第10話 包囲網

 

 扉一枚隔てた先で、重なる悲鳴と破壊音。

 身を乗り出した朱音のシャツを、雅美は咄嗟に握りしめた。


「ダメッ、待って!」


 必死な声に押し留められたのか、朱音の足が止まる。

 服に食い込む雅美の指は、微かに震え白んでいた。


「大丈夫だよ。すぐに戻るから、雅美はここに居て」

「……ッ!? イヤよ、朱音が行くなら一緒に行くッ!」


 落ち着かせるよう、出来るだけ穏やかに語りかける。見交わした瞳が、一瞬不安そうに揺れた。

 しかし、すぐに強い意思を宿す。彼女は決して、儚く脆い訳ではないのだ。雅美の優秀さは、朱音が誰よりも知っている。


「信じて、ここで私を待ててほしい。お願いだ」


 それでも、と思わずにはいられない。あの夢の光景が、鮮明に脳裏へと浮かび上がる。

 雅美がその時見た朱音は、まるで縋りつくような眼差しを向けていた。おいて行こうとするのはどちらだと、怒鳴りつけてやりたい。しかし、その目を見ると何も言えなくなってしまう。


 雅美の指先に、朱音は自身の手を重ねる。その手を包んだまま腕を下ろせば、雅美がふっと力を抜いた。するりと解けた手の後が、深い皺となって残っている。


「行ってくるね」


 短く告げた。これ以上の問答は、朱音にとって二の足を踏むだけだ。


「これ借りますッ! 彼女の事をお願いします!」

「お、おい! 待て!!」

「嬢ちゃんッ、危ねぇから戻ってこい!!」


 剣を掲げた朱音は、男達に向かって矢継ぎ早に言い。焦った声を背中で受けて、振り返らずに店から飛び出していった。




 遡ること数時間前。


 アスガルドへ到着した輸送機内で、少々問題が発生した。


 今日の荷は、一般的に『魔獣』と呼ばれる生物達だ。彼らは貴重な働き手であり、農業や交通手段、はては軍事までと幅広く活躍している。

 無事検疫を終えた後は、『べスティラ』と呼ばれる、島一つ使った広大な隔離区域へと移送。または、商業地区で、食用や使役獣として重宝される。


 生態観察、実験。希少種の保護、より有用な生物を生み出す品種改良など。魔獣を飼育する目的は様々だ。アスガルドには、そのての学者達の研究棟まで存在する。


 今回は、魔獣の中でとりわけ大人しい草食獣が多く、商業地区で使われるもの達が殆どだ。空輸中の体調管理も、専門の人間が管理しており細心の注意が払われている。

 しかし、長旅故のストレスは、なかなか消す事は出来ない。食欲不振など、軽度の体調不良を起こすものが必ずおり、完全に防ぐと言うのは難しい。


 獣医師達が到着後、検疫を始めた際に異変は起こった。

 小型の魔獣達が、皮切りに騒ぎ出したのだ。が、興奮が伝染する事は、特段珍しい事ではない。手慣れた様子で処置をした獣医師達のお陰で、作業は滞りなく進む。


 結果として、検査に問題はなかった。


 だが、騒ぎ出した魔獣の興奮は中々落ち着かず。それに中てられたのか、大型の魔獣の様子にも精神的な不安定さが見られ始めた。

 医師たちは検討し、機内の狭い空間ではなく、外で落ち着かせるよう指示を出した。勿論、檻には入れたままだ。


 檻の周囲には、鎮静作用のある香を焚き。興奮状態が酷い小型の魔獣とは、特に距離を離した。

 けれど、その甲斐もなく。症状は更に酷いものとなり、副作用の懸念を抱きつつ、医師たちは鎮静剤の投与を余儀なくされる。


 この後、恐怖のどん底へと突き落とされようとは、思いもしなかっただろう。



 遠隔用の接種機器を使ったのは、興奮状態である魔獣の危険度から判断された。簡単に言えば、近づくのが危ぶまれるレベルと言う事だ。


 シードルベア、と呼ばれる熊に似た魔獣。その檻の前で、操作用の端末を握りしめた獣医師達は凍り付いた。

 射出され、突き刺さった筈のシリンジ。しかし、皮膚下で止まっているのか、シリンジ内を満たしている液体が減る様子がない。筋肉が想像以上に硬く、緊張しているのだろうか。


『グォオオオオッ!!!』


 シードルベアにとって、シリンジが刺さった程度、傷の内にも入らないだろう。しかし、攻撃されたと認識した彼は、狭い檻の中で威圧的に吠えたてる。獣医師は、ヒヤリと背筋が寒くなった。


 自分達は今、虎口に立たされているのだと。長年培ってきた経験則ではなく、人間の根幹にある本能が訴えかける。

 それを肯定するように、シードルベアが大きく腕を振りかぶった。そして、鋭利な爪と強靭な手で、檻を容赦なく殴りつける。


 ガァアアアンッ!!


 それは、破裂音のようなけたたましさだった。鉄格子の檻は、その一撃によって大きくひしゃげる。二度三度と繰り返されるうちに、とうとう大きな隙間が出来た。

 シードルベアの腕力を持ってしても、檻はそれに耐えうる仕様である筈だ。ではなぜこのような事が起きるのか、獣医師達は結論に達する前に、慌ててその場から逃げ出した。そうせざるを得なかった。


 彼が自由を手にしたからだ。


 巨躯を揺らして、シードルベアは檻の外へと踏み出す。そして、空を割らんとするように、咆哮を放つのであった。




「これはッ!?」


 街路へと躍り出た朱音は、その光景に絶句する。

 自由の身になった魔獣が、そこかしこで暴れまわっていた。


 せめてもの救いか、倒れ伏す人間の姿は見当たらない。しかし、阿鼻叫喚の只中である事は疑いようもなかった。


 襲われそうになった人々は、何とか身近な建物へと逃げ込んだようだが。群れた魔獣が執拗に扉を引っ掻いては、唸り声をあげていた。


 しかし、恰好の獲物が現れた事で、標的をかえたようだ。扉から目を離した彼らは、事態の把握をすべく動きを止めた。その焦点は、確実に朱音を捉えている。


 グリップバード。

 手と足に鋭い鉤爪を持つ鳥類型の魔獣。

 二本の脚は太く、尖った爪先は猛禽類のそれとよく似ている。腕には短い翼が生えており、体高は朱音の腰ほどで、そこから長い首がしなる様に伸びていた。

 空を飛ぶには貧弱だが、下肢の発達具合から走るのは得意そうだ。


 獰猛そうな見た目だが、木の実や果実などを好んで食べる。木登りをはじめ、物を器用に掴んで巣へと持ち帰る習性があり。この姿から、グリップバードと名付けられた。


 グリップバードは、威嚇するように長い嘴をカチカチと打ち鳴らす。同種の魔獣が計四匹、朱音の方へと向きなおった。


「そこはペット不可だってさ。入店は諦めるんだな」

 

 朱音はそう言うと、剣を構える。言葉の意味は分からずとも、こちらの意図は察したようだ。

 一鳴きすると、強靭な足で地を蹴った。駆け出した鳥擬きの速力は、やはり早い。


 およそ六メートルほどあった距離が、瞬く間に縮む。朱音はグリップバードを見据えたまま、機を狙う。それは瞬刻の出来事だった。


 先頭を走る一匹が、飛び掛かろうと僅かに身を屈める。腰と膝で、跳躍の力を高める為の予備動作だ。

 ばねの様に足を伸ばし、地から離れた魔獣はその鉤爪を突き出す。


 が、その鋭利な爪先が朱音に届くことはなかった。

 

 魔獣より、一歩遅れの踏み込み。しかし、彼女にとっては問題ではない。

 空を裂く雷光の如く。その速さは、グリップバードの速力を優に超えたものだった。


 朱音は勢いのまま、振りかぶった剣を打ち下ろす。脳天に向けて放たれた一撃。

 魔獣は最後まで、それが剣であると認識出来なかった。眼前に突如現れた、巨大な一本の柱に見えていた。


 刃を潰されているとはいえ、それは相当な衝撃だ。石を叩き割るような音と共に、崩れるグリップバード。

 朱音は、剣を振り抜く力を殺さず、右足を軸に身体を捻る。


 倒れ込む身体に肘鉄を打ち込み、両サイドから強襲しようとする魔獣の進路上に押し退けた。

 怯んだ隙をつくように、朱音はもう片方の魔獣へと剣をのばす。地を這うようなその剣閃は、的確に足を捉えた。


 片手とは言え、遠心力が加わったその一振りが強堅な骨を砕く。

 支えを失い、地を跳ねるように転がったグリップバードは、強かに体を打った。起き上がる事もままならず、力なくその場で呻いている。


 相次いで仲間がやられたことで、残りの二体には明らかな動揺が見られた。臆したように後ずされば、陽光を弾いた剣が、既に喉元へと伸びていた。



 休む暇もなく、朱音は次々と魔獣を打倒していた。


 しかし、その表情には疲労の色が浮かんでおり、全身から吹き出した汗が肌を伝っている。

 既に十数匹の魔物を沈めたが、尚もその攻勢は緩まず、朱音に牙を向けていた。

 

 魔獣は、身体能力を含めあらゆる面で優れている。高い魔力を有すると言う点でも、形態が似ている『動物』とは、一線を画する存在だ。

 筋や骨、内臓の強靭さに加えて、内在する魔力を本能的に扱う。より速く、より強く、獲物や外敵を仕留める事に使われる。


 並みの攻撃では、致命傷どころか武器の方が持たない。鉄パイプで鉄の塊を殴るようなものだろう。

 朱音が手に取った武器は、素材の良し悪しで言えば普通である。作りは良いが、安価な鉄製品の枠を出ない代物だ。


 ではなぜ、魔獣に通用しているのか。答えは単純だ。

 朱音も魔力を用いて、能力を高めているからだ。王国式の魔術ではなく、倭国特有の身体強化である。


 自然界に存在する魔力を『マナ』。個に内在する魔力は『オド』、倭国では『気』と呼ばれている。

 絶対的な法則として、オドは質量的にもマナに勝る事はない。マナは大自然的なエネルギーであり、枯渇し得ない。オドは、個人によって量が違うが限りがあり、使い続ければいつかは尽きる。


 マナはオドによって干渉する事で、初めて実働可能なエネルギーと化す。オドが尽きた場合や、元々のオドの総量が少ないと、マナをエネルギーとして運用出来ない。


 倭国の闘技である『気経術』は、独自の呼吸法でマナを取り込み、自身の気と合わせる事で、術者にとって最適なエネルギーへと変換する。これを『闘気』と呼ぶ。

 作り出された闘気を、魔力操作によって身体や武器に流し込む事で強化し、能力を飛躍的に向上させる技だ。


 これにより、朱音はグリップバードらの骨を砕き。そして、他の魔獣さえ退けた。

 しかし、ここへ来て彼女の動きは精彩を欠き始める。


 小型の猿の魔獣を袈裟懸けに打ち据えた所で、バランスを崩した。


(クソッ、……重い!!)


 忌々しそうに舌を打つ。一振りごとに、動きは明らかに遅くなっていた。

 気が枯れた訳ではない。依然として、彼女の中の力は満ち満ちと渦巻いている。


「まだやれるッ、魔獣なんかに負けてられるか!」


 己を鼓舞し、柄を握りしめた。

 自身を守る筈の闘気が、まるで粘性を帯びたような感覚だ。それ故、魔力操作もままならず、ある筈の無い重みまで感じる。

 

 重みは増すばかりだが、それでも膝を折る訳にはいかない。


「こっちとらもう慣れっこなんだよッ! こっからは根性勝負だこんちくしょう!」


 ブンッと一際強く剣を振った。魔獣が吹っ飛べば、入れ替わる様に新たな魔獣が飛び掛かってくる。

 朱音はやけっぱち気に叫ぶと、有無も言わさず、玉のように魔獣を打ちかえした。



 朱音が無我夢中になっている最中。警備隊はその姿を遠巻きに、行く手を遮られていた。

 彼らが無能なわけではない。むしろ、この事態に対しても迅速に行動していたと言える。


 が、魔獣の異常行動は予想を遥かに超えていた。

 隊員は後に、こう語っている。


『我々の反省点は理解していますし、勿論この件に関しての事態は重く受け取っています。しかし、あの時の状況はあまりに信じがたいものでした。まるで一つの意思があるように、種を超えた行動と言うべきか。とにかく、自然の摂理に反した様子を見せていました。本来なら、草食獣である彼らは、逃走を第一に行動する筈です。商店を抜ければ、身を隠すにうってつけの森があるのですから尚の事。あの時、自由になった魔獣は、まるで意思疎通をしているかのような、巧妙で極めて知略的な術を持って我々の進行を防いだようでした。あまりに信じがたいのですが、まるで共通の目的があるような……集合精神的なものを感じたのです』


 隊員の構成は、剣士と魔術師で構成されていた。前衛の剣士が十二人、魔術師は四人。剣士が三人に、魔術師が一人の隊を計四組作った。

 方針としては、出来る限り殺さずに捕縛するが、不可能なら殺処分というものだ。


 変わり果てた商業地区に辿り着いた隊員達は、すみやかに仕事へと取り掛かった。

 前衛が牽制しつつ、魔術師が拘束し、鎮圧化をはかる。けれど、魔獣は種族の域を超えた行動を示し合わしては、隊員達をかく乱させた。


 中型の魔獣が囮となり、商店の屋根づたいに忍び寄った小型の魔獣が。詠唱中の魔術師を妨害し、暴発を誘発。隠れていた人たちをあえて殺さず、あたかも人質のように扱うなど。

 商店街には、朱音達を除き、魔術の心得を持つ学生もいた。使命感から事態の収拾に乗り出す者も当然いたが、御するのが相当に難しい状況だ。


 なにより、魔術の暴発を目にした事が、戦意を大きく下げた。魔術を扱う事への過度の恐怖心が、行使することへ躊躇いを生んだからだ。

 警備隊でも手を焼いているのだから、彼女達に過度な期待を寄せるのは酷だろう。


「ッ!? 君、早く建物の中に入りなさい!! そいつと戦ってはいけない!!!」


 一人の隊員が叫ぶ。


 その物体は、黒く大きかった。左右に揺れる巨体は暴力的で、他を抑えつけるような圧力を放っている。

 前足を上げて、四足から二足へ。立ち上がったシードルベアが、一人の人間を見下ろしていた。

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