緊張を強いられた事は一度もない。


(姿形はほぼ変わらないのに……魔獣というだけでこれ程違うのか)


 シードルベアは、普通の熊と殆ど変わらない姿をしている。

 特徴と言えば、耳の先が少し尖っており、胸部と肩回りの体毛が長い。額から背部にかけて、三本のストライプ模様が伸びていた。


 腕は朱音の胴回りより太く、鋭い爪に引き裂かれれば無事ではすまないだろう。


(人の血? いや違うな。何故、怪我をしているんだろう?)


 けれど、そのシードルベアの爪は、既に折れて使い物にならない様子だった。傷口から血が流れ落ち、あらぬ方向に曲がっている指が数本ある。

 しかし、傷を負ってはいるが、脅威が僅かばかり軽減した程度だ。腕力で押し切られれば、折れた爪とは言え凶器には充分成りえる。


 他の魔獣を檻から出したのは、他でもなく彼の仕業だったが。朱音が知る由もなく、不可解な様子に眉を寄せていた。

 爪が折れ指が砕けようと、狂ったように檻を叩き壊すなど、誰も予想出来ないだろう。このシードルベアにも、常軌を逸した異変が起こっていた。


 こんな怪物が、その力の限りで暴れまわれば、石造りの家でも容易に破壊出来そうだ。

 ここで止めなければいけない、朱音は本能的にそう悟り、剣を向けた。


「痛そうだね。大人しく休んでくれた方が、こっちも助かるんだけ、どッ!?」

『オオォオオオオオオッ!!!』


 遮るように、シールドベアの咆哮が響き渡る。凄まじい声量に、鼓膜が叩かれたような痛みを感じる。


「耳がイカれるわ。元気過ぎだろ、お前ッ!」


 朱音は諦めた様子で呟き、間合いを詰める。

 シールドベアは、右手を朱音に向けて振り下ろした。ゴウッと風を切る恐ろしい音が、耳を撫でる。


 ギリギリのところで攻撃を躱し、一歩前へと踏み込む。相手の腕に、剣を滑らせるようにして斬り込んだ。

 狙うは首。固く重い感触が、手に伝わる。


「ッ!?」


 振り抜こうと腕に力を込めた。全身を使って、剣に体重と勢いを乗せる。

 煉瓦の路を踏み砕く、渾身の一撃。


「嘘だろッ」


 朱音は驚愕に目を瞠った。その一振りは、強靭な筋肉によって遮られ、頚椎に届かず止まっている。

 周囲の肉によって、緩和された衝撃では、昏倒を誘うのは不可能だ。


 先程まで、朱音が相手取っていた魔獣とは、比べものにならない強さ。

 シードルベアは草食獣だ。しかし、場合によっては、天敵である捕食者さえもその力でなぎ倒す。


 食い込んだ剣をはぎとると、シードルベアは力任せに朱音ごと払い除けた。


「うわぁ!!」


 まるで竿でも振るようだ。グンッと、地から足が離れ、身体が高速で後方へと吹き飛ばされる。

 朱音は、反射的に受け身を取った。二度程地面を転がった所で、腕の力を使って跳ね起きる。


 目の前には、毛むくじゃらの手。シードルベアは、朱音の頭を千切り飛ばさんと追撃の手を伸ばしていた。

 迫る死の気配を避けようと、状況の認識より先に身体が動き続ける。


(駄目だ、まともに受けたら剣が持たない)


 朱音の思考が動き出したのは、四回目の猛攻を寸前で避けた折だ。

 一部の隙も無く、次の攻撃が飛んでくる。軌道に沿って、刃を押し流しながらの回転斬り。


 しかし、首同様こちらも大した手応えは感じられない。数度の応戦を繰り返したが、どれも結果は変わらなかった。


(どうすればいい!?)


 怯む様子もないシードルベアを前に、防戦を強いられる。

 歯の潰れてない真剣であったならば、こうも苦戦する事はなかったのだろうか。


 不意に過った考えに、朱音はギリッと奥歯を軋ませる。答えは否だ。

 斬れる斬れないの問題ではない。己が未熟であるからこそ、こうして追い詰められている。あるのはその事実のみ。


 不甲斐の無さに、胃の腑からムカムカと込み上がってくるものがある。


 シードルベアは、朱音の頭上から丸太の様な腕を叩きつける。スタンプを押すような軽さだが、貧弱な人間を潰すには充分な威力だろう。


 朱音はその攻撃を前に前進し、掻い潜るように懐へと潜り込む。


 と同時に、剣にも一層濃い闘気を流し込んだ。剣先に向かえば向かう程、闘気の動きは鈍く重くなる。

 まるで、何かに塞き止められているような感覚。


 しかし、朱音は無理矢理に剣先へと闘気を搔き集める。許容を超えた筋肉の緊張からか、額や手の甲に浮かんだ青筋が蠢くように広がった。

 鉛を纏ったような剣を振る為に、過剰な闘気で身体能力を高める。


「調子に乗るなよッ、クマ擬き!!」


 そして、相手の鼻先へと思いっきり剣を切り上げた。

 激情が、その一振りにとっては追い風となったのか。吸い込まれるように、シードルベアの顔面を叩く。


 急所への攻撃に加えて、闘気が爆ぜた二重の衝撃波は、シードルべアの脳を容赦もなく揺さぶった。


(今だッ)


 おぼつかない足取りで、二歩、三歩とよろめく巨体。

 この機に乗じて、朱音は畳みかけるように歩を進めた。進めようとした。


 しかし、視線は地へと落ちていく。気付けば、ガクリと朱音はその場にへたり込んでいた。

 辛うじて、上体を剣で支える。心臓の鼓動で、全身が脈打つように揺れていた。


(何だ? 一体どうしたっていうんだ?)


 朱音は混乱する。耳の内側から、心臓が跳ね回る音が響く。冬の寒さでかじかんだ時のように、指先が痺れていた。


(ふざけんな、どうして私が膝を折る)


 ブルブルと、頭を振るシードルベアの瞳は未だ虚ろだ。最大の好機を逃す訳にはいかない。


(まだやれるッ、立て、立てぇッ)


 思うように動かない、身体に鞭を打って必死に力をこめる。例え四肢が砕けようとも、今立ち上がらなければならない。


 不意に、ゾワリと首筋が粟立つ。心臓に杭を添えられたような緊迫感。

 鼻面をかくシードルベアに、目立った動きはない。朱音は本能的に、空を仰ぎ見た。

 

「ッ!?」

 

 死角からの強襲。獰猛な牙を剥き出しに、こちらへ飛び掛かってくる一匹の魔獣。

 喉元へと食いつかれそうになり、朱音は咄嗟に剣で防いだ。


 が、勢いのまま押し倒される。


 口惜しそうに唸り声をあげて、魔獣は剣を噛む。ボタボタと泡混じりの涎が、朱音の顔や服を汚した。

 抑えつける鋭利な爪が肩に食い込み、ブツリと皮膚を突き破る。朱音は苦悶の表情を浮かべた。


「イッツッッ……こ、この、人の顔に涎垂らすなよな!!」


 引き剥がそうと押し返せば、魔獣は抵抗するように掴む力を強める。

 爪は更に深く刺さり、傷口を押し広げた。白いワイシャツに、赤い染みが滲んでは広がっていく。


 開いた狂気的な瞳孔と、荒い息遣い。徐々に魔獣の牙が、朱音の喉へと迫る。


「何してんのよッ、あーちゃんから離れて!!」


 怒声に、朱音は思わず目を瞠った。

 次の瞬間、破壊音と共に、魔獣の頭部が歪に凹む。ふっと、のしかかっていた重みが消えた。


 吹っ飛ばされた魔獣が、背後にいたシードルベアへとぶつかって、地面に倒れ込む。ピクリとも動かない。

 朱音は驚きに、目を点にして固まった。傍らには、折れ曲がった看板を手にした雅美の姿がある。


「大丈夫!? 血がこんなにッ……」

「……雅美?」

「だから一緒に行くって言ったのに、一人で無茶ばっかりしてッ」

「分かった、分かったよ。説教は後で必ず聞くから……今すぐここから離れてくれ」

「バカな事言わないでッ! あーちゃんの言う事なんて、もう一生きいてあげないんだから!」

「そんな事言ってる場合じゃないんだって、アイツがッ……!?」


 朱音の傷を抑える雅美の目には、涙が浮かんでいる。

 宥めようにも、雅美の興奮を煽る結果となったらしい。抗議の視線を受けた朱音だが、言い終わる前に雅美を背に隠す。


 鼻先から血を流したシードルベアが、増悪の目でこちらを見据えていた。どうやら、意識が回復したようだ。


「私が……」

「時間を稼ぐ、その隙に逃げろ? なんて言ったら引っ叩くから」


 未だ、身体の自由がききづらい状況だが。とにもかくにも、雅美をこの場から離脱させることに、朱音は考えを巡らせる。

 が、ピシャリと図星を突かれたのか、言葉を詰まらせた。


「私が大人しくただ待ってたと思う?」


 雅美は、自身の太もも辺りに手を伸ばす。

 シードルベアは、その挙動に刺激されたのか、突進を仕掛けた。その迫力に地が揺れる。


 攻撃の拍子に合わせて、雅美は抜き取った物を投擲した。長方形の白い飛来物。

 当然、シードルベアはそれを叩き落とそうとした。


 けれど、バチンと弾かれた音と共に大きく仰け反る。


 長方形の物体……倭国の文字が綴られた紙は、『護符』と呼ばれていた。書かれた内容によって、効果は様々であり、今雅美が使用したのは障壁を作り出す物だ。

 護符は、シードルベアと朱音達を隔てるように空中で静止する。そして、護符を中心に薄い膜のようなエネルギーが、二人の周囲を包む。


 一見して、脆弱そうな壁だが、シードルベアの突貫に耐えるほどに頑丈だ。

 殴りつけるたび、障壁に波紋が広がった。


「いつの間にこんな物を……」


 朱音は感心したように言う。彼女の太ももには、護符を収納しているのだろう、レッグホルスターまで付いている。


「鍛冶師のおじ様達に借りてきたのよ」

「そりゃあ、商売あがったりだね」


 軽口を叩く朱音の顔色は、あまり良くない。抑えた傷口の、生ぬるい湿り気が雅美の指先をじわりじわりと汚す。

 不安そうに顔を曇らせれば、朱音は努めて明るい声で続けた。


「大丈夫だよ、さっきより身体が軽い」


 その言葉に嘘はなかった。雅美が稼いでくれた猶予のおかげで、不自由さは幾分か和らいでいる。闘気の重さも、不思議と先ほどよりマシになった気がした。


「何かがおかしいの。普通なら考えられない事が起きてる」

「まぁ、この島では前代未聞なんじゃないかな」


 硬く強張った声だ。確かに、こんな騒動が何度も起きては堪らない。


「それは、そうなんだけど……私が言いたいのは、人だけを執拗に狙うなんて変ってこと。同種の魔獣なら分からなくもないけど、異種の魔獣が連携なんて聞いたこともないし」


 杞憂というには、雅美の口調は確信めいている。


「言われてみれば」

「……もしかして全然気付いてなかったの?」


 納得したように頷けば、呆れたような雅美の視線が刺さる。ハハハと、朱音は誤魔化す様に笑った。


(今、アレを使う訳にはいかない。最悪、動けなくなるかもしれないし。……目の前のコイツを、先に何とかしないと)


 持ちえた術を使えば、何か分かる可能性もある。しかし、それにはリスクが伴う上に、扱い難いことこの上ない代物だ。


「とにかく、警備隊の人達が来るまで、障壁の中で持ちこたえるか。隙を見て、近くの建物に避難しよう」


 雅美の言葉に、朱音はシードルベアへと視線を移す。未だ、障壁を打ち破ろうと、叩き続けるその目は血走っている。


「朱音?」


 物言わぬ岩のように、朱音は黙り込んでいた。嫌な予感がする。

 含みのある沈黙に、雅美は息苦しそうに名を呼ぶ。心に立ち込める暗雲を、一刻も早く払しょくしたかった。


「雅美、私にも一つだけ分かった事があるよ」


 今一度、剣を握り直すと、朱音は明け放すように答える。


「コイツは絶対に諦めない。私を逃がしてはくれない」


 所謂、勘と言うものだ。そこに結び付けられる、理屈や根拠を見出したわけではなかった。

 それが、実に直感的なものであると悟ったのかは分からない。しかし、雅美は追及しなかった。答えを持ち合わせていない朱音にとっては、その方が助かったのかもしれない。


 けれど、怯えた色を滲ませる瞳を見ると、喜ぶ気にはなれなかった。

 

『グオォオオアアアアッッ!!』


 シードルベアが、殊更怒り狂ったように吠える。瞬間炸裂音が後を追い、障壁に亀裂が走った。

 「嘘……」と雅美は、まるであり得ない物でも見たように呟く。あり合わせの材料ではあるが、魔術に適した素材で作った護符だ。加えて、相当量の魔力を籠めた。


 そう簡単に破られる代物ではない筈だった。


 執念深く殴りつける度に、亀裂が広がり、軋んだような崩壊音を立て始める。

 その手からは、まるで沸くように血が噴き出していた。まさに捨て身の攻撃だろう。


「チッ、全くイカレてる」


 朱音は舌を打つ。状況は芳しくない……どころか最悪の一言だ。


「私は何をすればいい?」

「!?」

「朱音の方が、魔獣との戦いに慣れてるでしょ。教えて」

「……」

「逃げろはなしだからね」


 強気を装いつつも、雅美の手は僅かに震えている。

 それでも、その瞳はもう揺れてはいなかった。芯の強さは筋金入りだと、朱音は諦めたように思う。未だに、迷いに迷っている自分とは大違いだとも。


「……私が囮になって攻撃を誘う。合図を出すから、アイツの体勢を崩してほしい。その上で、動きを封じる事は出来る?」

「封じるって、どれくらい?」

「数秒で構わない」

「その後はどうするの?」

「……デカい一撃をお見舞いしてやるさ」


 雅美に支えられながら、朱音は身を起こす。手短に伝えると、一度大きく深呼吸をした。


「後ろは頼んだよ」

「……分かったわ」


 釘を打つように言えば、雅美はどこかすっきりしない顔で頷く。

 朱音は、その返事に安堵しつつ。後の小言が増えそうだと、苦く笑った。


 呼吸は段々と静かに、規則正しく落ち着くと。決壊寸前の障壁の先を見据えて、朱音は再び剣を構えた。

 パリンと砕けた音がして、障壁が砕け散る。キラキラと宙を舞う破片は、大気に溶け込むように消えていく。


「これ以上先には、絶対に進ませないッ!」


 隔てた障壁が完全に消え去ると、睨み合う両者は一気に間合いを詰めた。

 シードルベアの爪と、朱音の剣が交差し、互いの身を貫こうと伸びる。


 剣の切っ先が、先ほど潰されかかった鼻に迫った事で。シードルベアは、反射的に剣を避けようと身体を捩る。

 それにつられて、狙いがズレた爪は、朱音の頬の薄皮を裂くにとどまった。


 朱音は狙いを固定したまま、続けて剣を振るう。が、シードルベアは急所を隠す様に腕で覆った。

 挑発するように、あえて他の場所に切りつければ、鬱陶し気に払い除ける。


「クソッ!?」


 数回の応酬を重ねた朱音が、小さく息を乱した。攻撃を流しきれず、体勢を崩す。

 五感すらも、段々と濁っている。既に切れかかっている、体力と気力の糸が、絡み合ってどうにか持ち堪えているような状態だ。立て直そうとする意識に、身体が追い付かない。


 鋭く抉る、下段からかき上げてくる右手を、辛うじて避けた。しかし、続けざまに放たれる左腕の攻撃には、間に合いそうもない。

 範囲外に回避するにも、タイミングとバランスが悪く。後方に避けても、予想される追撃に対応出来るか分からない。


 今一度、闘気を漲らせて剣で防ぐか。次の一手まで、身体が持つかどうかの不安要素は尽きないが、朱音は攻勢に出る事を選択した。


 その刹那、後方から雅美は符を投げる。朱音を庇うように、脇をすり抜けた護符はシードルベアの額にしっかりと張り付いた。


「ッッ!?」


 綴られた文字が、チリチリと焼きつき火を灯す。朱音は反射的に、先ほどのシードルベアがしたように、腕で顔を抱くように守る。

 火の刻印が発炎の色を強めた時、それは爆弾のように爆ぜた。ボンッ!という爆発音と熱風に、朱音は「うわッ!!」と驚いたような声を上げる。


『グガァアアッ』


 シードルベアが苦し気に呻く。皮膚が焼かれ、辺りには焦げついた臭いが漂う。

 人は怪我を負った時、傷が引力を得たように蹲る。シードルベアもまた、例外ではないようだ。火傷を負った額を抑えると、意図せずその身体は前傾に折曲がった。


「ご、ごめん!」

「いや、助かった!」


 火の粉が朱音にも振りかかった事で、雅美は焦ったように言う。

 一か八かの賭けが、火の粉程度ならば安いものだと朱音は笑った。


 二度目の機会だ。一度は失敗したが、次こそはと自分を奮い立たせる。


 先ほどより、低い位置にある首めがけて剣を振り下ろす。剣へと流す闘気は最低限に抑え、残りは膂力にまわした。

 その動作は、打つ、と言うよりは抑えつけるに近い。


 シードルベアも、体幹を起し抵抗を試みる。が、一歩間に合わない。


「倒れろッ!!」


 朱音は勢いのまま、その巨体を地面へと押し付けた。不意に、バキンと重い金属音が響く。


 その力に耐え切れず、とうとう剣が折れた。声にならない悲鳴が、雅美の喉を締め付ける。

 真っ二つに割れた刀身が、まるで風車のように回り落ちて、地を滑った。


「雅美ッ!」


 朱音が声を上げれば、振り子のように揺れかけた気持ちと共に、雅美は息をぐっと堪えた。


「任せてッ!」


 ホルスターから数枚の護符を抜きさると、自身の前に並べる。隊列を為す様に、一時空中で静止した護符は、文字から墨が滲む様に黒く染まった。

 漆黒の符が、まるでクナイのように、高速でシードルベアへと迫る。


 接近した護符は、その形を変えた。まるで網のように広がり、シードルベアを絡めとるように拘束する。足を、手を、口元を覆い、地へと縫い留めた。

 立ち上がろうと藻掻くシードルベアの身体が、ギシギシと軋む。


「……く、うぅッ」


 雅美のかざした手が、小刻みに震えた。額には汗が滲み、苦し気な声が漏れる。

 拘束を引き千切ろうとする凄まじい力を、雅美は肌で感じ取っていた。強力な力に拮抗するように、護符の効力を維持し、削がれていく魔力を補い続ける。


(そう長く持たない……手持ちの札で、倒しきらないと)


 攻撃に切り替えるにも、拘束を解かなければいけない。この集中を保ったまま、別の護符を扱うのは難しかった。

 剣を失った朱音に、これ以上の無理をさせられないと。雅美は、この僅かな時間で策を練り直す必要があった。


 ふらりと、朱音がシードルベアの傍に近づく。


「朱音! 危ないから離れ……」


 言いかけて、雅美は思わず口を噤む。

 朱音は決意を宿した瞳で、シードルベアを見下ろしている。それは危なげな色をしていた。


 雅美は、あの瞳が物語る結果を何度も見ている。その既視感が、より一層確信を深めた。


「だめ、やめて……」


 うわ言のように呟くも。その声は届かない。

 朱音は迷わず拳を振り上げた。


 熊の頭蓋骨は非常に硬い。魔獣であるシードルベアのものともなれば、なお頑丈だ。

 脳を守る強固な頭蓋骨と、衝撃を緩和する太く筋肉質な首。そこに、歴然とした体格差も加えると、ただ殴る程度ではびくともしないだろう。


 しかし、雅美の拘束のおかげで、シードルベアの頭は地に置かれているような状態だ。

 衝撃がより伝わりやすく、逃げにくい。


 朱音は、闘気を右手に集中する。半分は、身の内に宿る力だ。剣へと纏わせるよりも、自身の体で運用する方が扱いやすい。

 爆発的な力を生み出す為に、闘気を高め続けた。敵を打倒す為だけの一撃。


 既に、それは許容を越したモノだった。


「あーちゃん、やめてッ!!」


 雅美は悲鳴のような声で叫んだ。それでも、朱音はその手を止める事をしない。

 迷わず振り下ろした拳は、シードルベアの脳天へと直撃する。


 ドカンッと、筒音に似た大きな音が辺りに轟く。


 煉瓦の路に、小さなクレーターが出来上がり、その中央にのめり込む形でシードルベアの頭が激突した。

 分厚い鉄板を殴りつけたような感触。固く握りしめた拳を、大きな反動が貫き。ボキリと骨が砕けた振動と、鋭い痛みが頭の先へと走り抜ける。


 それでも、拳の勢いは少しも緩まなかった。それどころか、さらに強さを増して、シードルベアに降り注ぐ。

 強烈な意志が、痛みを凌駕し突き動かす。


 次の瞬間、固い岩盤を突き抜けた感覚が、拳を通して伝わってくる。ふっと、押し上げてくる抵抗が消失した。


 巻き上がる粉塵の中、佇む朱音はゆっくりと拳を引き上げる。

 目の前には、舌をだらしなく曝け出す、沈黙したシードルベアの姿があった。 


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アスガルド ~見習い武士の魔道のすすめ~ 文々茶釜 @chagamaru

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